良くある話 でも、
船内ですずめを確保した後、興奮冷め遣らぬ彼女が唐突に開始した講義は正に専門家が語っているような光景だった。会場に用意された説明文よりも詳しく分かり易く展開される講座は一般客すら足を止める程で、終了した時には喝采すら巻き起こる出来だった。お陰で飛行船についての情報はもう十分になっている。
船外に出て更に喧騒から離れた場所に設置された休憩スペースのベンチに礼士はぐったりと倒れこんだ。
「もうダメだ。脳味噌が破裂する」
飛行船の事だけなら聞き流すつもりだったのだが、時折混ざる歴史的観測や情報に釣られてほぼ全てに耳を傾けていた。確実に礼士を狙い撃ちにした構成だ。
「それだけ楽しみだったんだろうねぇ」
「課題をこなすには十分過ぎる程の講義だったな……。俺も当分頭が痛えよ」
「今回ばかりは同意だ……。あの瓶底は伊達ではなかった」
「ふ、情けないわね男子共は」
「私の膝の上から言われても説得力無いわよ、中尾さん」
すずめの口上攻撃に耐える事が出来たのは登歌と武だけだった。他全員がグロッキー状態になっている。当の講師は一仕事終えてなお、元気はつらつだった。
「みんなだらしないなぁっ。わたしはまだまだこれからー」
唐突に空気を絞る様な音が響く。
「……だよ?」
誰かさんの腹時計だった。時刻も正午少し前である。
「体がギブアップだとよっ。良い時間になってるし、昼飯にしようぜ」
「異議無し。出店も山ほどあるし、ここは盛大にいこうぜ」
礼士と虎太郎の提案に全員が同意した。
広場の開放感と天気の良さ。喧騒の熱気も相まって出店は大繁盛といった様子である。長尾中学の生徒も列に混ざって見える。
「おいっ、場所は祭り場じみているとはいえ課外授業だぞ」
「んじゃうっきーはそこらで買い食いしてる奴ら全員にも注意してきなさいよ」
「他の連中がしているからやっていい、というモノではないっ」
頑なな態度ではあるが、正論でもある。
「じゃあ、要らない?」
「うおあっ! ど、どちら様ですか!?」
不意打ちで背後からぬるりと現れたのは、三角巾頭にエプロン姿の律だった。
「相変わらずりっちゃんは唐突だな」
「あ、この間のお姉さん」
「あの時言ってた出店ってこの会場での事だったんだ」
礼士などは慣れたものであり、巽やすずめも既に一度会っている為そこまでの驚きは無い。
「テイルロード関係の知り合い?」
「ミステリアスおねーさん、りっちゃんです。よろしくね」
登歌の問いにはきはきと両手を振って答える。内容と仕草はくだけていたが、声のトーンも抑揚なく相変わらず能面の様な表情だった。非常にシュールな光景である。
「こちらこそよろしくお願いします」
「真面目に返事してんじゃねえよ」
本来ならここは一言ツッコミを入れる場面だ。真面目に受け答えする登歌も少々ずれている。慣れない類の相手に応樹は戸惑いを隠せない。
「なんと言うか……読めないお方だな」
「こればっかりは慣れだな」
この意見には虎太郎も同意だった。
「一緒に居ると飽きないよねぇ」
「んで、何か用でもあんのかよ、りっちゃん」
「テツさんからの差し入れ。できたて」
差し出された袋の中には暖かい作りたてのたこ焼きが箱に詰められて入っていた。良い塩梅に火の通った生地にまぶされた削り節と青のりにソースが絡んで、空腹状態である礼士達にはこの上ないご馳走に見える。
「わっはぁ美味しそうっ」
真っ先に飛びついたのはすずめだった。この上なく今日を楽しんでいる。
「こんなに沢山、良いんですか?」
「お近づきの袖の下」
「昔の悪党かよ」
「しかし、今頂く訳には……」
未だ難色を示す応樹。その肩を背後から勢い良く虎太郎が叩いた。
「あんまり小難しい屁理屈言ってっとハゲるぞ優等生。こういう好意は気軽に受け取っとけば良いんだよ」
「そうそう。買い食いした訳じゃないんだから、素直に貰っておきなよ」
巽も応樹の優等生らしい苦悩に抜け道を示した。それもまた屁理屈じみていたが、間違っていない事実だ。頑なだった応樹も毒気を抜かれて葛藤に折り合いがついたようだ。
「そう――だな。ありがたく頂きます」
差し入れを受け取ってすぐに律は出店へと戻っていた。駆けていく背中を見送ると、その先は長蛇の列が出来ている店だった。律が戻る事で列が更に伸び続ける。なんとも分かりやすい繁盛の様子だ。
全員に行き渡った差し入れを食べ終えて一休み。
既に課外授業の目標は達成といって良いだろう。すずめの講義内容を考えれば過剰ともとれる。飛行船を中心とした喧騒は止む事無く、周囲の学生達も昼食を終えて遊覧がメインになっているようだ。
「さて、集合にはまだ時間があるな」
解散前の集合時間は午後三時。まだ二時間以上残っている。
「本館で歴史展みたいな事もやってるみたいだねぇ」
「良いねぇっ。みんなで行こうよっ」
すずめは飛び上がって満面の笑みを浮かべる。気力体力、共に補充しまだまだこれからといったところか。
「ごめーん。アタシもうちょっと休んどきたいから、先に行っておいて」
対して巽は少し張りの無い声で背もたれに身を預けていた。
「中尾さん、大丈夫?」
「へーきへぇき。楽しくってつい熱気に当てられただけだから、心配無用よ」
「俺がついておくから、柴門は行ってきていいぜ」
看病に名乗りを上げたのは虎太郎だった。
時間は待つだけに浪費する分には長く、全員留まっていても実入りは無い。
礼士は即決して事態の効率化を計った。
「決まりだな。行くぜ、登歌」
「う、うん。じゃあ、また後でねっ」
「あーい、いってらぁ」
心残りが拭えないのは当然であろう。半ば引っ張られる形で登歌はその場から離れていった。
右手をゆらゆらと振って後ろ姿を見送る。背中が見えなくなっても先を見つめたまま、巽は聞こえない位小さな声で呟いた。
「……いつ気がついた?」
「違和感は初めからだな。ゲーセンで会った時、他の奴なら騒音に負けねえ位の大声を出す所で、お前はブチ切れてる筈なのに声色は冷静だった。後は普段近くに居れば、その頭に乗っけたままのヘッドホンから何も聞こえてこない事位すぐに気が付ける」
「……アンタは絶対に気が付かないと思ってたんだけどなぁ」
虎太郎の観察力に感心しつつヘッドホンを外す。天然でウェーブのかかった髪が揺れる。隙間から僅かに覗く耳にはとても平時に装着する物ではない栓が施されていた。
予想はしていたものの事実を目の当たりにして虎太郎は驚きを隠せない。
「今までずっとソレ付けてたのか」
「うん。物心付いてから、ずっとよ。カモフラのヘッドホンは最近だけどね」
巽は淡々と自身が過ごしてきた世界を語った。
他の者よりも周囲の音が大きく聞こえてくる事。
慣れないうちは連鎖的に起きた頭痛で悩まされた事。
不意に響く騒音で何度も気を失いかけた事。
自分の部屋以外に落ち着ける場所が無い事。
何度か心無い同級生に知られて疎外された事。
どれもまだ中学二年生の少女には辛い出来事だった。医者には身体的な過剰反応ではないと診断され、妖異医療の診察で巽の先天妖異適正が原因とまでは分かったが、先例が無く対策の立て様が無いという。
結局物理的に音を遮断する耳栓が一番の処方となった。それでも髪で誤魔化すには限界があり、その上からヘッドホンを被る事で全てを覆い隠すようになった。
「だったら、今日みたいな祭り騒ぎの中は辛いんじゃねえか?」
虎太郎の声も抑え気味になる。その気遣いが嬉しくて、ヘッドホンを被りなおして巽は微笑む。
「いつも少しの間だけなら何とか頑張れるんだけど、今日はちょっと読み違えたっぽい。ココは騒ぎから離れててそれなりに静かだから、どうにか回復中ってとこ」
「言ってくれれば考えるってのに。……ソレが気になるってんだろうけどよ」
「とかにょんには気兼ね無しに楽しんで貰いたいからねー。あの守られっぷりは、ちょっと羨ましいけど」
「あー、くっそ。昨日の内に気が付けてりゃあ手が打てたかもしれねえんだが」
「あんまり気を遣わなくてもいいのよ。ほんのちょっとだけ、音が大きく聞こえるだけなんだし。まぁ、最近は違う使い方も見つけたんだけど」
巽は鳴らないフィンガースナップを繰り返しつつ自嘲的に笑った。
そもそも専門家が匙を投げた症状である。いくら規格外とはいえ只の学生である虎太郎に問題が解決出来るとは思えない。巽の態度は、ほぼ諦めてしまっている。
「いいや、知った以上は見過ごせねえ。新藤や白玉の無駄に伸びた知恵を使えばかなり良くなる筈だ。この授業が終わったらあいつら捕まえてすぐにでも取り掛からせようぜ」
「ぷはっ。アンタは何もしてくれないの?」
巽は余りにもおかしくて思わず吹きだしてしまう。自身満々で豪語する虎太郎だが、その内容に彼自身は全く絡んでいなかった。しかし態度を変えずに続ける。
「俺はアレだ、采配だ。科学知識も妖異知識も及ばねえが、伝手ならそこらの奴には負けねえ自信がある。だからよ、何か困ったらまず俺に言え」
言い切って虎太郎はにっかり笑った。とても頼りになるような台詞ではないのに、淀みのない語り口と笑顔は巽を安心させた。
「そっかぁ。じゃあ、お言葉に甘えよっか」
同時に浮かんだ感謝の言葉は、恥ずかしくて声には出せなかった。