55 善行無轍迹! プロレス師匠!(前編)
善行無轍迹(善く行く者は轍迹なし)。
『老子』にある言葉で、筆者の座右の銘である。
轍迹とは字のごとく轍の跡で、「人が通った痕跡」のことであり、つまり「最善の歩き方は轍のような跡を残さない」という意味だ。
これをもう少し噛み砕くなら「本当にスゲーヤツはスゲーコトをスゲー自然にやるものだ」といったところか。
というわけで今回は、筆者がこの言葉を実感した中学生の頃のお話である。
ある日の体育の授業が終わり、教室で着替えているとき。
同クラスのちょいワル小僧(仮)が、何故か突然カラんできた。後で周りから聞いたところによると、授業中に何か気に入らないことがあり、その八つ当りだったらしい。
学校での筆者は大人しくて目立たない、他人様からナメられている存在だったので、軽くイジメてストレス解消しようとしたらしいのだが、睡眠不足で機嫌の悪かった筆者は鬱陶しそうに一蹴してしまった。
すると周囲への面目もあるのだろう、ちょいワル小僧がキレてつかみかかってきた。突然の大ピンチである。
しかし筆者は、実はけっこうバイオレンスな家庭環境下に育っていたので、痛みへの耐性は高く、わりと荒事にも慣れていた。
一発軽く殴られはしたものの、簡単にヘッドロックして、暴れられないように教室の隅に背中向きに押しつけた――まではいいのだが、ここで筆者は困ってしまった。
ふと冷静になってしまったのだ。
こうなってしまえば、もうこちらの勝ちだ。殴るも蹴るも自由。だがここは学校で、しかもあっという間に集まってきたやじ馬に取り囲まれている。ここで殴るのは、なんかこう、色々とマズくないか?
……というのは建て前で、筆者には一方的な暴力を振るうことへの恐れがあった。勝ち戦でヘタレるタイプなのである。
「なあ、もうやめへんか?」
一応提案してみたが、ちょいワル小僧は当然のように聞く耳を持たない。
「……どうしよう」
呟くと、やじ馬の一人が声を上げた。
「おい布瑠部、卍固めや。卍固めしろ」
卍固め。
ご存じ、燃える闘魂イノキのフィニッシュホールドである。
そしてガチなケンカをしている最中のヤツに、こんなアホな要求をしてきたのは。
誰あろう、プロレス師匠だった。
筆者の「どうしよう」を、「さあどうしてくれようか」と誤解したのだろうか。
いや違う。こいつは状況を楽しんでいる。その証拠にめっちゃ笑っている。
何を面白がっとるのだお前は――と今なら言うだろうが、動揺していた筆者は、「どうやって?」と答えた。
いや、技のかけ方そのものは知っている。
だが卍固めをご存じの諸兄なら分かるだろうが、アレは「技をかけられる側が協力してくれなければかけられない」のだ。少なくとも筆者はそう思っていた。
――が、しかし!
次の瞬間、筆者は我が目を疑った。
なんとプロレス師匠は、「こうすんねん!」と言って、
隣に立っていたドラちゃん(仮)を捕まえて、瞬く間に卍固めてしまったのだ。
「いたたたた! ちょ、おい!」
大騒ぎするドラちゃん。
「ああ、すまん。手加減はしたんやけど。ほれ、やってみ」
笑いながらドラちゃんを解放したプロレス師匠が言った。
できるかボケェ――と今なら言うだろうが、動揺していた筆者は無謀にも技を試みようとした。
なるほど関節技ならいーカンジに制圧できるな、などと思っちゃったのである。
とりあえず足をかけ、ヘッドロックを外しながら腕を――などとモタモタしてるうちに、また殴られてしまった。
「無理! じっとしててくれんと無理!」
慌ててヘッドロックし直して、筆者。我ながら間抜けな泣き言である。
「無理か? じゃあコブラツイストや。卍より簡単やで」
コブラツイスト。言わずと知れた、これもプロレス技である。
ちなみに素人が何となくかけてもほとんど効かないが、絞めるべきポイントを押さえてちゃんと技をキメればしっかりと痛い。
だからできるかボケェ――と今なら言うだろうが、動揺していた筆者は無謀にも技を試みようとした。
こっちなら手順も少ないから出来るかも、などと思っちゃったのである。
まずヘッドロックを外し――たとたんに、またまた殴られたので、再度ヘッドロック。
「あかん、でけへんって! どうやって技まで持っていくねん!」
で、また泣き言。
するとプロレス師匠は「こうすんねん!」と言って、隣に立っていたドラちゃんを捕まえて、鮮やかにコブラツイストをキメた。
「いだだだだ!」
騒ぐドラちゃん。話の流れ的に、また自分が標的になるのは分かりそうなものなのに、ぼーっと突っ立っていたあたり、こいつもアホである。
「こうや。簡単やろ」
ドラちゃんを解放してプロレス師匠が言った。
「早すぎて分からん。もっとゆっくりやってくれ」
「待て! また俺にかけるつもりやろ!」
筆者の言葉に、床にうずくまっていたドラちゃんが顔を上げた。さすがに学習したらしい。
……などとやっていると、廊下の方から「先生来た!」との声。
「誰や、ケンカしとんのは!」
やってきた担任は、プロレス師匠とその足元にうずくまるドラちゃんを見て、「プロレス師匠、お前か!」と怒鳴った。
言われてみれば、確かに誰がどう見ても、こっちの方がケンカの現場っぽいのであった(しかも既に決着がついている)。
(後編へ続く)




