04話「戦地へ」
国旗や刀剣、前装式銃で飾り付けられた帆走式軍艦の士官室。壁に打ち付けられた歴代艦長の銘板は磨かれ輝いている。出港前に洗濯された絨毯の毛にはまだ弾力がある。部屋の中央には食事にも会議にも使われる長方形の机。
リーレス=ザルンゲレンは、礼装姿で時間遅れの食事を取る。丁寧でしかし神経質そうな士官室係から朝食を配膳される。
乾いた生のパンに挟んだ萎びた野菜と肉の燻製。保存料代わりの香辛料が香る。温い、酢が入った水。腐っているから酸っぱいわけではあるまい。
遠洋航海ではないので、腐った水を酒で誤魔化しながら飲んで、蛆の沸いた保存食を食べる必要はない。食品の缶詰は多少持ち込んでいるが、高級品なので数日分だけ。缶詰工場がある国がうらやましい。
疲れた顔した前当直の士官と一緒に無言で食べる。陸兵には甲板作業が無く、リーレスが起きたのは朝食の時間の後。その心算は無かったが、やはり偉くなると遅刻や寝坊をしてもいいかという気になる。良くはないが、直りそうにない。人間、自分に甘いものだ。
現在、ザルハル海を渡ってハンダラット国のハルギーブ市へ向かっている最中。出港した当初は風に恵まれず、随分と遠回りになった。今日で八日目になる。
帆船は経済的に立ち遅れている海域ではそう珍しくないものだが、軍用に帆船を使う国はどこだろうと時代遅れと断言できる。記念用や訓練用に帆船を使っているという話ではない。
食事終了、姿勢を正して瞑目、豊穣の神への感謝をする。言葉ではなく、感謝という感覚を頭の中で思い描き、納得したら終るのが正式なやり方。団体の時に行うときは、その席の一番の長が終ったときに皆に声をかける。前当直士官は横にいるが、この状況を見ると気にしなくていい。格式ばったことでもある。そのまま寝そうになるのを堪え、士官室係に目配せし、小さく「ありがとう」と言って退室。
寝ぼけ眼で、磨り減った木板の上甲板に出て、潮風と日光で目が覚める。キビキビと動き回る水兵の邪魔にならないよう意識しながら船縁へ行く。
見渡す限り水平線、遠方に見える船を眺める。これといったわけはないが、引き込まれる風景だ。それから下を見て船体が波を切る様を見て、音を聞く。飽きる気がしない。
砲声が鳴り始める。時折海上では耳にする。訓練射撃だったり、ちょっとした海賊行為だったり。しかし今回はかなり激しいようだ。戦闘か? しかし何だか砲声すらのどかに聞こえる。
ハリスラムがマストの上から縄を伝って滑り降りてくる。手には望遠鏡。
「リーレス殿、大きな海戦が遠くで始まりました。もう少し遠回りをすれば戦場は避けられるでしょう」
「海戦には加わらないのか?」
「海賊が狙うの弱い獲物だけです。軍艦なんか狙って船に傷がついたら損するだけ。人も死んで割にも合わない。それにこの船、使いどころは別にありますので」
「分かった、船長に任せる。陸亀は専門埒外だな」
「心得ました。しかし妙ですな」
「何がだ?」
「マンゼアのザルハル海艦隊には、ハンダラットの艦隊を撃破して制海権を取れるほどの戦力が、ザルグラドの船を全て無傷に接収できたとしても無いはず。このような海戦を起こし、悪戯に貴重な艦船を傷つけ沈めては今後の行動に差し障ります。間抜けでないなら魂胆があるはず」
「おかしくないか。ハンダラットは小国で、大した数の船も持っていないだろう?」
「普段ならばそうです。しかしハンダラットの国旗も掲げているアルーマン帝国の艦隊がいるのです。宣戦布告もしておりませんので、ユーゲルガント正規戦条約の抜け目を狙う手法としては、艦隊をハンダラットへ捨て値で売却し、乗員をそのまま軍事顧問として派遣し、終戦したならば返品といったところでしょうか」
「おかしなことしか喋っていないと思うが」
「まあ、私は大陸の気性は理解しかねます。国旗ですが、アルーマン海軍は歴史も伝統も浅く、昔から艦隊の運用経験というものがありませんでした。近年になって外国人を大量に雇用して艦隊を作成したそうです。傭兵みたいなものですから、国旗に誇りも愛着も無いのでしょう。私等でしたら、イフェストポリ以外の旗を掲げて海に出ろと言われたら反乱を起こしますよ」
「その艦隊はどこから現れたんだ? アルーマン艦隊の話なんて、ザルハル海で聞いたことがない」
「アルーマン帝国には海のように広い淡水湖があります。そこから大河、グラデク川が流れ、ザルハル海にです。グラデク川は地図でしか見た事がないですかな?」
「そんなに広いのか?」
「ここから見える風景と、グラデク川で見る風景、大差はありません」
仕事がある、と言ってハリスラムは胸を叩く敬礼、こちらも胸を叩く敬礼で返すと立ち去る。
陸の兵士達が寝起きしている船倉へ向かうことにする。部下に朝の挨拶をしにいくのだ。用も無く上官が顔を出して威圧するのは良くないが、彼等の様子が気になって仕方がない。他の船に乗る者達の様子もみたいが、一々そんなことで小船を出したり、接舷してもらっては船団に迷惑がかかる。これには自己満足程度の意味しかない。
上甲板から狭い階段を降り、船倉に入る。暇そうにハンモックに揺られている者もいれば、もう何度やったか分からない武器の手入れをする者、カードやサイコロで遊んでいる者もいる。ファルジークのように、甲冑を着たまま腕立て伏せをするような者もいる。長いこと続くものではないので、その内寝転がり始めるだろう。
「精が出るな」
声を掛けたこちらに気付いたファルジークが跳ねるように立ち上がり、「気をつけッ!」
今までダラダラとしていたもの達が一斉に立ち上がり、姿勢を正す。勢いあまって跳ねてきたサイコロを空中で掴み、持ち主の所へ放り投げる。ハンモックから転げ落ちた者が立ち上がるのを待つ。
「士気はどうか?」
「直接聞いてみるのが早い」
さて、誰に聞こうかと各人の顔を順番に見ていると、髭も薄い若い奴が威勢の良い言葉を吐く。
「我等イフェストポリの戦士には死こそが名誉! 戦って死に、英霊達と肩を並べることを目指すものです!」
皆、笑う。そして他にも勇敢な言葉が返ってくる。分かっていたが、こう返ってこないのではないかと恐れていた。
「結構、それを聞いて安心した」
船倉を出る。背後でファルジークが「敬礼!」と号令をかけ、ドンッと胸を叩く音が重なる。
次ぎに一等船室へ向かう。やることがないから挨拶周りなんて殊勝なことをするようになった。船は狭く、常に人が往来するので剣や槍を振るうわけにもいかない。
狭い通路で道を譲ってくれた水兵に礼を言いながら一等船室に入る。
扉を開けると、中は少し臭う。少しでもないか、嘔吐物の臭いだ。さほど揺れてはいないが、普段は気位が高い魔女アウリュディアは脚で挟んで抱えたバケツに腹の中の物を流し込んでいる。呼吸の度に少し唸る。出港当初は堪えていたようだが、今では遠慮が無い。食べないわけにはいかないからと、ちゃんと毎回食べて毎回吐き戻している。考えただけで喉が腫れそうだ。
「おいババア、その酷いツワリは何時終るんだ?」
ベッドに腰掛けながら真顔で言うティムール。遠慮なくアウリュディアをババアと呼ぶなんて、自分にはとてもできない。
アウリュディアが投げた枕をティムールは避け、立ち上がる。
「大将、おはよう」
「ああおはよう」
そしてティムールは部屋から出て行く。
「リーレス、海の方が騒がしいようだが?」
アウリュディアは何事もなかったように喋り出す。冗談を言う口は持ってないのでそっとしておく。
「遠くで海戦が始まったそうだ。我々はそれを避けて目的地へ向かう」
「それが賢い」
ボロ切れで口を拭いながら答える。
「私の魔物には海が得意な奴が少ないからな。陸までは正直戦いたくない」
魔物、アウリュディアが魔法で呼び出す異形の生物達。旧パルドノヴァ王国で幾つもの死線を乗り越えてこられたのはその魔物のおかげだ。
「陸に上がったら頼むぞ。前よりも敵の数だけは多い」
「任せろ。その内噂だけで敵が逃げ出すようなことをしてやるさ」
アウリュディアが手招きをするので近寄る。においが、まあ少しキツくなる。
「見ない間に傷が増えたな」
「そうだな」
「あれから大分経つな」
そして胸に手を当てられる。少し困惑し、次ぎの言葉を捜していると荒い息遣いでアウリュディアは深呼吸を始める。また気持ち悪くなってきたらしい。あのアウリュディアの吐くところは見たくないので部屋から出ようとし、声がかかる。
「待て。噂では軍事統帥権がハンダラット国からアルーマン帝国のメラシジン皇太子に移っていると聞く。挨拶の仕方とかは分かっているのか?」
そう言われると、全くその点について勉強してきていない。マズい、これは結構マズくないか? 顔から血の気が引く気がする。そのバケツ、借りる事になるかもしれない。
「挨拶はどうやったらいいんだ?」
「お偉方の礼儀まで知らん。一番年寄りで位も高いプルフラム卿に聞くのが妥当だ」
急いで部屋を出て、早歩きで進む。まずは食堂へ向かう。道行く部下にプルフラム卿を見なかったかと聞くと、食堂でお祈りをしていると聞く。予想的中。プルフラム卿は司祭の資格を持つ。従軍司祭の経験はリーレスの人生より長い。
食堂に入り、壁に寄り添うように立って待つ。各席には非番の水兵達が手を組み合わせて瞑目している。プルフラム卿は軍装姿でゆっくりと食堂を歩きながら、戦神の預言の一節と水神の預言の一節を組み合わせた言葉を唱えている最中。下手な司祭がやるとかなり支離滅裂になるのだが、プルフラム卿はその点かなり上手だ。
そしてお祈りが終り、水兵が解散したところでプルフラム卿へ尋ねる。
「プルフラム卿、ご相談したいことがあります」
「私で良ければ」
「軍事統帥権がハンダラット国からアルーマン帝国のメラシジン皇太子に移っていると聞いております。イフェストポリの代表としてどのような順番で挨拶をすればよいのか、お聞きしたいのです」
プルフラム卿は一度頷き、考えるように髭を撫でてから答える。
「ハンダラット国各太守への挨拶は省略してよろしいでしょう。一人へ挨拶するなら、全員にしなければ礼を失することになる。彼等は平等な立場です。しかしそんな時間も余裕もありません。そもそも今回は軍事的な要素に限る訪問なので、軍事の最高責任者に相当するメラシジン皇太子以外に会う必要は無いと考えます。また挨拶の具体的な仕方ですが、多民族、多種族国家のアルーマンだから細部にまで気を配る必要はありません。無難でいて相手へ敬意を表す所作を行えばよろしいでしょう。また念のためですが、奇抜な行動は我が国のやり方ではありえないが、差し控えられるように。地味にやるのが一番です」
「どうも、ありがとうございます、プルフラム卿」
「いえいえ。年寄りは知恵と知識を披露するのが仕事ですから。今後も遠慮なくどうぞ」
左胸に拳を当てて敬礼。プルフラム卿も同じ動作で敬礼。
食堂を出る。とりあえず今やれそうなことは全て終った。動き回っていては水兵の邪魔になる。陸兵は自室に篭るのが一番。部屋で挨拶の仕方を練習することにしよう。
そして副船長室へ戻り、まずはどのような体勢がいいかとまず考える。膝を突いて頭を下げつつ恭しくだな。
アルーマン語に関しては、旧パルドノヴァ王国の異変の時に行動を共にしたアルーマン軍の兵士達に感謝しなくてはいけない。アルーマン語の綺麗な言葉遣いも教えてくれた将軍には特に。それから横着しないで外交交渉や表敬訪問の時に伯爵についていって正解だった。アルーマン帝国の上流階級の言葉を良く聞けたし、自然にアルーマンの人達と会話もできた。そこは問題ない。
あれこれ考えていると、扉がノックされる。「どうぞ」と一声掛けると、ティムールが尋ねてくる。
「どうした?」
冗談を言うときでも真顔な奴だからなんとも言えないが、何時になく真剣な表情に見える。
「あんたらと生活して、その習慣や思想は大体理解した心算だ。それを踏まえた上で言いたい事がある」
「言い辛いことか?」
手で部屋の椅子を指し、着席を促すと手を軽く振って拒否する。
「ああ言い辛いな。簡潔に言うと戦って死ぬな、と言いたい」
「いきなり無理な話をするんだな」
「無理ではなく、難しいと考えてくれ。まだあるぞ、義理堅いのは美徳だが、それが何時も正解とは限らないことだ」
「義理を守れない者に生きる価値はないぞ。生きていても、それは生ける屍のようなものだ」
哲学的な話は苦手なのだが、途中で止めるような話でもないな。
「固いのはチンポだけで十分だ。思考は柔軟にしろ」
ティムールは自分の股ぐらをガシっと掴む、冗談なのか真面目なのか本当に分からない。
「筋道通らぬ名誉は無し。ティムール、お前が何故そんなことを言うのか理解できないな。戦士だろうに」
「ワシを見ろ。前線で泥被るような兵隊以外の仕事をしたことがない年寄りが今も元気に生きているんだぞ」
「その年寄りが言うからその通りにと?」
「ああ」
「それは分かった、一つの生き方だ。だからと言ってやることは変わらないぞ」
「戦って死ぬ結末以外を考える、ということを頭に留めて置いてくれ。飢え死にとか病死も違うからな」
「頭に入ってこないな、その戦って死ぬ以外を考えろってことが。再起不能の傷病者になったら死ぬ以外にないしな」
「今日はここまでにする」
「ああ、またな」
ティムールは部屋を出て、静かにドアを閉めて去る……と思いきや、手だけ出してバイバイと手を振る。冗談なのか何なのか分け分からない。
しかし何が言いたかったのか? 名誉に生きて戦って死ぬ以外、戦士の存在価値などないだろうに。遅かれ早かれどうせ誰でも死ぬのだ。死ぬなら名誉ある死以外に何がいる?
ルファーラン国際空港の一角。個人所有の飛行機に紛れ、ベルガント社の輸送機や給油機、戦闘機が並ぶ。
八十田連一は遠くに見える、忙しなく離着陸を行う旅客機を眺めながら、汚いバケツに入った濁った水に浮かぶ煙草の吸殻の数を着実に増やす。煙草の味はこっちの世界の方が美味い。砂糖と香料の量が段違いだ。
煙草の箱を振り、煙草を出そうとする。なかなか出ない。振る、出ない、振る、出ない、逆さにする、出た。箱を握り潰す。感触に違和感、箱を破れば折れ曲がった最後の一本。ポケットに突っ込む。無事な一本を咥えて火を点ける。街頭で配っていた広告付きのライターを使う。今吸っているのはその広告の煙草、意外と効果はあるものだ。
「おう色男、鼻曲がってるぞ」
「もう直った」
バケツを囲む人だかりに加わったソルの顔へ、鼻から出した煙をかける。
「やめろ鼻水飛んだぞ」
ソルは連一の鼻の穴に指を突っ込み、そのまま連一が咥えていた煙草を取り、一吸いして返す。その後、自分の煙草を取り出して火を点けて吸い出す。
この傷っ禿げがある坊主頭のソルハージ=ダレシュとは、喧嘩もしたが仲良しだ。ユナキは雑兵一匹相手にあれやこれやしてくれる程暇な人間ではないので、シェテル語での日常会話の大半は彼に習った。おかげで喋り方まで似てきた気がする。
「これから忙しくなるからよ。こっちの世界に来ただの何だの悩む暇も無いぜ。たぶん、腹減った死にたくないとか考えてる内に死ぬ」
「その前に食われちまうかもな」
通りかかる、鼻が敏感なダルクハイド族の一団がこちらを見ながら顔をしかめる。煙でも吹きかけようものなら喉笛を食い千切られるだろう。兵隊というよりは殺人鬼のような凶悪な人相の奴ばかりだ。連一の鼻をへし折った女、サイとかいう奴もいる。奴も例外に漏れず、目つきが一段と悪い。そのサイに向かって手を振ってみると無視される。仲間だというのに冷たい奴。
そのダルクハイド族含め、連一もソルも着用している野戦服は緑が少し入った砂漠迷彩柄。両肩にはベルガント社の社章、胸には自分が所属する会社や部隊の社章に部隊章だ。
この世界にはユーゲルガント正規戦条約なる国際条約があり、民間軍事企業のような傭兵組織も批准している。所属が分かる軍服の着用が義務付けられており、それに違反すると条約によって保護されない。仲間に迷惑がかかるから死んでも破るなと教えられている。
腕時計を見て、まだ出発まで時間がありそうだと考えていると、対面で不味そうに煙草を吸っていた中年女が、バケツに吸い終えた煙草を投げ入れてから、軽く咳払いして酒焼けしたカスれ声を出す。
「陸さん、悪いが一本分けてくれないか?」
ポケットに突っ込んでおいた折れ曲がった煙草を手渡す。この中年女の耳は直角三角形、だいぶ垂れ下がってきている。
「ん?」
曲がった煙草を眺める中年女。操縦士用のヘルメットを脇に抱え、操縦服を着ている。
「それ最後の」
「すまんな」
曲がったままの煙草に火をつけて吸い始める。変わらず不味そう。
「あ、何であいつがいるの!」
風呂場で見た記憶があるアラブ人みたいな少女、シェテル族の少女が今度はベルガント社の制服姿で現れる。おまけに人の顔に指差してやがる。印象的な光景だったので顔も体もよく覚えている。相手は、髭剃って髪も切ったこちらの顔が良く分かったものだ。
「人の顔指すな」
中年女がヘルメットでシェテル族の少女を殴る。
「ごめんなさい」
シェテル族の少女に向かって笑顔を向けると、なぜか怒る。
「この、私の裸見たくせに!」
「あんなもんで男喜ばせようなんざ十年早いぞ」
「んん! 何か言ってよ」
中年女の袖を掴んで引っ張りながら可愛い声を出す。腹とケツにキスしたくなる。
「その格好なんだ? とっとと着替えて来い」
中年女がシェテル族の少女のケツを蹴飛ばすと、「はい!」と元気なお返事。
一吸いしてからバケツに煙草を投げ入れる中年女、「邪魔したな」と一言残し、頭を掻きながら立ち去る。
「おっかねぇ」
「奴等、戦闘機の操縦士だ」
今までの訓練で輸送機の操縦士と顔を合わせたことはあったが、戦闘機の操縦士とは合わせていなかった。
「操縦士なら士官待遇か? お偉いさんに失敬だったな」
「この会社、その辺は気楽だ。いちいち毎回軍隊みたいに気をつけ敬礼! ってしなくていいしな」
「いちいちそこまでやってたのかそっちの国?」
「たまの休暇でもそれだったからな、上も下も嫌な顔してやってたぜ」
「アホくせえ」
「まあその辺片っ端から徴集して兵隊揃えてた国だったからな。鉄の規律が必要だったんだよ」
一度屈伸してから男性器の位置を調節。
「お、ソル、そういえば家政婦見つけたぞ」
「あ? 早いなおい。信用できる奴って言っただろ」
「大丈夫だ。同じ国出身で、喋った感じでは真面目もしくはクソ真面目」
「知り合いか?」
「決めた時は初対面。もう何回も会ってる」
「おいおい信用できんのかよ」
「絶対だ」
「年は五〇? 六〇?」
「一六」
「お前の世界の一六歳ってどんなだ?」
「どんなって、大学校手前の高等学校の初年生。成人まで後四年、古い慣習だと丁度成人年齢」
「おいおい毛も生え揃ってねぇじゃねぇか。そこがいいのか? あ?」
「はいはい」
そして思い出す。蓮華に電話するのを忘れていた、今しよう。
咥え煙草のまま、近くの公衆電話の前に立つ。この国の公衆電話は無料で使える。電話番号を思い出しながら押し、受話器を耳に当て、呼び出し音が数回鳴り、その度に電話機を指でコツコツ叩いていると蓮華の声。
――はいもしもし。どちら様でしょうか?
蓮華との会話で忘れそうになっていた日本語も問題ない。
「連一だ。私物は持ってこれない場所にいるから公衆電話」
――はい、なるほど。そうでしたか
腹に巻いた千人針に挟めた二つ目のお守りを野戦服の上から触る。一つ目は近所の神社の必勝祈願、二つ目は手縫いの安全祈願。親戚の娘の下の毛入りのお守りの話をしたからか、この二つ目は蓮華が自前で作ってくれた。下の毛が入っているかは知らない。バラして中身を見る物でもない。
「用事は特に、うん無いな。この前見たばっかりだけど、元気か」
――大事ありません。連一さんもお変わりありませんか?
「無いなぁ。ああ、あれ、お守りありがとな」
――本物には程遠い出来栄えで申し訳ありませんが
「いいんだいいんだ、そりゃ気持ちの問題だ! これで俺は不死身だ!」
電話の向こうで蓮華が薄く笑う。つられて笑う。
――実は、あまり、言い辛いですが……
「何惚気てんだ!」
ソルが首を締めてくる。蓮華がそれに気付かず何事か喋っているが耳に入らない。
「うるせえバカ、電話中だコラ!」
ソルを引き剥がそうと暴れ、勢いで受話器を引っ張って電話機がガチャリと音を立てる。一拍置いてソルは離れる。
「すまん、何だっけ?」
――いえ、何でもありません
「おう。帰ったら飯たのむ」
――はい。この前のお夕飯は失敗してしまいましたが、連一さんが帰ってくるまでには和食の再現度を高めておきます。お帰りになる日が分かれば作ってお待ちしております
部隊行動については部外秘なので、これから何の仕事があって、それは何日から始まって何日で終る、ということは家族であっても教える事は出来ない。教えてもいい程度にしかこちらも知らされないが。
「そうか頼んだぞ蓮華。愛してる」
――はい、お待ちしておりますので、どうかお気をつけていってらっしゃいませ。ご武運をお祈りしています
「おう。あー、先に切るぞ」
――はい
受話器を元の位置に戻す。そしてバケツの周りに戻る。
耳をほじる。指先についた耳垢を吹いて飛ばす。未練も飛んだ。ソルが反対の耳に指を突っ込んでくる。
「今日は調子良いか?」
「大丈夫だ。たっぷり食って寝てマスかいて寝てきた」
「いきなりこんな知らない土地だからな。頭おかしくなる奴多いんだよ。調子良いならそれでいいや」
ソルの指を払いのける。こそばゆいので指でほじる。
「ところでよ、俺達ってベルガント社の社員なのか? ヴェルンハント連隊の社員って言うのか隊員って言うのかあれだが、どうなの?」
「俺達はヴェルンハント連隊って民間軍事企業に所属してんのさ。そんでもってヴェルンハント連隊はベルガント社と業務提携を結んでいる。帰属意識は連隊の方に持ってもらいたいが、今は拘る必要がないな。命預けあう仲間同士だ」
ソルは連一の野戦服の連隊章を指でグリグリと押してくる。連隊章は連隊長であるヴェルンハント氏の家紋で、正面を向いて笑う? 赤い口の黒い犬で、人の舌と耳の首飾りをぶら下げている。冗談抜きで悪趣味だ。
「こんなことになってんのも、ベルガントの社長のやり口が汚いっつーか見事っつーかな。良い具合に企業食ったり軍人引っこ抜いたりしてんだ」
「寄せ集め」
「選りすぐりって言え。一企業じゃ集められないような兵士に武器が揃ってんだぞ」
「他所様がよく分からないからなぁ。実感沸かねぇな」
「その内嫌でも肌で感じるから」
「ビンビンか」
ソル、腕時計を見ながら、「ビンビンだ。そろそろ出発時間だな」
ソルはバケツに煙草を投げ入れる。
「ほいほい」
同じくバケツに煙草を投げ入れる。