「文学」という文学
さて、何をしゃべりましょうか。初っ端から、こんな具合ではいけませんよね。もっと作品の冒頭というのは「これから素敵な話が始まりますよ」的な期待感で読者を引き込まないといけないはずでしょうが(誰に言ってるんだか)。
しかし、本当に何を話せばいいのか分からないまま、まあそれを頭の中で探しつつ、プロット用のノートに今、書いています。ノートだから、一人勝手に気ままに書き始めることができます。もし、この文章が使いものにならないのなら、ボツにすればいい。ところが、私、この文章を少しも削らずになろうに載せたいとそう考えています。
それはつまり、この話の初めにある「ネタがない」という意味の文章に魅力を感じているわけではなく、結局のところ、私にはこの作品を仕上げるための「策」が実はあるんです。
私が作品の続きを書くための「策」というのは、文学についてのことを書けばいいと思うのですよ。「文学のサイトだから、文学を書くのは当たり前だ」と言われるかも知れませんが、文学を書く時の『事情』や、自分の作品についてのエピソード的なものを書けば上手くいくのではないでしょうか。さらに付け加えると「自分の文学についての考え方」を披瀝すれば、もう少し長いこと持つのではないでしょうか。それが私の文学作品を作品らしく仕上げるための一つの「策」です。
皆さん、もうお分かりかも知れませんが、「策」はもう既に始まっているんです。文学のサイトに文字を打って文章にすること、それ自体が実は創作活動なのです。そうしたならば、第一段落目の冒頭の文章から、既に文学作品は作られていることになります。それに、文章の長さなんて、200文字を越えたら全て投稿されるんです。いいじゃあありませんか。
しかし、これは私だけの認識ではないように思うのですが、ただ単に文字を打つだけの文章と、文学(いわゆる文学)的な文章を作品として仕上げるのは、この二つではやはり後者が面白いでしょう。ただ、文学のことを書く文学作品は味付けが濃いです。胸やけがする人が出てくるでしょう。しかし、あっさりと調理しても、物足りないとおっしゃる方ももちろんおられるでしょう。
文学について、一番、問題なのはやはり僕は「物語」の問題だと思っています。これ、読み通すのに一苦労なんですよねえ、私は。僕は「物語」をちまちま読む暇があったら、マンガを読んだ方がよほど得なんではないかと思うのですよ。得、という言い方も定まってはいませんが、なぜ、人は文学を読むのでしょう。そして、芥川から太宰に繋がって、そのずうっと先のポストモダニストの作家達に、何を学ばせて頂いたのでしょうか。その学ばせて頂いたことこそ、「意味との戦い」なのです。文学者はずっと、これまでもこれからも、意味の「意味」について思考し、格闘してきたのです。
そして、「文学」というものも、個人の人生の上にあります。人生の上というのは生きている現在のその道の上にあるということで、それは「文学」だけではなく、音楽だってファッションだって、乗っかっているのです。だから、「文学」という一つの表現方法もまた、個々それぞれの人生の上に載っています。なので、文学「作品」上で、自分の人生をありのままに描く私小説は、これほどまでに当然なものは他にはないのかも知れませんね。