4-1
全日本ニョーイ選手権大会。
決勝トーナメントの開始からどれだけ時間が経っただろう。
どれだけの叫びと、汗と、涙と、尿が流れただろう。
時計の針はすでに深夜零時を指している。
それでも会場へ詰めかけた老若男女は眠気を訴えるどころか、いっそうテンションを上げながら最終決戦を待つ。
決勝戦スタートまで残り一時間。
その頃――。
寒風吹きすさぶドームの屋根には、袖無しの白道着を纏った青年が一人で腰掛けていた。天を仰ぎ、星空に語る。
「ジイちゃん、待っとれや。もう少し、もう少しで無念を晴らしたるからな……」
そしてドーム内、選手控え室では――。
「ふぉふぉふぉ。ワシじゃ。ちょいと邪魔するぞい……ふぉ?」
ニョーイスト代表として決勝を戦うことになる伍朗。その様子を見にきた「尿神」こと長之介だが、眼前に広がるのは予想外の光景だった。
「つ、疲れた……これで全部か」
頭にハチマキを装着し、ドレス姿のままぐったり突っ伏す少女。
「おそ、らく……理論面は完了かと。まだ仕上げは残っていますが。……私もこの短時間で、フルマラソン級の距離を走ると……かなり堪えました」
珍しくクールな仮面を脱ぎ捨てて、書類の束で豊かな胸元をバッサバッサ煽いでいる黒服メイド。
「な、なんか買い出しくらいしか役に立ってないが……。それでも連戦の後にコレはしんどい……」
決勝戦を一時間後に控える伍朗すら、なぜか汗まみれだった。
「何をしとったんじゃ、お主ら? 体ほぐしのスパーリングかえ?」
怪訝そうに長之介が尋ねる。
密室でジャージ青年と幼女、美人メイドの三名がスパーリングを繰り広げる絵面を想像したら、たいそうシュールだ。
「そんなわけない。呆けなさったかご老人」
面倒くさそうに姫梨子が返事し、伍朗も答えた。
「ああ町田さんッスか。ちょっと決勝で使う技の準備で……」
「これがニョーイ技の準備じゃと?」
控え室の中では、数々の数式が走り書きされたレポート用紙、そしてドーム内の業者用設計図とおぼしき大量の書面が散乱している。まったく何が行なわれていたのか見当つかないが。
「ところでご老人、一体なにをしに来たのだ。まさかトイレと間違って入ってきたわけでもあるまい」
わりと失礼な姫梨子の問いに、甚平姿の長之介は答える。
「ふむ。なにせ決勝戦の『尿道』使いは只者ではないからのぅ。お主が戦える状態にあるか、確認にきたわけじゃよ。ま、どんな技の準備をしとったかは見るまでの楽しみにしておくが、どうやら問題はないようじゃな。ふぉふぉふぉ……」
「いや、それが大きな問題がまだ一つ」
「ふぉ?」
伍朗は自分の股間をうっそりと眺めた。
技の準備は着々と進んでいるが、その使用条件が揃っていない。
「伸びきった包皮がですね、まだ戻らないんスよ」
銃身の炎症はひとまず薬で抑えたが、それを取り巻く包皮の伸びは手の施しようがない。
「決勝ギリギリまで治療を考えるけど、最悪、無理にでも二つ折りにして輪ゴムで止めるとかに……」
あー、考えただけでも痛い。そして実に見栄えがよろしくない。
「なんじゃ、医療班の医師に頼めばよいじゃろうに」
「それが、決勝戦に出ると話したとたん『勝手にしなさい! 私はもう知らん』ってブチ切れちゃって……」
「実に困りました」
「こんなことなら本家から医師を連れてくるべきだったか」
姫梨子も山田さんも困り果てている。
「ふぉふぉふぉ。そうかえ、そうかえ。そんな事情なれば、この年寄りが力になれそうじゃの」
「え?」
「今でこそ火星殺法は邪道技の分類じゃがな、ワシの若い頃は使用するニョーイストも少なくなかった。ゆえに……お主と同じ症状の者も多く、熱心に対処法を模索した時期があるんじゃ」
「なんとっ!?」
姫梨子をはじめ、当然誰も聞いたことのない話だ。さすがニョーイ界の生き証人。
「なーんだ、一発で治す方法が使えるんなら、もっと早く言ってくれれば」
伍朗もひと安心の表情を見せる。
「じゃがこの方法は、東洋武術の『内気功』を応用したものでな。外部から働きかけはするが、最終的な治癒にはお主自身の生体エネルギーが消費されおる」
「つまりご老人……それは」
「いかにも。ただでさえ疲労の極みにある伍朗君が、包皮の復元と引き替えに生命力を根こそぎ奪われるかもしれんのじゃ」
「ゴロー……」
姫梨子は心配そうに伍朗の顔を見る。だが本人にしてみれば逃げる理由にならない。これであと一度、戦いの場に立てるのなら。
「町田さん、頼みます」
「ふぉふぉふぉ。お主ならそう言うと思っておったわい。では、さっそく治療にかかるか。よろしいな、セコンドのお二人も?」
姫梨子と山田さん、両者ともコクリと頷く。
「あー、それともう一つじゃが。この技はワシの銃身にも生体エネルギーを集める必要があってのぅ」
ちらり、と女性陣のほうを見る長之介。視線の先には山田さんが。
「できればその、精神統一のために、そこなメイドさんのバインバイ~ンなお乳で銃身をじゃな――」
うわぁ。
っていうか九十過ぎても枯れてないのか。この妖怪ジジイは。
対して敏腕メイドは
「私は日本橋家の専属S級メイドとして、あらゆる個人データを登録しております。しかし唯一、握力の数値だけは登録できていないのです」
「……ふぉ?」
「なぜか私の使う握力計は、軽く力を込めただけで圧壊してしまう不良品ばかりで」
壁際に立っている山田さんの腰あたりから「めきっ」と破壊音が聞こえた。控え室のコンクリート壁が、後ろ手にアイアンクローで抉られていたのだ。
「よろしければご老公、ご自身の股間で測定なさってみますか?」
笑ってない。口元はちょっと微笑んでるが、メガネの下が明らかに笑ってない。
「……ちょっと町田さん、あの日本橋家のメンツを怒らしたらヤバいですって」
思わず見かねた伍朗が長之介に耳打ちした。
「あいつらは平気で宝物を握りつぶすだけじゃない。それを金にまかせた先進医療で再生して、また握りつぶす……そんな連中ッスよ」
「ひっ、ひいっ……。鬼じゃ。鬼嫁じゃあ!」
「俺も同感ッス」
あと嫁はカンケーない。
こうして十五分後。
「あのー、ひとつ質問が」
「なんじゃね?」
「俺はあとどんだけ、この恥ずかしい格好を続けなきゃならんスか?」
「うむ、残り五分といったところかのぅ」
「……五分か……」
場所は先ほどと同じ控え室。
長之介と伍朗は、伸びきった包皮を復元する気功治療に明け暮れていた。
「ほれどうした、逃げるでない。互いの銃身が離れてきておるぞ。密着ギリギリまで、ミリ単位を見切るんじゃ!」
「とっほっほー。キモい、超キモいよこれ……」
二人のニョーイストは「電車ごっこ」のような体勢。ただし両者がほぼ密着状態で向かい合う位置関係だ。互いに銃身を近づけ、長之介と伍朗の尿気を同調させている。
まさにノーマルな男にとっては地獄絵図。しかも長之介は銃身へのエネルギー補給のため、売店で買ってきたアレな雑誌を読みながらだ。
「ふぉおおおぉ! なんちゅう水着の食い込み方か! けしからん、最近の若い娘はけしからんっ!」
「あんまり目の前で変なページを広げないでくださいッス……」
この体勢で勃起したら目も当てられん。
「あのメイドさんが快く協力してくれたら、こんな本も要らんかったわい。だいたいワシの金で買ったんじゃぞ」
「売店までパシらされたのは俺でしたけどね……あ、ちょっと今めくったページ、もう一回」
「最悪だなコイツら……」
姫梨子は自分の計算式を検算しながら、グダグダな野郎どもに呆れていた。ちなみに山田さんはドーム内を駆け回り、「技」の最終調整を行なっている。
そんなこんなで、ようやく五分経過――。
「さあどうじゃな? お主の銃身を確認するが良い」
長之介が伍朗から股間を離して言った。
まさかこんな短時間で都合よく……と実は半信半疑だった伍朗たちだが、
「うおっ、ほ、ホントに治ってる!」
下着を覗いた伍朗もびっくり。あんなに伸びた包皮が、見事に元のポジションへ戻っていた。
「ふぉふぉふぉ……。ニョーイの長い歴史には、このような技もあるということじゃよ」
「アタシからも感謝するぞ、ご老人」
「気にすることはない。困った時はお互い様じゃて。……まあ嬢ちゃんには恩返しとして、十年後ぐらいに成長したお乳――もげらっ!?」
「なにか仰られたか?」
姫梨子の小さな手が、老人のオムツ深くまで容赦なくめり込んでいた。
っていうか百歳過ぎても現役のつもりとは図々しい。
「ひいいっ、鬼じゃ、鬼孫じゃあ!」
「あんたの孫でもないッスけどね……」
ともかく包皮は見事に復活。
「よしゃ! 回復記念に基本型――『黄昏のテムズ河』やってやるぜ」
ちゃきっ、じー、もろんっ、(※放尿省略)……しゅたっ。
「ごきげん尿(キラッ☆)」
あらゆるニョーイ技術の原点とも言われている|型の一つ「黄昏のテムズ河」を難なくこなした。
「おおっ。型も完璧じゃないか、ゴロー」
見ていた姫梨子もご満悦だった。
だが長之介は驚いた表情をしている。
「お主、その『テムズ河』……どこで習いおった?」
いやに真剣な口調だった。
「え、いや、普通に入門書ッスけど。なあ?」
姫梨子に同意を求めた。
「そうだ。だいたい『黄昏のテムズ河』は『麗しのメアリー』『雨に歌えば』などと並び、ニョーイで源流の七型と呼ばれる基本型の代表格。どんな初心者ニョーイストでも知っているはずだろうに」
それを細かく気にするとは……伍朗たちは長老の意味不明な態度を訝しんだ。
「ふむ。ならばお主が参考にした書名を当ててやろうか。――『和訳 尿偉指南書』の初版本ではないかのぅ?」
「まさか……なぜ」
驚いた顔で、姫梨子がバッグから大量の本をドサっと取り出す。その中にはたしかに「和訳 尿偉指南書」初版本があった。姫梨子がニョーイに興味をもって関連書籍を手当たり次第に漁っていた時、ある古書店の奥で見つけたボロボロの一冊だ。値段はわずか五十円。
「ふぉふぉふぉ。やはりのぅ。日本のニョーイ黎明期に記されたその本だけは、ニョーイ公の直筆による『テムズ河』の型指南が載っとるからな。現在の『テムズ河』とはわずかにフォームが違うんじゃよ」
「はぁ、そうなんスか」
心底どーでも良さそうな豆知識をありがとうございます。
「しかし気になるのは……お主ら、なぜ数あるニョーイ書の中から、わざわざ古い挿絵の本で『テムズ河』を修練したのじゃ?」
「たしか拘ったのはゴローじゃなかったか?」
「ああ、そうだった。いろんな本を読んだけど、なんだかコレが『しっくり来る』ような気がして……」
その話を聞いた長之介は、いきなり大声で笑い始めた。
「ふぉふぉふぉ、ふぉーふぉっふぉっふぉ!」
「ん?」
「ほにゃ?」
そして眼をぱちくりさせる選手とセコンドに
「いやはや、長生きはしてみるもんじゃ。基本技さえ満足にできんニョーイストが跋扈する昨今、ワシもしばらく表舞台から遠ざかっておったが……。ふぉふぉふぉ。こうして今日、お主と出逢えたのは――老い先短い年寄りへ、ニョーイ公からの手向けかもしれんのぅ」
「……なあ、俺にはさっぱり意味が分からん」
「……アタシもだ。いよいよお迎えが近いか、あのご老人」
そんな陰口も気にせず、ひとしきり笑った長之介。
「おっと、あまり年寄りが長居しては調整に差し支えるかのぅ。ではそろそろお暇するとしよう」
「それはどうも、大したお構いもできませんで」
「ゴローの治療は感謝しよう、ご老人」
「うむうむ、ワシもお主らの健闘を祈っとるぞ!」
ドアを後ろ手に閉めて、長之介はひとり呟いた。
「ワシも『尿神』の名誉称号を返上せにゃならんかのぅ」
伍朗青年は知っていたのだろうか。『源流の七型』はその名に反し、六つまではニョーイ公の高弟が後年に残した亜種だということを。唯一『黄昏のテムズ河』だけが本当にニョーイ公の開発した最古の源流だということを。……否、知っているはずがない。
そして、一切のアレンジが加えられていない古書を偶然入手し、ニョーイ公直筆による『テムズ河』を伍朗青年は見出した。ひたすら愚直に型を繰り返して、もはや完璧に我が血肉としている。
何より。伝え聞くところによると、彼は嬢ちゃんが街角で偶然に拾ってきた選手だという。
まるで何者かが導くように紡がれた、運命の連鎖。
これらの符合は何を意味する?
きっと何かが起きるとすれば、この決勝戦――。
「……あの若者、どうやら神に愛されておるわい。ワシなんかではない本物の神様にな」
人の身で尿神と称えられた男は、静かに言った。




