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たった一度の。

作者: 翠凛

連載ものとして投稿していましたが、短編として投稿し直しました。

――初めて、この人が欲しいと思った。


 最初はただの憧れの上司だった。入社して研修を終えたものの頭の中も心の中も不安の文字でいっぱいで、失敗を繰り返すどうしようもなかった私。そんな私の度続く残業にあの人は文句ひとつ言わず付き合ってくれた。怒られたことは数えられないほどある。むしろ怒られることがほとんどだった。でも、ただ怒るだけではなく、注意すべきことを教えてくれたり、早く終わらせるコツを教えてくれたり、ご飯に連れて行ってくれたり、たくさんのフォローをしてくれた。“仕事ができて部下思いの素敵な人”が私の中の第一印象だった。

 それが――、ただの憧れではないと気付いたのはいつだっただろう。お疲れさまと頭を叩かれたときだろうか、飲み会で潰れて介抱されたときだろうか、仲の良い同僚に向けた笑顔を見てしまったときだろうか、彼女がいると知ったときだろうか……気付かなければ良かった、今は心の底からそう思うけど、もう手遅れなのも事実だった。



 それは偶然だった。週末ということもあって、私は別の部署の同期と駅近くのバーで呑んでいた。そして、お会計をしていたとき、ふらふらと怪しい歩き方をしたあの人が店内に入ってきて、そのまま潰れるようにカウンターの席に突っ伏した。俯いた姿でも、すぐあの人だと分かった。だってあの人の心地よい匂いがしたから。だから、その時点で私のその後の行動は決まってしまった。


 もしかしてと勝手に想像していたことはビンゴだった。最近流れていた社内の噂。結婚寸前と言われていた彼女と別れたこと。社内恋愛なのに、社内での厭らしさは何もなくて、お似合いのカップルだと言われていたふたり、私なんかが入り込めないと諦めていたふたりが別れたなんて信じられなかったけれど。

「なんで俺じゃだめなんだ」

「好きなだけじゃだめなのか」

「どうすればよかったんだよ」

 ああ…本当だったんだと、心のどこかで喜ぶ自分に泣きたくなった。あの人は何度も何度も言葉を捨てるように吐いて、次々にお酒を口に運んだ。でも私は、それを止めなかった。もっと、もっと乱れてしまえばいい、吐き出してしまえばいい、彼女のことを恨んで嫌いになってしまえばいい。私の心は最低な言葉で埋まっていた。そのまま彼女のことを忘れて、一度でいいから……私を見て。

 ――私は、この時だけ、どこまでも、素直だった。


 荒々しい夜だった。獣のようだった。酒の勢い、ただそれだけでお互いの身体を貪って、そこに感情はなかった。私にはあったけれど、あの人にはきっとなかった。私の身体はもっともっとと、訴えるばかりで、奥まで満たされたいと、私の中にあの人の熱がずっと残りますようにと、狂ったように腰を振り続けた。たとえ、あの人の目に私が映ってなくても良かった、ただ、私があの人に触れて、あの人が私に触れて、それだけで良かった。


 ――そして、最初で最後。そう心の中で呟いて、眠るあの人の額にひとつキスを落して私は早朝のホテルから逃げ出した。


 あの熱を知って、あの人の中の男を知った。いつもスーツに隠れた身体は予想していたものよりもたくましいもので、少し筋の張った首筋も、去り際に見た寝顔も、何もかも初めて見るもの。もう一度、その温もりに触れたいと身体が図々しくも疼くけれど、そんな勝手が許されるわけもない。私は、最低なことをしたのだから。


 タクシーに乗り、気付いたらもう家の中。シャワーを浴びようと思っていた思考も今は働かず、そのままベッドへと身体が倒れた。少し見下ろしただけでも見える位置にある、いくつもの赤い華。分かってた、分かってたけど、この華が身体中にあると思うと、どうしてもあの熱を思い出してしまう。でもそれと同時に、なんてことをしたんだろう、私は何をしたんだろう、と胸が痛む。まとめていた髪をほどくと、あの人の匂いが少しだけ広がって、まるで、あの人の腕の中に自分がまだいるように感じる。どうか、このまま消えないで。あの人の記憶の中に私がいなくても、どうか私の中からは消えないで。願うのは、ただそれだけで。


――私は、あの人の匂いがしない枕に顔を押し付けて泣いた。




Fin

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