05話「神が恐れる大国」
頭を洗面器に溜めた水で洗い、洗顔を済ませ、その水で口をゆすいで吐き出す。タオルで顔と頭を拭きながら髪を揃える。
鏡で顔を確認、頬を手の平で叩く。怪我で見た目が変わったことを除いても、やっぱり老け込んだ。アウリュディアに少年とからかわれたあの頃のリーレスくんはもういないか。
アルーマン語を思い出し、簡単に発声練習をしながら甲冑を装着、外套を着る。腰に刀が入った鞘を付け、兜を被る。イフェストポリ伯国の旗を付けた竿を持って、あまり寝かさないようにして肩に担ぐ。
海に面したホテルの玄関から出れば、停泊中の船が岸壁に並ぶ。青い海は陽光に輝いて、湾口にある防波堤に白い波しぶきが飛ぶ。
港の両側には海に面した要塞が築かれている。そこには要塞砲があり、入港時に礼砲を撃ってくれた。かなりの大口径で、まだ港まで結構な距離があったのに船体が震えたほどだ。
先に外で騎馬したまま待っていたファルジークに手を上げて挨拶。彼が連れてきた自分の馬に跨り、馬の腹を蹴って歩き出す。
大きな日傘を地面に突き立てた市場は賑やかである。地元の産物もあれば、東西一体何処から流れてきたのか見当もつかない奇異な物も。
街の至る所にこの土地の宗教に関連した彫刻。鳥、牛、蛇、木だ。
鳥は北の守護、交易の象徴。シログ川河口に位置し、海港を備えるハルギーブ市のことだ。
牛は東の守護、農耕牧畜の象徴。灌漑設備によって水が安定供給されている農地が中央より東部へ向かって広がっている。
蛇は南の守護、川の象徴。南の山脈からこの地方を支えるシログ川が北のザルハル海へ流れる。水量管理のためのハルザーフィル市が置かれている。
木は西の守護、防砂林の象徴。西部から迫る砂漠化を植林と灌漑による水供給によって防いでおり、拠点はハルハフハンド城である。
これからアルーマン帝国のメラシジン皇太子にイフェストポリ義勇軍の代表として挨拶、謁見しに行く。ニ騎とは言え、人も馬も甲冑姿で、目立つ外套を羽織り、旗まで担いでいるのだから街行く人々の注目の的になっている。その点でもファルジークがいて助かった。馬を誰かに預けなきゃいけないから助かる。
通りかかった、赤い帽子を被り白くてゆったりした軍服を着たハンダラット兵に胸を拳で叩く敬礼をされ、返礼する。旧パルドノヴァ王国の属国だった彼等とは言葉は異なるが、こういった所作は共通している。
石造りの橋を渡る。橋の上から釣り糸を垂らす釣り人。大きな魚を釣り上げ、拍手をもらう人がいる。
橋の上にも市場がある。中程まで渡ると目を引くのは、磨かれて錆びもない青銅製の巨大な神像。四本角の牛のような女神と尾長の猛禽のような男神だ。見下ろす神像を見上げている自分、そして周りが見ていると気付き、すぐさま正面を向く。ファルジークは口開けて見上げているので咳払いで報せる。
しばし幅の広い、凱旋式に使う街路を進む。並ぶ針葉樹、生垣、花壇。白い石造りの家の窓からは観葉植物が覗く。条例や法で統制しなければここまで見事に統一感は出せないだろう。
段々と背の高い石造りの旧城壁が迫ってくる。立派な外見だが、火砲の発達した現代では無用の長物。その代わりに、この外にはコンクリートと土で作られた背は低いがとにかく分厚い新城壁がある。爆撃砲撃でどうにかするには、山の形を変えるような量を投射しなくてはならない。しかし空爆、曲射に対しては無意味。
両脇に巨大な神像が置かれた門に辿り着き、そこを通れば日陰になり涼しさがやってくる。見上げれば侵入者を撃退するための銃眼が幾つも設けられている。巨大な巻き上げ機には鎖が巻かれ、その先には吊り上げられた巨大な鉄格子。見れば見るほど落ちてきやしないかと思ってしまう。鉄格子に削られた一列の石畳を跨ぐ。
門の外、旧城壁と新城壁の間には非常に大きな広場があり、市内に入りきれない物資や弾薬、兵士のためのテントが乱立している。市内と違って兵士ばかり、後は商人や娼婦、芸人。
石橋を渡り、メラシジン皇太子の天幕へ向かう。蒼い生地で、今までの征服業を称える歴史が刺繍されている。出自が遊牧民である彼等は、都市よりも外で天幕を張って過ごすことを好む。民族の誇りであろう。遊牧民は農耕民のような一箇所に留まって暮らす者をくだらない存在と見る。移動も出来ない住居は性に合わないらしい。
近衛隊の天幕に囲まれた、皇太子の巨大な天幕は太陽の方角へ向かって大きく開かれている。百人で横一列になってでも一回で入れそうだ。天幕はそれ以上に幅が広い。
周囲は近衛兵が警備している。羽付き帽子を被り、赤の長胴衣を着た格好で刀を携え、小銃を担いでいる。キビキビした動作で動くか、人形のように直立不動でいるかのどちらか。これだけでも威圧感がある。
メラシジン皇太子との謁見を終えた様子の各代表の面々が見え始める。擦れ違い様に顔を見れば、鎮痛だったり安堵していたりと、とにかくそれなりに緊張するようだ。
その中、鈴を鳴らしながら、割と綺麗な法衣を着た木乃伊のような僧侶が歩いてくる。気味が悪いと思いながら進むと、立ち塞がる。干乾びた僧侶の顔、目の部分は火が点ったように光っている。
「何か?」
「捨て置けぬ死相が出ている。貴公の魂に今繋がりを見せる魂は膨大極まる。此度の戦では自重することを努々忘れなきように。慈悲薄き現世には救済が求められるのだ」
「は?」
口に出した言葉は我々が使うザルハル語だ。しかし聞き取れたが何を伝えたいのかよく分からない。
「鎮魂の行脚は怠れぬ。助力の確約をできぬのが神意の歯痒さよ」
「そうですか」
わけが分からない、いい加減に受け流す。干乾びた顔は微動だにせず、鈴を鳴らしながら僧侶は去る。ファルジークに背中を叩かれる。
気を取りなおして天幕の前まで行き、ファルジークに武器と旗を一緒に預ける。武器の所持は勿論だが、旗もだ。昨日の晩になってから知って、肝が潰れるかと思った。知らなかったら、旗を寄越せと言われた時に逆上してしまっていたかもしれない。
馬を降り、脱いだ兜を小脇に抱え、近衛兵に促されながら中に入れば、雨のように吊るされた宝飾品。敷き詰められた純白の毛皮の絨毯の上に、更に見事な花をあしらった刺繍の絨毯。征服した王朝のものと思われる、旗や王冠、杖や象徴らしき物品の数々。左側には磨き上げられた黒い木材の、巨大な円卓、百以上の椅子。右側には毛皮の台座に座り、ひっきりなしに訪れる伝令に二言三言告げて返書を書いて渡すメラシジン皇太子。
先客がいる。地に額づく、市内でみた女神像そのもの姿のハンダラットの女神。青白く美しい毛並である。女神が皇太子へ謁見しているらしいが、場の空気は緊張している。メラシジン皇太子が不機嫌に喋っているからだ。
「ハンダラット兵の代わりに自分だけが出るだと? この愚か者め、立場を弁えろ。用が足りない将校しか擁しないこの国に代わって軍事を取仕切ってやろうというのに、その上兵隊すら出したくないと言うか。ここは一体誰の国なんだ? そのデカいだけの脳みそは随分と都合の良いことしか思いつかないようだな」
「ソノヨウナツモリハ」
言葉が、人の舌ではない舌で発せられる。女神が喋っているのか? それもあんなに下手にでて。
「代表として扱い謁見を許可しているが、そのような寝言を毎回ほざくようなら今後相手にせぬぞ」
「モウシワケゴザイマセン」
何とも哀れに見えてくる。今この場で皇太子を丸飲みにできそうなほどの女神が威厳もなく頭を下げている。
「無駄に喋った。私が暇そうにでも見えたか? くだらん下がれ、次」
力なくのっそりとハンダラットの女神は立ち上がり、ゆっくり、天幕に触れないよう、皇太子に尻を向けないように立ち去る。
直立歩行の狐の姿をしたカルマイ族の、侍従らしき男がそっと近寄って耳打ちで言葉をかけてくる「次は彼方の番です」頷いて返事。
大仰に名前でも呼ばれると思ったが、そうではなかった。天幕の中は不気味な程静かだ。音楽の一つもない。天幕の中を動く者は、全員が足音一つでも立てないように静かに動く。メラシジン皇太子の人となりが少し見えてくる。
以前ザルグラド大公に謁見した時は、派手な吹奏音楽とともに名前や称号を唄うように呼ばれたものだ。中の飾りは派手だが、それはそれなりの立場に権威というものがある。趣味で飾り付けているわけではなさそうだ。遊牧系の貴族なら美女美少年を侍らせていそうなものだが、天幕の中には必要最低限の人間しかいない。
女神が地面を凹ませた段差につまずきそうになりながら、大体女神の頭が押し付けられていた所で片膝を突いて頭を下げる。とりあえず当たり障りのなさそうな動作でやってみたが、どうか? メラシジン皇太子は黙ったまま。
「おい」
不機嫌なメラシジン皇太子の声に背筋が固まる。まさか何か礼でも失したか?
「この報告書を書いたのは誰だ? 署名した奴か?」
「その通りです」
紙が裂かれる音が鳴る。
「書き直せと口頭で伝えて来い」
「御意に」
違った! 良かった。だが心臓に悪い。たぶん一年は減った。
「貴公はパルドノヴァの英雄リーレス=ザルンゲレンか。勇名は聞いている」
頭に血が昇る。ああ、変な気分だ。
「は! この度は私のような」
「黙って聞いてろ」
「失礼し……」
「黙れと言った」
三年減った。
「結果を出せばイフェストポリの地位も上がる。生死問わず働きには相応に酬いる。安心しろ」
一年増えたかもしれない。
「顔を上げろ」
黙って顔を上げる。メラシジン皇太子と目が合う。目つきは硬質で澄んで見える。黄金の髪と髭が長く美しい。外見だけならば聖人と見紛うばかりだ。
「良い面構えだが、いささか緊張し過ぎだな。血色が前より悪くなっている。あと髭、旅先だからと手入れを怠っているな」
確かに普段なら毎朝刈り揃えている。今朝も簡単に行ってきたのだが、見透かされたか。
「お恥ずかしい限りです」
喋ってしまった。マズい。
「目上がそれでは下の者に格好がつくまい。帰ったら整えろ。それとも髭剃りが無いのか?」
これは喋っていいよな?
「持参しております」
「正直だな。そこは持ってこなかったと言っておけ」
メラシジン皇太子が顎でしゃくると、侍従らしきカルマイ族の男が美しい織物に何かを包んで持ってくる。
「受け取れ、名工に作らせたものだ」
「有難く頂戴します」
織物で包んだ髭剃りを受け取り、一礼する。懐にはまだ入れない。
「此度は義勇軍として参ったそうだな、殊勝である。イフェストポリの現時点での中立は有難いのだ。以上だ下がれ、次」