夏の思い出を
夏休み中は地元民で賑わう海水浴場も、九月の平日では誰も泳いでいない。
それでも太陽は残った力を振り絞って波打ち際を照らしていたし、海から届く風は塩味の熱気を含んでいた。
緑を含んだ青の海に白の波と光の欠片がちらついていて、眼球の奥深くがチクチクと痛む。
私が痛みから逃げるように麦わら帽子の縁を下げて目を細めていると、隣に立つ妹も同じようにしていた。
「あっついなあ。……ねえねえ、お姉ちゃん。どっかで冷たいものでも飲もうよ」
妹が着ている真っ白なワンピースは、あの夏の病院を思い出す。
「この先に喫茶店なかったっけ。行ってみようよ」
病院を思い出す白も、この冬には別の記憶に塗り替えられるだろう。
「うんうん、あったかも。そうしよ」
この冬、妹は真っ白なウエディングドレスで身を包む。
妹は病弱で、幼い頃は入退院を繰り返していた。
体調を崩して入院なんてことはよくあったので、私はその度に父も母も妹につきっきりになるのが寂しくて悔しくて仕方がなかった。
それだけじゃない。今ならはっきりと分かる。私は妹が憎かった。
あんただけのパパとママじゃないんだ、わたしのパパとママなんだぞ。
何度そうやって叫びたかったか。大人になった今ではそう思った回数などとうに思い出せなくなっている。
妹の入院の度、私は祖母の家でお利口さんだ、流石お姉さんだと褒められながら父と母の帰りを待っていた。私が欲しかったのは褒め言葉でも、素朴な味がするお菓子でもなかったのに。
そんな我慢も数日間だけだったからこそ、私はそこまで機嫌も損ねずにお利口なお姉さんでいられた。だけど私が小学六年生の時、妹は八月の頭から九月の終わりまで長い入院をすることになってしまった。
お利口さんもお姉さんも演じ慣れていた私は「寂しいねえ」と声を掛けてくれた祖母に「お婆ちゃんがいるから平気だよ」と笑ったものだ。あの時、どうして私は父と母に泣きつかなかったのか、今でも分からない。
そんな小学六年生の夏休み。夏の思い出は、病院と祖母宅の往復で終わったのだ。
そんなつまらない夏休みを不機嫌な状態で乗り切った私を待っていたのは、夏休みの宿題からの開放だけではなかった。
日焼けをしていない教師が「みなさん、夏休みはどうでしたか」という言葉を皮切りに始めた授業は、しょぼくれた夏休みからようやく逃げ切った私に追撃をかけた。
「今日は『夏休み一番の思い出』を描きましょう」という教師の言葉に、クラスメイトが楽しそうに自慢を含んだ空気でざわめく。そんな中、私は机の木目を目でなぞるしか出来なかった。
そんな私が描いた『夏休み一番の思い出』は、七月から父と指きりげんまんをして楽しみにしていた、少し遠くの海へ行った絵だった。
そう、私は嘘を描いたのだ。
妹のせいで行けなかった、妹のせいで果たされなかった、楽しいはずだった、一番の思い出になるはずだった、嫌味たっぷりの青い海が広がる絵だ。水彩絵の具の海に、クレヨンのさざなみ。父がスイカ柄のビーチボールを持ち、母はカラフルなビーチパラソルの下で笑い、私は青い海で手を振っている理想的な『夏休み一番の思い出』だった。
そして、私はそんな楽しく明るい『夏休み一番の思い出』になるはずだった絵に、妹を描かなかった。
「お姉ちゃん、テラスあるって。テラス席座ろうよ」
妹が帽子を脱ぐと、伸ばしている最中の長い髪が潮風に踊らされる。
「いいけど。暑くない?」
「暑いよ。でも、せっかくの海の匂いがするのにもったいなくない?」
その暑さから逃げ出してきたというのに、静かでおしゃれな雰囲気の喫茶店という仲介があって、妹はすっかり暑さと友達になったらしい。
マイペースな妹に続き、私も帽子を脱いでテラス席についた。パラソルの下は風が吹くと案外涼しい。
冷たいドリンクをそれぞれ別のものを選んで注文した後、妹はメニューを端へどけて頬杖を付いた。
「あー。あっついなあ」
「だから中じゃなくていいかって聞いたんでしょ」
私が呆れたように笑うと、妹は甘えるように笑った。この甘ったるい笑顔に、義弟となる青年もほだされたのかもしれない。
妹が熱い海の匂いを肺いっぱいに吸い込み、べたつく髪を背中へ払う。
「ねえ、お姉ちゃん」
「うん」
「海って好き? 私、海で遊んだ記憶があんまりないんだよね。涼介さんも誘ってくれるんだけど、なんとなく怖くって」
妹の顔にはパラソルの影が入っている。
「そういえば、いつからか海に遊ぶの嫌がるようになったね」
妹は成長すると、それに合わせるように入院の数は減っていった。妹が小学六年生になる頃には、プールで五十メートル泳いだのだとかそういう話もしていたはずだ。それなのに、妹は海へは行かなかった。
「うん。小さい頃はお姉ちゃんと行くの楽しみだったんだけどね。――私が二年の時、夏休みと二学期の初めに入院してたの覚えてる?」
「覚えてるよ」
店員がヴァージン・モヒートとジンジャエールを持ってくる。キンと冷えたコップが汗をかいていた。
妹はヴァージン・モヒートの刺さったストローを回す。カラリカラリと氷が鳴った。
「それで、危ないって言われた時期あったでしょ。死んじゃうかもって」
「あったあった。パパもママも大騒ぎだし私もどうなるかと思ったよ。お婆ちゃんなんて仏壇に向かって祈り始めるしさ」
あれは九月の終わり、『夏休み一番の思い出』を描き終わった頃だった。妹の症状が突然悪化したのだ。あまりの雰囲気に圧倒され、あの時ばかりは私もお利口さんでいられず、泣いて父にしがみついたのを覚えている。
そんな思い出をジンジャエールの鋭い炭酸で流しこむ。
「――あの時、私、海に居たの」
「うん?」
風が吹いた。
パラソルが揺れ、妹の長い髪が波打った。熱い塩味の匂いが鼻を通り、胃の中のジンジャエールと混ざる。
「海に居たって?」
「うん。死にそうだったんだよって聞かされたあの日、私の目の前にあったのは三途の川でも天国のお花畑でも、死んだお爺ちゃんの影でもなかったんだよ。――私を待っていたのは誰もいない海だった」
妹の視線は、遠い。海の向こう側を見通すように。
「すごく怖くてね。真っ青な海に飲み込まれそうになった時、お姉ちゃんが手を掴んで引っ張ってくれたんだよ。――痛いってお姉ちゃんに文句を言おうと思って目を開けたら、病院だった」
妹は「海で溺れて入院したのかと思っちゃった」と笑った後、ヴァージン・モヒートと飲み込んだ。私もジンジャエールをもう一口。
まだ熱さの残る、九月。だけど、海には誰もいない。
「あれからずっと海が怖いんだよね。でも、お姉ちゃんと一緒なら平気かなあ。――ねえ、後で波打ち際まで行ってみようよ」
教室の後ろに描き終わった『夏休み一番の思い出』が画鋲で磔の刑に処された頃、私はランドセルを背負ったまま海を見ていた。
空気はまだ熱く、運動会の練習も嫌になるほどに太陽が突き刺さる。そんなに熱いのに、海ではもう誰も泳いでいなかった。
私は誰もいない海を見て、その熱い塩味の風を肺いっぱいに吸い込んだ。
そして、私は何かを思い立ったように小学校へ駆け戻り、上履きを踏み潰して履き、教室の後ろにあった低いロッカーに登った。
私は油性ペンを筆箱から取り出し、自身の『夏休み一番の思い出』の絵に向かい合った。
こんなことしたら、先生に怒られるかもしれない。
そんな思いも少しあったとは思うけれど、私の衝動はそんな小さな恐怖では逃げ出さなかった。
私は油性ペンで、水彩絵の具の海にいる私の隣に妹を描き加えた。私の隣で、私と手を繋いで。
黒のインクが滲んでいたし、海の上にそのまま描いたものだから妹は真っ青のままだった。それでも私はすこぶる満足し、軽やかに帰路についたのだ。
そうやってご機嫌で帰ってきた私に祖母は、妹が目を覚まさないのだと、父も仕事を休んで昼から病院にいるのだと説明した。祖母とバスにのって病院に行くと言われ、バスの時間まで祖母が仏壇に向かって手を合わせ続けるのを見て、私はようやく妹が危ないのだと理解して涙を溢したのだ。
あの時、私は何を考えていたのか。私はもう覚えていない。
ただ、憎いと思っていた妹のことだけを思って泣いたのは、あの時が初めてだったような気がする。
妹はサンダルと脱ぎ、ワンピースの裾をつまんで波打ち際でギリギリのところで波を睨んでいる。それを見た私はジーンズを膝下まで折り曲げ、スニーカーと靴下を脱ぎ捨てた。
九月の海は深い色をしていて、私が思っているよりも冷たかった。
「ほら、おいで」
私が手を伸ばすと、妹が私の手を握った。
優しく手を引くと、妹の白い足が水彩絵の具の海を踏み、クレヨンの白波を立てた。
「……来年は涼介くんと来なよ」
「お姉ちゃんとじゃないと怖いかも」
「それなら、仕方ないか。いつでも帰っておいでね」
「うん」
海から届く熱い熱気が頬を撫でる。だけど、足元は冷たい。光の欠片が反射して、妹のワンピースに映っていた。
「お姉ちゃん」
この冬、妹は遠くへ行ってしまう。これが、ふたりの最後の夏になるのだ。
「ありがとうね」
海から届く匂いは、まだまだ夏が残っていた。




