タイトル一文字。 同音異字から連想する物語、あいうえお順に書いてみた。
「ぬ」 ‐怒・濡・ぬ‐
な行
「嘘つき!これくれるっていったじゃん」
「言ってない」
「言った!これ、あーげるって、言った」
「これ、あーげぬ、って言ったんだよーべー」
そう、年の離れた姉は「め」と「ぬ」の書き分けも出来なかった妹をだました。
自分の大事なものを欲しがる妹にその場では強く言えない優しさ、
姉だからといて妹に自分の大事なものを譲らなければいけない不条理さ、
そんなもんじゃない。
ただの意地悪だった。
あたしはその頃から「ぬ」かどうかの判別に必要以上に注意深くなり、
邪推する癖がついてしまった。
おかげで6歳年上の彼が温泉旅行を提案してきた時も変な反応をしてしまった。
バイト先で知り合った先輩で、付き合うことになったばかり。初彼だ。
本来なら、大学入りたての私が大人の男性に泊まりがけのデートに誘われたという部分に驚嘆するところなのに、話の流れで「連れて行ってあげる」なんて言い方するから、後で馬鹿にされたような気分になるんじゃないかと瞬時に言葉じりを邪推する防衛反応が働いてしまった。
「温泉、嫌い?」
「いえ」
「嬉しそうじゃないよ」
「いやいや、嬉しいです。嬉しすぎて、でもなんで急に?」
「この間、鬼怒川温泉の話したじゃん」
「きぬがわ…」
「鬼が怒る川ってすごい名前だよね、って」
「あ、キドガワ温泉」
「ぷっ。あれで『ぬ』って読むんだよ」
「ああ、そうなんだ」
この間、駅のポスターを見て彼がキヌガワと言ったので、ポスターから派生して違う温泉の話をしているんだと思いこんでテキトウに相槌打ってた。
あれでキヌガワなんだ…地名だから読めなくても恥ずかしくないか。(いや、知名度的に恥ずかしいレベルか?)
「それでさ、地名の由来が気になって調べてたんだ」
「鬼がいたんですか?」
「いや。鬼はいないみたい。4つぐらい説があるらしいんだけどね。 ”鬼が怒るように荒々しい流れだから”が信憑性が高いらしいよ」
「へー」
「いろんなサイト見てたら行きたくなっちゃってさ。行こうよ」
”行こうよ”と言う彼の目にあたしの体は違う防衛反応が働いた。
温泉から出た濡れ髪の自分。
濡れ…
まだ付き合って数週間だよ。
あたしは笑って「る」なのか「ぬ」なのか分かんないみたいに曖昧な返事をした。
数日後、彼はバイトをやめて私の前から姿を消した。。
曖昧な返事は「拒否」と受け止められたんだろうかと少し責任を感じていたら、バイトを辞めたことに関してあたしはなんの原因にもなってないと知った。
長年付き合っている彼女が妊娠して、きちんと就職することにしたんだと聞いた。
あたしは、浮気相手だったんだ。
温泉に連れて行ったりしなくてよかったね。まだ傷が浅いよ。
そうホッとしながらも鬼が怒ったように荒らしく流れる涙に頬は濡れた。