12月25日
俺達をじっと見つめ、睦月は静かに語り始める。
「君達の話から想像するに…あいつはまず、俺一人を悪者にして、君達に排除させるつもりだったんだろう。そして………君達に『精霊達は君達を都合良く利用している』と吹き込んで…精霊達と君達の関係を悪化させようとしたんだろうね」
そして…俺達から賢者の石を騙し取り、ゲームの勝者になろうとした。
しかし。
「君達と精霊達との絆は想像以上に強くて…君達は彼の言葉に、耳を貸そうとはしなかった。しかも…完全悪に仕立て上げようとした俺に、君達は興味を抱き始めた。俺と君達がこんな形で接触しては…計画はパーになってしまう。だから………別の作戦を考えたんだろう」
「別の作戦って………何?」
恐る恐る訊く不知火に、睦月は難しい表情で答える。
「…精霊達と君達を、強制的に引き離すことさ………ゲームマスターの力を使ってね」
…ゲームマスターの力?
「精霊と賢者の石さえ手元に集まれば、ゲームマスターの力を更に用いて、高位の精霊を召還することも可能だからね。だから………」
「ちょっと待ってよ」
不知火が強い口調で言う。
「ゲームマスターゲームマスターっていうけどさ…あいつはゲームマスターじゃないって、あんたついさっき言ったばっかでしょ!?それに…百歩譲って、土橋が変な力使って精霊と石を自分のところに集めたんだとして…そのこととうちのお姉ちゃんがいなくなったことに、一体何の関係があるの!?」
睦月は彼女を見て、小さくため息をつく。
「まだ…わからない?」
むっとした顔をして、不知火はわかんないわよ!と言い返すが。
その話の流れであれば…もしかして。
「先輩が………ゲームマスターなのか?」
「………その通り」
睦月の言葉に…
不知火は呆然とした表情で、地面に座り込んだ。
そして…否定するように何度も大きく首を振る。
「…そんな筈…ないじゃない!?だってお姉ちゃんはゲームのこと、何にも知らなかったのよ!?それなのに」
「精霊の召還…そのトリガーになったのは何か…君達はあいつから聞いた?」
彼女の言葉を遮るように…依然低い声で、睦月は俺に問いかける。
「………キリシタンの娘の………魂が呼び寄せたって」
はっとした顔をして…不知火が言う。
「お姉ちゃんがその…キリシタンの女の子だって言うの?」
………そうか。
それなら…色々納得出来る。
『初めて会った気がしない』というウンディーネの言葉も。
それに、先輩自身の不思議な力も。
こいつが…先輩に執着していたわけも。
「おそらく土橋は、彼女をうまく言いくるめて…自分の計画に加担させたんだろうね。『精霊達は皆、土橋の管理下に入るように』とでも言わせたんじゃないかな」
「言いくるめてって…お姉ちゃんはそんなこと」
言い返そうとする不知火を…睦月は哀しげな瞳でじっと見つめる。
「………俺達をゲームから引き離す…これ以上傷つけあわないために」
………そうか。
「大事な人達に戦って欲しくないって…言ってたもんな、先輩」
「………だとすれば」
うな垂れていた不知火が顔を上げ…きっ、と睦月を睨む。
「お姉ちゃんが騙されて、あいつに利用されてんのはあんたのせいでしょ!?あんたが私達にゲームなんか仕掛けてくるから…」
「………確かに」
小さくため息をついて…
睦月は俺達に背を向けた。
「そのことに…反論の余地はないな」
「…ちょっと」
歩き出すその後姿に向かい、不知火が声をかけるが。
「待ちなさいよ!責任感じてるんだったら…」
「彼女は俺が助ける。だから君達は…ここで待ってて」
睦月が歩みを止める気配はない。
「あんたも…シルフィードいなくなって困ってるんでしょ!?だったら…」
「俺の中にはまだ、風の魔力が残ってる。プレイヤー歴が一週間たらずの…君達とは違うんでね」
彼の言う通り、俺も不知火も…精霊がいなければ何も出来ない。
「でも…俺達にも何か出来ること」
「足手まといになるだけだよ。そうなれば…余計に彼女が悲しむ」
…確かに。
だとすれば、やっぱり…
ここで睦月を待つしかないってことか。
「待ちなさい!」
不知火は…依然自信満々に、彼を呼び止めようとしている。
彼女の顔を見つめ、睦月はやれやれという風に溜息をついた。
「………何?」
この期に及んで、何か策があるとでも言い出すんだろうか。
さすがの不知火も…こいつの言う通りにする他ないと思うんだけど。
不安な俺を見て自信満々に大きく頷き、彼女はジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。
「私達にだって出来ることはあるわよ。だって………これ!」
にっこり笑う不知火の、手の平にあったもの………
俺は…言葉を失った。
「これ………まさか」
「そう!」
同じく目を丸くしている睦月に、ざまあみろとばかりに舌を出し、明るい声で彼女は言う。
「賢者の石の欠片…の欠片!ウンディーネの分とサラマンドラの分、どっちもあるわ」
「お前………こんなもん…どうやって」
「あのさ、水月…鉱石の性質には『硬い』と『脆い』があるって…中学受験でやったの、覚えてない?」
突然、何を言い出すんだ…お前。
呆れかえる俺に、得意げに片目をつぶってみせる…相変わらず楽しそうな不知火。
「この『賢者の石』は…硬いけど脆い、ダイヤみたいなものみたい」
この前、校舎の裏で精霊達と作戦会議をしていた時。
何故かご機嫌斜めだった彼女は、話に全く参加せず二つの石を弄っていた。
太陽の光に透かしてみたり、並べて形を観察したり。
「あの時、境界線でくっつけるなって…サラマンドラに怒鳴られたでしょ?だから、そこは気をつけて、適当な所をコツコツぶつけてみてたのね。そしたら………」
なんと…石が割れてしまったのである。
幸い(というか…)角が欠ける程度だったので、また怒鳴られると思った彼女は…
その場はだんまりを決め込んで、石を机の引き出しの奥深くに隠した。
それが…この石というわけ。
「お前なぁ…何でそんな大事なこと………」
「まあまあ。結果オーライだって!どう!?睦月…私達も一緒に行っていいでしょ!?」
「………すずちゃん」
「石の欠片を一つにするためには、この欠片も必要でしょ。だから、私達がこうやって持ってたら、土橋の奴石を奪いにここに来るわよ?そ・し・た・らっ?」
「…わかった、いいよ。一緒においで」
ぱっと顔を耀かせて…彼女は俺の顔を見た。
思わず…大きく溜息をついてしまう。
何よ?と不思議そうな顔をする不知火に…
俺は今までずっと思っていた事を…言葉にして伝えることにした。
「俺…尊敬するよ、お前のその…底抜けにノー天気な所」
「初めてシルフィードに出会ったのは、あの…惨劇の後だった」
『力を貸して差し上げましょう』
血まみれの若い武士に動じることなく、彼女は穏やかに微笑んだのだという。
『いつか再び彼女が、この世に生を受けたとき…あなたが隣にいられるように』
懐かしそうに笑いながら、睦月はそんな風に話してくれた。
「ゲームがどうとかも、その時確かに聞いたけど………俺としてはそんなこと、どうでも良くてさ。ただ彼女にもう一度会えるならって…それだけだった」
シルフィードが不知火先輩を見つけたのと、『手を組まないか?』と土橋が声をかけてきたのは………ほぼ同時だった。
「あいつが危険な男だっていうのは…会ってすぐにわかったよ。けど………ここで突き放して、彼女の身が危険に晒されるようなことがあっては困るからね。文ちゃんはどういう訳か、『彼女』と同じ誕生日だって言うし…」
一つため息をついて、不意に厳しい表情になる睦月。
「『彼女』はあんなことがあって…18になる前に命を落としてしまったから………彼女のこと、今度こそ俺の手で守りたいって…そう思った」
「あの…『誰にも勝ちは譲れない』っていうのは?」
不知火が訊くと。
彼は表情を曇らせて、黙り込んでしまった。
「………ねえ、ちょっと」
「………『石を一つにすると願いが叶う』って話…精霊達から聞いた?」
顔を見合わせる俺達に…彼は低い声で言う。
「石を一つにして、高位の精霊を召還し………願い事を叶えてもらうためにはね」
感情の読めない黒い瞳が…じっと俺達を見据える。
「ゲームマスターの…彼女の魂を捧げる必要があるんだ」
はっとして………
思わず…言葉を失う。
「土橋持っている、精霊使いの残した書物には…全てが書かれている。書物の記述に即してあいつが呼び出した法衣を彼女に着せて、召還の儀式を行う…」
「そうすれば…高位の精霊が召還されて」
言いかけた俺の腕を…不知火がぎゅっ、と掴む。
「お姉ちゃんは…人柱の女の子みたいに………消えちゃうって言うの?」
「………不知火」
彼女は目に涙をいっぱい溜め…睦月の胸倉を掴んだ。
「そんな大事なこと、何でもっと早く言わなかったのよ!?言ってくれたら私達だって」
「言ったら…信じた?」
「…そ…そりゃあ……………信じなかったと…思う」
ふう、と小さく溜息をついて…睦月は俺達を見た。
「…着いたよ」
それは…都会のど真ん中に建つ、高層ビルだった。
黒い雲に覆われた空に星は一つもなく、ビルの頂上は確認できない。
ビルの周囲には不穏な風が吹いており。
遥か遠くに…精霊達の姿が見えた。
「で………どうする?」
やめるならやめてもいい…とでも言いたげな睦月に、むっとした表情の不知火が怒鳴る。
「決まってるでしょ!?土橋からサラマンドラを取りかえすわ」
「…ゲームマスターの命に反して…あいつがお前んとこに戻るっていうのか?」
「あったりまえよ!付き合いは短いけど、あいつとの絆は相当固いんだから!!!」
そうでしょ!?という目で、彼女はじっと俺を見る。
不安な気持ちが無いとは…言い切れないけど。
ウンディーネ………
俺の手で…必ず元の世界に返してあげるって………約束したんだから。
頷く俺達に、睦月は穏やかに微笑みかけた。
「じゃあ、お互い自分の目的を果たして………もう一度、この場所で」
秘密を全て打ち明けた後の…晴れやかな表情。
背の高い彼が俺達の頭にぽん、と手を置いたのだけは…ちょっと癪だったけど。
「彼女がよく言ってたけど…『全ては神のお導き』だからね。また…ここで会えるさ」
一歩足を踏み入れたゲームのフィールドは…
灼熱の火柱が幾つも上がっていた。
土人形達は警戒するように、こちらに体を向けたまま動きを止めており。
穏やかな笑みをたたえたシルフィードの群勢がその背後に控え。
一番奥、水の透明な壁の向こう側に………
精霊達の姿が見えた。
『石の欠片をこちらへ渡せ』
サラマンドラの声が直接頭に響いてくる。
彼の赤い目は妖しい光を秘めているように見え…
隣に佇むウンディーネの青い瞳も、一切の感情を失っているように見えた。
二人の横には小柄なノームの姿も確認出来たが…
「シルフィードの…本体が見当たらないな」
こくりと頷く不知火と、背後に視線をやると。
睦月の姿はもう、そこにはなかった。
「あいつ…本当にちゃんとお姉ちゃんのこと、助け出せるのかしら」
親指の爪を噛む彼女に、大丈夫、と頷いてみせて。
大きく一つ…深呼吸をする。
『もう一度だけ言う…』
サラマンドラの厳しい…しかし、一切の感情を排したような声。
『石を渡せ。さもなくば』
「…全力でお断りよ!!!」
不知火が怒鳴ると。
口を噤んだサラマンドラの手のひらに…
大きな炎の塊が浮かんだ。
一瞬怯んだように半歩程後退した不知火だったが…
俺と同様、大きく深呼吸をして…両手を胸の前に掲げた。
現れたのは…シューティングゲームの銃。
それをぎゅっと握り締め…低い声で不知火が俺を呼ぶ。
「行くよ…水月」
俺も両手を左右に広げ…ウンディーネに言われた通り『球体をイメージする』
青白く光る水の塊が手の中に浮かび上がり…
俺はぐっと、前方を睨んだ。
『やる気か…小僧ども』
臨戦態勢の俺達をせせら笑うように、ノームが言い。
『ならば…仕方あるまい』
感情の無い…サラマンドラの声。
ウンディーネは依然、感情の無い瞳でこちらをぼんやりと見つめており…
俺は………
そんな彼女に、大声で呼びかける。
「ウンディーネ!今行くぞ!!!」
動じる様子は無いが…ウンディーネは、今まで見開いていた目を静かに閉じた。
それが俺には…何かの意思表示のようにも思えて。
不知火の言うとおりだ。
俺達の絆は………あいつが思ってるよりずっと固いんだから。
「不知火、気ぃつけろよ」
「あったりまえでしょ。あんたもね、水月!」
せーの、で俺達は…
精霊達のいるほうへ、同時に駆け出した。
土人形達は数を減らす気配も無く、シルフィードの分身達が起こす風に、幾度となく吹き飛ばされそうになる。
ウンディーネの元には…なかなかたどり着くことが出来無い。
土人形達に水の球を投げつけてみても、立ち上る水柱に遮られて思うようにいかず。
完全に…手も足も出ないような状況だった。
土人形や分身達の攻撃を避けながら、建物の陰に身を潜め、荒い呼吸を整える。
不知火…大丈夫だろうか。
サバイバルゲームよろしく、前回同様ゲリラ戦法をとっているらしいあいつの姿は、さっきからずっと確認出来無いのだけど…
殺しても死ぬ奴じゃなさそうだし、多分…大丈夫だろう。
と………
「!?」
目の前に突然現れたシルフィードの分身が…風の刃を放った。
咄嗟に身を庇うように組んだ両腕が、ざっくりと切りつけられる。
「いっ………」
激痛に耐え、両手を前方に突き出す。
手の平から放たれた水の塊に、分身は体を貫かれ…すっ、と姿を消した。
流れる血に一瞬…意識が遠のきそうになるが。
腕がズキンズキンと心臓の鼓動に合わせて痛むので…
どうやら、そうはいかないらしい。
苦痛に顔を歪めてしまいながら、俺は建物の陰から走り出た。
「ウンディーネ!!!」
遠くに佇む、彼女に向かって呼びかける。
「聞いてくれ!助けに来たんだ!!!」
ウンディーネは無言で、ただ虚空を見つめているだけ。
俺の声に耳を傾ける気配はない。
「先輩がお前に何を命じたのかはわからないけど…俺、お前とこんな所でさよならするのは嫌なんだ!!!だって約束したろ!?お前と別れるのは…」
周囲を吹き荒れる激しい風が急に動きを変え、俺の体を斬りつける。
まるで…俺の言葉を遮ろうとしているかのように。
ずたずたになったパーカーからは血が滴り、痛みに思わず叫び声を上げそうになるが。
懸命に堪えて、奥歯を噛み締める。
ウンディーネのもとに、この声が…届きさえすれば。
きっと彼女は………目を覚ましてくれるはずだ。
両手をぐっと握り締め…ウンディーネの姿をじっと見据え。
俺は………再び、叫んだ。
「お前と別れるのは、お前を元の世界に送り出す時だ!」
相変わらず虚空を見つめている彼女。
俺の必死の叫びを遮るように…唸る、激しい風。
激痛に耐え、土人形達の攻撃を掻い潜って………
俺は、彼女の前に…
ウンディーネの前にたどり着いた。
俺達を隔てる水の壁。
それは物凄く厚くて…
俺の声が彼女には、届いていないのかもしれない。
腕から血がぽたりぽたりと…地面に落ちる。
ズキンと全身の傷が痛み、思わずその場にうずくまる。
「ウンディーネ………」
水の壁のすぐ向こうに…彼女の姿は見えるのに。
どうして…俺の声は届かないんだろう。
感情のない、青い瞳。
ついさっきまで、あんなにきらきら輝いてたのに。
この壁さえ…無ければ。
俺はポケットの中にある、石の欠片を取り出した。
「壊してやる…こんなもん」
ウンディーネの守りの力は、他のどの精霊よりも強いと言っていた。
…俺に出来るか?
いや………出来るさ。
短く自問自答して、微かに光る石を右手に握り締め。
大きく息を…吸い込んだ。
石は輝きを増し、濃青の光が俺の体を包み込む。
腕を頭上に、高く上げる。
至近距離だし、いつもみたいにピッチングのフォームをとる必要はなさそうだ。
「行くぞ」
行くぞ…ウンディーネ。
ありったけの力を込めて。
俺はその、青く光る石の欠片を…
俺達を隔てる…水の壁に叩きつけた。
目がくらむような青い光に、周囲が明るく照らされて。
そびえ立つ水の壁は、厚いガラスの割れるような音と共に…砕け散ってしまう。
しかし。
「ウンディーネ…」
俺の声に………
彼女は、全く反応しなかった。
「ウンディーネ!?」
動揺してもう一度、呼びかけると。
彼女は堅く目を閉じ、白い右手を俺の前にかざす。
次の瞬間。
ウンディーネの手から、物凄い勢いで水が噴出し。
俺の体はその水圧で…地面に叩き付けられた。
激しい衝撃が全身を伝い、滝のような水が目の前を覆い…
呼吸が………出来無い。
もう一度、彼女の名を呼ぼうと口を開くが。
口の中に入ってくる大量の水で声が出せず、ゴホゴホ咳き込んでしまう。
…何でだよ?
どうして………
ウンディーネは相変わらず遠くを見るような目をしていて。
俺の声なんか全然、届かないみたいだ。
やっとここまで来たのに…
やっぱり…駄目なのかな。
絶望感か、呼吸がうまく出来無いからか、それとも、出血が多いからなのか。
だんだん意識が…遠くなっていく。
ゲームマスターの命令じゃ…仕方ないよな。
『ルールですから』と、彼女はきっと言うだろう。
本当にウンディーネは頑固で…
本当に…姉ちゃんにそっくりだ。
姉ちゃん…か。
そういえば、ウンディーネが姉ちゃんにそっくりじゃなかったら、俺は…
こんなゲームには、最初から参加しなかったかもしれない。
俺はあいつに…姉ちゃんの幻を見ていたのかもしれない。
姉ちゃんはあの日、煙も上げずに綺麗に燃えて。
白くて軽い、小さな塊になってしまった。
…そっか。
大好きだった姉ちゃんに、会えたような気になってたんだ、きっと。
…馬鹿だよな。
もう二度と…会える筈なんて、ないのに。
俺はこのまま………
あの日の…姉ちゃんみたいに………
『馬鹿じゃないの!?』
………不知火?
いや………違う。
………幻聴か?
『仁!』
きっと…そうだ。
『約束したでしょ?あの時』
約束………
そうだ。
『私の夢、あんたに託したからね』
久々に顔色の良い姉ちゃんにほっとして、沢山の機械に囲まれて、厚いビニールみたいな壁に隔てられながら、黙って一緒にテレビを観ていた…あの時。
『…何だよ、それ?』
動揺する自分を抑えながら、なるべく素っ気ない調子で、俺は尋ねる。
『姉ちゃん、ソフトボールの選手になるんだろ?』
『………そうだけど』
『俺がやってるのは野球なの。夢諦めんのは姉ちゃんの勝手だけど、そんなもん俺に押し付けんなよ』
そう言って…しまったと思った。
ちょっと言い過ぎたかな…
でも、正直…そんな悲しい話、聞きたくなかったのだ。
姉ちゃんは…もうあんまり、長くは生きられないかもしれない。
それはなんとなく…俺も………姉ちゃんもわかっていた。
だけど………そんな負けを認めるみたいなこと、言って欲しくなかったんだ。
姉ちゃんは、少し考え込むように黙った後。
にっこり笑って頷いた。
『まあ、細かいことはいいじゃない!野球の選手でもいいわよ』
『………姉ちゃんは?』
『私は………そうねぇ』
いつも通りの笑顔だったけど。
その目は少し…潤んで見えた。
『病気の子供に野球、教えてあげるの。だから…プレイヤーはもう卒業!その夢の続きは仁、あんたに託す』
学校の成績は、下から数えた方が早かったくせに。
こんな風に言い訳する時だけ………よーく頭が働くんだよなぁ。
姉ちゃん自身も、我ながらうまいことを言ったと思ったらしく、満足気に頷いた後。
晴れ晴れとした顔で、天井を見上げた。
『私も仁と一緒に…見るわ。夢の続き』
………負けられない。
姉ちゃんの為にも。
それに………
ウンディーネは、姉ちゃんとは違うんだ。
野球出来ないし、もっと頑固だし生真面目だし、それに………
寂しがりやで。
強がりだけど…本当は怖がりで。
姉ちゃんに似てたからじゃない。
俺は………
あいつと一緒にいてやりたかったんだ。
あいつの願いを、叶えてやりたかった。
じゃなけりゃ、こんな辛い思いして…ここに来たりしない。
もう一度、あの笑顔を…
取り戻したいと思ったんだ。
ぐっと拳を握る。
叩きつけるような水の流れの中、懸命にもがきながら。
虚空を見つめるウンディーネを、じっと見据える。
俺は………
全身の力を振り絞って…叫んだ。
「俺は…お前が好きだ!!!」
目の前を覆っていた水流がぴたりと止み。
ウンディーネの青い瞳に…
光が戻った。
唇が微かに動き。
「………仁」
その声は確かに…俺の名を呼んでいた。
「ウンディーネ!」
抱きしめた華奢な体は、何故か小刻みに震えていた。
「大丈夫か?」
「………ええ」
微かな声は、一体…何に怯えているんだろう。
土橋の命令に背くことに?
それとも…ゲームマスターの命令に背くことだろうか。
でも………
「ゲームなんてさ…」
冷たい小柄な体を温めようと、俺は腕に力を込めた。
「もう…どうだっていいじゃないか」
「………?」
「元の世界に帰れなくても…いいよ。この世界にずっと居たらいいだろ?」
「………仁」
手の中の、賢者の石の小さな欠片を握り締める。
「これは…絶対、土橋には渡さないから」
この石は…ほんの小さな一欠片だけど。
これさえあれば、ウンディーネが消えてしまうことはないのだから。
「お前のことはずっと、俺が守ってやるから。だから………一緒にいよう」
彼女の小さな手が、俺のジャンパーをぎゅっと掴んだ。
白い頬を、一筋涙が伝う。
「仁………私………」
泣き顔で、一生懸命微笑もうとするウンディーネを見ていたら。
何だか俺も、笑顔になってしまう。
「帰ろう、ウンディーネ」
俺の言葉に、彼女は小さく頷き答える。
………よかった。
ほっとして、思わず大きくため息をついた。
その時だった。
彼女の大きな青い瞳が、かっと見開かれ。
「仁!!!」
今まで聞いたことがないくらい、大きな声で俺の名を呼び、そして………
タックルするように俺の体を突き飛ばした。
「ウンディーネ!?」
何が起こったのか…よくわからなかった。
地面に倒れ、起き上がった時には…
彼女の体は、無数の礫のような物に貫かれて。
音も無く…地面に崩れ落ちていた。
「ウンディーネ!!!」
気がついたら。
彼女を抱きかかえて泣いていた俺は、いつの間にか…どこか別の場所にいた。
ここは…空が近い。
痛いくらいに風が強くて。
…ゲームの力で、ここまで運ばれてきたのだろうか。
そうだ。
あれは………
「土橋!!!」
ノームの力。
あいつの力だ。
高らかな笑い声を響かせる黒服の男に。
歯を食いしばって立ち上がり、向かっていこうとする俺の腕を…
ウンディーネが…震える指で掴んだ。
「じ………ん………」
行かないで、と………彼女の瞳は語っていた。
こわいから…傍にいて。
そんな風に…俺に訴えかけていた。
「…ウンディーネ」
白い服は血で真っ赤に染まっていて。
頬と唇は青ざめていて。
体はガタガタ震えている。
精霊も…人間と同じように………死が迫ると、寒さを感じるのだろうか。
「…やだよ………そんなの」
「じん………わ…たし………」
彼女は必死で、微笑もうとしているみたいだけど…
そんな力はもう、残ってはいないらしい。
俺にも………笑いかけてやる余裕なんて…なかった。
「死んじゃ駄目だ………」
「わたし………も………ね………」
私も仁が好きでした。
彼女は最後の息を吐ききって…そう呟くと。
すうっと………
冷たい風の中に消えた。
嘘だろ?
ウンディーネ………
どうして?
どうしてだよ。
ああ。
これは…
あの時と一緒だ。
本当に悲しい時…俺は泣けないタチらしい。
姉ちゃんの葬式の時と同じ。
俺は………たった一つだけ。
『どうして?』という言葉に、体全体を支配されて。
動けなかった。
ウンディーネの消えた空間を…呆然と見つめる俺に。
岩で出来た人のような物が、大きな手を差し出す。
ずっと離れた所で、不知火の叫ぶ声が聞こえた気がしたけど。
もう…何がなんだか………俺には全く分からなくて。
微かに青く光る石の欠片は、握力の抜けた俺の手から…岩人形の手に。
「水月!!!」
………ごめん、不知火。
声の方に、何とか目を向ける。
地面に横たわる、睦月の体。
夜風にさらさらと揺れる髪。
その体が………動く気配はなかった。
あいつ………
駄目だったのか。
そうか。
彼の頭を膝に載せ。
不知火先輩は無言で、俺を見つめていた。
いつもの優しい光を失った…黒い瞳。
ごめんなさい、先輩。
俺………
助けてあげられなくて。
それに………
ウンディーネ。
土橋は不知火を拘束しており、ピストルのような物を彼女に向けている。
人質を取られて、サラマンドラもシルフィードも身動きがとれないらしい。
一番遠く離れて、土橋の背後の暗闇の中に…ノームはじっと立っていた。
「聞き分けが良くて結構なことだね、仁くん」
土橋の低い声が、夜風に乗って俺の耳を通り抜けて行く。
「さあ、ゲームマスター!君はどうする?」
はっとした顔で、先輩は彼を見る。
「石はこれで全て揃った!そして、君のかわいい妹さんの命は…私の手の中にある」
もがく不知火の体をぐっと締め付けるようにして、彼は銃をこめかみに突きつけた。
「さあ!!!儀式を行い私の願いを叶えたまえ!!!」
「あなたの願い事って…何?」
先輩の穏やかな声が…静まり返った屋上に響く。
「…何?」
「まだその事…聞いてなかったじゃない」
はっとした表情で、不知火はバタバタ体を動かしながら、懸命に叫ぶ。
「駄目!!!お姉ちゃん!!!」
「おいおい、君は黙っていたまえ」
「うっさいわねぇ!お姉ちゃん!!!こいつの願いなんて…そんなことしたらどうなるか、わかってるの!?お姉ちゃん」
「すず」
彼女の叫びを制する…凛とした先輩の声。
「大丈夫。だから…大人しくしてて」
一体…どういう意図なんだろう。
…先輩のことだ。
ひょっとしたら、自分を犠牲にしてでも、俺達を助けようとか…
そんな悲しいこと…考え兼ねない。
「私の願い…か。そうだな………」
土橋は勿体ぶった声でつぶやき、少し緊張したような面持ちで…言った。
「私を………民俗学研究の権威に」
「………はあ!?」
不知火が素っ頓狂な声を上げる。
「世界中の研究者がひれ伏すほどの最高の権威を、私の手に………それが、私の願いだ」
「信じらんないわあんた!!!そんなことの為に、私のお姉ちゃん死なせようっていうの!?それに…あんたのせいで、ウンディーネも…睦月も死んだのよ!?」
凍りついた心に、体に………熱が戻ってくるような感覚。
怒りなのか。
それとも、悔しさか。
よく分からないけど………
不知火の言う通りだ。
こんな奴のせいで…
「あんた目覚ましたらどう!?そんなちっぽけな願い事なんか…」
「黙れ!!!」
握りしめたピストルを強く不知火に押し付け、土橋は大声で怒鳴る。
「お前のようなガキに何が分かる!?」
「だ…からっ………」
一瞬怯んだようだったが、気丈な彼女は尚も反論しようと試みる。
「それはあんたの努力不足でしょうが…」
「違う!」
不知火の言葉に逆上したのか、強く地面を蹴り、駄々をこねるみたいに土橋は怒鳴り続け。
「この業界はな…努力だけではどうにもならんのだ!何が真実であるかなど二の次、金や権力を持ったものの言い分が通る…勝ち組はずっと勝ち続け、そこから漏れた人間は…」
悔しそうに唇を噛み、不知火の顔をぐっと覗き込む。
「分かるか!?私は精霊の研究に何十年もの時間を費やしてきた。その間…どれだけの人間に絵空事と揶揄され、嘲笑われ続けてきたか………お前には想像出来るか!?」
俺と先輩の顔を見て、同意を求めるように必死な声で彼は叫ぶ。
「お前達も見ただろう!?確かに精霊は存在しているんだ!!!長い眠りから覚めた『精霊の書』は確かに本物だった!!!だが世間の一体誰が、それを信用すると思う!?だから私には石の力がどうしても必要なのだ!!!この世紀の大発見を証明し、世界に発信し…今まで馬鹿にしてきた連中を嘲笑うのは…今度は私の番だ!!!」
………信じらんねえ。
そんなことの為に…ウンディーネは。
………いや。
人の願いなんて、そんなものかもしれない。
プロ野球選手になりたいとか、そんなことだって…チンケな夢でしかない。
でも………
『元の世界に帰りたい』
そんなささやかな願いすら…俺は叶えてあげられなくて。
俺は………このまま。
先輩のことも、守ってあげられないんだろうか。
暗闇の中、静かに横たわる睦月の姿が視界に入る。
あいつ、きっと…命がけで先輩を守ろうとしたのだろう。
それなのに………
俺には…何も出来無いんだろうか。
冷たい空気に、思わず小さく身震いをして。
俺は大きく首を振った。
駄目だ。
こんなところで…無様に終わってたまるか。
まだ………
ゲームは終わっちゃいないんだ。
立ち上がった俺の前に、大きな泥人形が立ちふさがる。
「そこをどけ!!!」
「そうはさせられんよ、少年」
ノームのしゃがれた声が、背後から聞こえてきて。
急に、体が重くなる。
振り返ると。
何体もの泥人形が、俺の体を押さえつけていた。
振り払おうと懸命にもがくが…
先輩達から遠く離れたこの場所を、全く動けそうにない。
「くっ………」
「すまんの、少年」
ちっともすまなそうじゃなく、平然としたその声に、俺は思わず怒鳴る。
「お前は何とも思わないのか!?いくら敵だって言ったって…精霊が死んだんだぞ!?」
長い髭を一撫でして、彼はちらりと俺の方に目をやる。
「…プレイヤーの望むことならば、仕方がなかろう」
…何だって?
「じゃあ、お前は…」
「意に沿うか否かは、問題ではない。精霊は、プレイヤーとして選んだ人間の命に従うこと。それがゲームのルールじゃよ」
「そんなこと…納得出来るかよ!」
威勢がよいのう、と愚痴るように小さくつぶやいて。
ノームは、くるりと俺に背を向けた。
「納得出来ぬというのなら…」
そして…
ゆっくりとした動作で、片手を肩の高さに上げる。
「己の力で…わしを納得させてみよ」
急に…目の前が真っ暗になり。
周囲の泥人形達が、一斉に俺の上に覆いかぶさってきた。
「うっ………」
背中の骨が軋むような感覚。
胸が圧迫されて…息が苦しい。
冷たい泥に、体温もどんどん下がっていくような気がして。
襲い来る恐怖心を………
俺は必死で振り払い、叫んだ。
「ウンディーネ!」
何故彼女の名を呼んだのかは、自分でもよく分からない。
でも………
さっき夜の闇に消えてしまったはずの、彼女の気配を。
一瞬、感じたような気がした。
手の平が眩しい光を放ち。
不意に体が軽くなり。
見ると…
無数の泥人形は、青い光の中に溶けていってしまっていた。
驚いた様子で目を見開いたノームを、じっと見据え。
手の中に浮かんだ水の塊を、高く頭上に掲げる。
「これで………」
残りわずかな彼女の力の…全てを込めて。
俺は………
「どうだ!?」
青い光の球体をノームめがけ、投げつけた。
その、一直線に向かった青い光は………
白い眩い光の中に消えてしまう。
「何だ!?」
『そう老人をいじめるものではないぞ、少年』
どこからか、聞こえてきたのは…年老いた男の、穏やかな声。
『君がそんなにムキにならずとも、ゲームはもうじき終わるよ』
「けどっ…そんなこと言ってたら、先輩が」
『お嬢さんなら大丈夫じゃ』
「………大丈夫…って」
『ほれ…見るがよい』
白い光の中に立つ、不知火先輩。
一見儚げで…その姿は毅然として凛々しく見えた。
穏やかな中に、強さを帯びた瞳で…一瞬暗い空を見上げ。
よく通る声で………
宣言した。
「ゲームを………リセットします」
突風が吹き荒れ、眩しい光が目を刺すようで。
俺は思わず身を固くして、ぎゅっと目を瞑る。
そして………
風の中で見つけた…その大切な手を。
絶対に離すまいと、強く強く握りしめた。
ふと、気づくと…
赤く見えた瞼の裏が、また真っ暗になり。
屋上は元の暗闇の中に沈んでいた。
目が慣れず、周囲の様子はまだよくわからない。
でも………
「………仁?」
よく通る澄んだ声で、彼女が遠慮がちに俺を呼ぶ。
「あの………手、痛いんですけど」
はっとして、思わず一度その白い手を離す。
「あっごめん…つい…強く握り過ぎちゃってた…かな」
顔が熱くなるのを感じながら、笑いながら頭をかく俺に…
ウンディーネは…優しく微笑んでくれて。
もう一度…そっと俺の手を握った。
少し冷たいその手は…確かに本物で。
「一体…何が起こったんだろう…」
俺の問い掛けに、困惑したように首を傾げる彼女。
と………
「………うおぉぉぉぉ!!!!!」
少し離れた所で、土橋の叫び声が上がった。
はっとして見ると、彼は半狂乱になって、先輩に銃口を向けている。
「貴様!!!一体どういうつもりだ!?」
「どういうって………」
いつ発砲してもおかしくない様子の彼に、怯む様子は微塵もなく。
先輩は毅然とした声で、見ての通りよ、と言い放つ。
「………私を…騙しおったな!?」
「騙す!?先にそれをやったのはあなたじゃないですか!?」
今までに見たことの無い厳しい表情で、先輩は怒鳴った。
「私はゲームマスターなんです!!!ゲームマスターとして………こんなゲーム、到底認められません!!!」
「………何だと!?」
「人の気持ちを利用して、操って…自分は最後においしいところだけ持っていこうなんて、しかも…勝利の為には人の、精霊の命なんてどうでもいいなんて、そんなの…だからリセットしたんです!どうしても願いを叶えたければ、もう一度ノームと契約を結んで、そして他の精霊達から石を集めたらいいじゃないですか!?」
それは………
この一週間、ゲームをもどかしい気持ちで見つめ続けてきたのであろう、彼女の心からの叫びに間違いなかった。
土橋は必死の形相で、救いでも求めるようにノームを見るが…
「わしは…下りるぞ」
さっき、俺を挑発したのと同じ、のんびりとした声。
「………何だと!?」
皺くちゃの手から、ぽーんと大きく放られた賢者の石。
放物線を描いて………
先輩の手の中に、すとんと収まった。
信じられないというように、土橋は目を見開いて怒鳴る。
「…どういうことだ、貴様私を裏切るのか!?」
「裏切る?わしはまだ、貴様とは契約を結んでいない…裏切るも裏切られるも無いわい」
何十年も何百年も、ゲームの中で生きてきた…小さな老人の、悟りきった声。
『ゲームにはもう、何の興味もない』
ノームの迷いの無い表情は、俺にそう訴えていた。
「どうする?すず…」
「どうって………当たり前でしょ!?あんたと組むのは私だけよっ」
「よし、上等!」
不知火とサラマンドラが、そんな風に笑いあっている。
俺も、隣に立つウンディーネの方を…そっと見る。
彼女は、嬉しそうに目を細め。
ゆっくりと、小さく頷いてくれた。
「シルフィード?」
よく通る、楽しげな睦月の声に…
「はい…睦月」
シルフィードが答え、彼の傍らにふわりと降り立つ。
土橋は動揺したように俺達を見回し………
がくっと地面に膝をつき、うつむいた。
黙り込んで、小刻みに体を震わせる彼に。
先輩は、ゆっくりと近づき。
「土橋…先生?」
座り込んで静かに手を差し伸べ、たしなめるように話し始めた。
「あなたがさっき…おっしゃっていた通りです。精霊は確かにいて…『精霊の書』は本物でした。たとえ誰もが信じなくても………私達には…先生の研究が真実だって、ちゃあんと分かってますから」
一つ一つの言葉を大切に語りかける先輩。
「正しいことを言ってる研究者が、信じてもらえないことって…よくあることじゃないですか。長いときを経て、それが真実だってようやく分かってもらえて、そうして名前が残ってる研究者って…世界にたくさんいるじゃないですか」
ぼんやりと見つめる土橋に、先輩はにっこりと微笑みかけた。
優しくて、それに強い…彼女の笑顔。
「私達…応援してますから。どうかこれからも…」
目を見開いて硬直する土橋に…さっきまでの暗い影は、微塵もなく。
彼女の想いは、届いたかに見えた。
………だが。
「………黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!!!」
がばっと立ち上がり、狂ったように叫びながら。
彼は…俺達にピストルを向けたまま、ビルの端に向かって走り出した。
「待ちなさい!!!」
不知火の声を遮るように。
土橋は、大きく首を振りながら喚く。
「うるさい!!!貴様らのようなガキにはわかるまい!!!私の…私は………」
彼はフェンスをよじ登り、金網ごしに俺達と向き合い。
絶望しきった目で………じっと俺達を見た。
そして。
「………うわぁぁぁ!!!!!」
今までに聞いたことが無い…身の毛がよだつような叫び声。
ただ…それだけを残し。
土橋の姿は…
ビルの屋上から…消えた。
「………どう…して?」
フェンスの傍に佇み、俯いてつぶやく先輩の肩に…そっと手を置き。
睦月は…厳しい表情で言う。
「ゲームの勝者になるということ…数十年という長い長い年月、あいつはそれだけを思って、ここまで生きてきたんだろう………生活の全てを犠牲にして、ただひたすらそれだけのために…ね。このゲームに勝ちさえすれば、自分は名誉を手に入れ、生まれ変わることが出来る………そんな風に思ってたんじゃないかな」
「でも………」
口を尖らせる不知火を、真剣な視線で制し。
彼はまた、話し始める。
「あいつはきっと、ゲームに囚われてしまっていたんだろう………研究を世に知らしめるとか、そんな純粋なものだったろう最初の目的が………いつの間にかゲームの勝者になる、という欲望にすり替わってしまっていたのに…あいつは気づかなかったのかもしれない」
「………囚われる…か」
思わず口からこぼれた言葉に、睦月は小さく頷いて。
大きく一つ息を吐き、空を仰いだ。
「ゲームの勝者になれないとわかった瞬間に…あいつは、生きる意味を失ってしまったように感じたのかもしれないな。絶望に全身を支配されて…だから」
何かを思い返すように、ゆっくりと瞼を閉じる。
「土橋もまた…ゲームという虚しい夢に囚われた、哀れな男だったんだな」
自分を重ねたような、そのつぶやきに…
不知火はちょっと困った顔をして、救いを求めるように俺を見る。
しばし…沈黙が流れ。
「帰りましょう…一緒に」
先輩が睦月の手をぎゅっと握り、明るい声で言う。
「………文ちゃん」
「睦月さんは、長い長い時間をかけて、私のこと見つけてくれたんですから…」
驚いたように目を見開き。
睦月は少し瞳を潤ませて顔を伏せ…ゆっくりと先輩を抱きしめた。
彼女はそれに答えるように、そっと背中に手を回し。
「私はもう…どこにも行ったりしませんから」
母親のように優しい、穏やかな声で…彼に語りかけた。
「だから………ずっと…一緒にいて下さいね」
その時。
ふいに、背後が明るくなる。
はっとして、振り返ると………
そこには………光る魔法円と、白い長い髭の老人の姿。
痩せて皺くちゃの顔に、思慮深そうな青い瞳が光っている。
あれはもしかして、さっきの………
きっとそうだ。
それに………
『また…大胆なことを考えたものだのう、ゲームマスターよ』
先輩は、初対面の筈の精霊使いの問いかけに、親しげな笑顔を浮かべて答える。
「ええ。リセットしちゃいけないなんて…ルールにはなかったでしょう?」
『ふぉふぉふぉ…利口なお嬢さんじゃ』
「ただ………」
声のトーンが、急に低くなる。
「プレイヤーを一人失ったことは…誤算でしたけど」
『それは仕方がなかろう………』
慰めるような、老人の優しい声に。
不知火が、いつもの調子で噛み付く。
「仕方…なかろうじゃないわよ、じーさん!あんたの仕掛けたこのゲームのせいで、私達どんだけ大変な思いしたと思ってんのよ!?」
ふぉふぉふぉ…とのんびりした声で笑い、彼は探るように不知火を見る。
『しかし…お嬢さんらも命を賭けてゲームを戦っておったのじゃろう?』
「………だから!!!」
『このような過程が…石を昇華させるには必要だったんじゃ』
「………昇華!?」
『左様…』
小さく頷いて、精霊使いは遠い昔を思い返すような目をした。
『偶然とはいえ、このような事態を招いた、禍々しい石を…再び無に帰すためには、どうしてもゲームという過程が必要でのう。しかし、お嬢さんらの言う通り、沢山の犠牲も出るであろうゲームが…実際に行われてしまうことを、わしも望んではおらなんだ』
…そうだった。
このじいさんも…好きでゲームを作り出したわけじゃないんだ。
『そんな訳じゃから、極力先延ばしにするため、石を各地に隠したんじゃよ。長いこと眠りに付かざるを得なかった精霊達には、気の毒じゃったが………』
彼の言葉に…
隣に立つウンディーネが、寂しそうに笑って首を傾げた。
精霊使いは、張りのある声で先輩に問う。
『して…ゲームの勝敗は如何に?』
ゆっくりと瞬きを一つして。
小さくため息をつき…
先輩は清々しい顔で…静かに言う。
「勿論…引き分けです。ゲームが始まり、どんな形であれ終了する…それが精霊使いさんのおっしゃる『過程』でしょ?」
青い目を丸くして、参った、というように笑う精霊使い。
『…これはこれは、本当に利発なお嬢さんじゃわい』
難しい顔で小さく手を挙げ、不知火が彼に尋ねる。
「願いを叶えるとか…そういうのしなければ、ゲームマスターは消えなくて済むの?」
彼女を安心させるように、勿論じゃ、と老人が笑う。
『賢者の石が昇華する際に発する大きな魔力を用い、ゲームマスターの命を捧げることで願いを叶える…実際のところは、そういった仕組みでのう』
大きな目を、更に丸く大きく見開いて…
不知火は、大きく両手を天に突き上げる。
「…やったぁぁぁ!!!」
歓喜の声は、静かな屋上に響き渡るが………
俺にはまだ…気になっていることが、一つあった。
「ウンディーネ達は…どうなるんだ?」
うむ、と小さく唸り。
精霊使いは、四体の精霊を見渡した。
『それは…彼ら次第よ』
「………彼ら次第?」
「左様。ゲームが終息した以上、彼らは賢者の石から解き放たれることとなる。さすれば、どこへ行くも、何をするも、これからは…精霊達の意思次第、ということじゃよ」
ウンディーネが、ぎゅっと…俺の手を握る。
見ると、青い瞳は…迷いの色を秘めていて。
『帰りたくない』
そんな風に訴えている彼女の瞳を…じっと見つめる。
何て声をかけよう。
長い長い月日を、一人ぼっちで過ごしてきたウンディーネ。
キャッチボールをした時の、はしゃいだ笑顔。
少し冷たくて、柔らかい右手。
離れたくないと…思った。
でも………
「………行きな」
「仁………」
泣くな、と自分に何度も言い聞かせ。
俺は、にっこり彼女に笑いかける。
「だって…約束だっただろ?元の世界に帰してやる…って」
「でも………」
悲しそうに目を潤ませて…
彼女は顔を伏せる。
「仁は…それでいいんですか?」
「………俺?」
「…はい」
そんなの………答えは決まってる。
なるべく重く悲しく聞こえないように、おどけた調子で言う。
「いいわけないだろ?」
「…だったら」
「でも………いいんだ。精霊は俺達人間より、ずーっと長生きなんだろ?」
怪訝そうに、小さく頷くウンディーネ。
「だったら…俺は多分お前より先に死んじゃうし、そしたらお前はまた、一人ぼっちになっちゃうだろ?そんなの可哀想だもん」
「………仁」
「きっと…お前の家族も心配してるぜ?早く帰って、安心させてあげなきゃ」
でも…と言いかけて。
彼女は辛そうな顔で…頷いた。
「よし!それでいい」
柔らかい彼女の髪を撫で、笑いながら…
俺は、こみ上げてくる色んな想いを…封じ込めた。
精霊使いの前に立つ、四体の精霊。
最初に口を開いたのは…ノームだった。
「わしは…もう、疲れましたわい」
『ほう…疲れたとな』
ノームは頷いて目を閉じ、穏やかな調子で話し始める。
「四体の中で最長老として、あの本を守っておったが…これまでの長い時の中で…ゲームにまでは至らずとも、石の魔力に魅了され、己の欲望の為に狂う人間の姿を幾度も幾度も見て参った。ちと…疲れましてな」
悟ったような表情を見て…
さっきのことを思い出した。
『それがゲームならば仕方がない』
確か、あいつ…そんなことを言っていた。
『して…どうする?』
「静かに眠らせていただきたい。わしは年じゃて…故郷に帰ったところで待つ者もおらぬ、故郷にずっとおったとすれば、もうとっくに命も尽きておろう」
そこまで言い切って。
ノームは晴れ晴れとした表情で、俺達の方を振り返った。
「長い月日の中、色々な人間を見てきたが………お前さんらのような、気持ちのいい人間と出会ったのは初めてじゃったよ」
「いいのか!?本当に………」
自ら死を選ぶ…なんて。
そんなのまるで…土橋みたいじゃないか。
けど、彼の決心は固いらしく…穏やかな表情のまま、首を横に振る。
「お前さんような、若い者にはわからんじゃろうが…ゲームと同じじゃよ。物事には全て、潮時というものがある」
「…ノーム」
説得するようなノームの口調に…それ以上、反論することは出来なかった。
「その…最後の最後に出会った人間が、お前さんらのような人間で…本当によかった」
ありがとう…と、優しい笑顔で笑いながら。
その小さな体は白い光の中に…消えた。
ウンディーネは、精霊使いの前に進み出ると。
振り返って、不安そうに俺の顔を見る。
さっき…ちゃんと約束したのに。
彼女の青い瞳を見ていると…
さっき封じ込めたはずの寂しさに、覆いつくされそうになる。
そんな気持ちをぐっと堪え、笑って…ウンディーネを促す。
『ウンディーネ、そなたはどうする?』
機械的な精霊使いの問いかけは、どこか残酷に響く。
躊躇うように、沈黙する彼女の頬を…
涙が一筋…流れる。
頑張れ…という、心の叫びが通じたのか。
意を決した様子で、ウンディーネは口を開いた。
「元の世界へ…帰ります」
ウンディーネの振り絞った声に、精霊使いは頷いて、右手を空にかざす。
と………
そこに現れたのは、光り輝く、大きな扉。
大きく開かれたその先は、眩い金色の光に包まれており…
どこか…俺の手の届かない、遠い世界へと続いているのだろう。
『では…行くがよい。この先に見える道をまっすぐに進めば、やがて…そなたの故郷へと辿り着くであろう』
はい、と答える彼女の声は…
この上なく、頼りなく響いた。
シルフィードは、いつもの歌うような声で、精霊使いに告げる。
「私も、元の世界へ戻ります」
『では…お主もウンディーネと同じく、この扉をくぐるが良い』
「はい」
小さく首を傾げて答え、彼女はにっこりと微笑んだ。
長い時を過ごしてきた、睦月の願いを叶えることが出来て…
シルフィードはきっと、満ち足りた気持ちでいるのだろう。
そして。
サラマンドラは、今まで見たことがないくらい、大真面目な表情で。
不審に思ったらしい不知火が、甲高い声で叫ぶ。
「待ってよ!サラマンドラ!?」
「何だ?」
「あんた…帰っちゃうの!?そんなの…」
きょとんとした顔で、非難する不知火を見つめ。
にやっと笑って、彼は精霊使いに宣言する。
「俺…このまま、この世界に残るよ」
「………え!?」
目を輝かせる不知火を見て、気まずそうに笑い。
サラマンドラは…更に言葉を付け足した。
「俺、もっと…こいつらの世界を見てみたいんだ」
『…世界、とな』
「そ!あの街だけじゃなくてさ、色んな国の色んな人間を見てみたい。世界中を旅して…俺、どうせあっちに身寄りもねーし、帰りたくなったらなったで、きっと何か方法はあるだろうしさ」
好奇心いっぱいの、彼の瞳に………
あの、おしゃべりな不知火が…口を噤んだ。
俺達の様子を一通り眺めた後。
精霊使いは、穏やかな調子で、精霊達に声をかけた。
『…左様か。ならば皆、パートナーに別れを告げるがよい。過酷なゲームを共に戦い…お主達に命を預けた…この、勇敢な若者達に』
「仁…」
青い瞳が、不安そうに俺を見る。
そんな風に見られると…辛い。
「さっき、二人で決めたことだろ?」
「………でも」
「大丈夫!すぐに家族に会えて、寂しい気持ちも吹っ飛んじゃうからさ」
「………そうですね」
目を伏せる彼女を…笑顔で送ってやりたくて。
「じゃあな、ウンディーネ…元気で」
俺は…精一杯の空元気を振り絞って…笑う。
一瞬、何か言いかけた後。
彼女は、はっきりした声で俺の名を呼んだ。
「仁………」
ふう…と大きく息を吐いて。
さよなら…と、呟いた彼女は。
不安と、名残惜しい寂しい気持ちをぐっと堪えるように。
唇を噛み、拳を握って…扉へ一歩一歩、近づいて行く。
か細くて頼りない…その背中。
『あなたの力が必要です』
必死な声で訴えた…あの時の彼女の姿。
帰りたい…と俯いた、寂しそうな瞳。
水の守りを駆使して戦う、勇ましい表情。
キャッチボールをしながら、楽しそうに笑う、あの声。
それに………
『泣かないで…』
俺の頬に触れた………優しい指先。
「ウンディーネ!!!」
気づいたら、俺は………
彼女の名を叫び、駆け出していた。
ぎゅっと強く抱きしめると、一瞬、驚いたように体を強ばらせたが…
すぐにその力は抜け…彼女はその華奢な体を、俺の腕に預けてくれた。
「仁………」
腕の中から聞こえる…温かい声。
「ありがとう、ウンディーネ………お前に会えて、本当によかった」
「………仁」
「俺…お前のこと、一生…忘れないから」
この先、数えきれないほど沢山の人と出会い、そして別れるだろう。
それでも俺は………
ウンディーネのことだけは、絶対に…死ぬまで忘れない。
そう………誓った。
すると、彼女は………
思いがけないことを…俺に尋ねる。
「人も精霊も………生まれ変わるのでしょうか」
「…ウンディーネ?」
「命が巡って、また…あなたと出逢うこと、出来るんでしょうか」
彼女はじっと、先輩と睦月の方を見つめ。
祈るように…囁いた。
「文さんと…睦月さんのように………私も生まれ変わったらまた…仁と会いたいです」
ウンディーネの言葉に、胸がいっぱいになって…身動きが取れなくなってしまい。
頷くのが…精一杯だった。
俺の相槌に、ウンディーネは嬉しそうに微笑んで。
急にぐっと…背伸びをした。
次の瞬間。
彼女の唇が…俺の唇に触れる。
少し冷たくて、柔らかくて…
ふっと俺の腕をすり抜け、光の扉の方へ駆け出す…ウンディーネ。
その瞬間、魔法が溶けたように…体が動くようになって。
「ウンディーネ!?」
慌てて…彼女の名を呼ぶ。
柔らかい髪を揺らして振り返り、ウンディーネはにっこり微笑んだ。
「約束ですからね!仁…いつか………」
しかし、その笑顔は………
「いつか…また………」
すぐに涙に変わってしまい。
そんな彼女を励ますように、大声で答える。
「約束する!!!いつか絶対、また会おうな、ウンディーネ!!!」
ぐすん、と鼻を啜って、彼女は大きく頷いて。
光の中へ………歩いていった。
精霊使いの姿も…もうそこにはなく。
薄紫に染まった空に、朝日が射し始めていた。
………ウンディーネ。
『いつか…また』
目を閉じて…彼女の笑顔を思い返す。
…そうだ。
輪廻なんてものが、本当にあるのなら。
きっと…また会えるさ。
だから、その時まで俺は………
精一杯、生きていこう。
姉ちゃんの分まで、それに…土橋の分まで。
「水月ぃ?」
背後に響く低い声に、ぎょっとして…振り返る。
「………何だよ、不知火」
「朝っぱらから、何たそがれてんのよ。ここ寒いから、早く帰ろ」
「……………」
あまりに聞き慣れた、不知火の文句に。
俺は呆れて…噴き出してしまった。
「…何が可笑しいのよ?」
「いや…ごめん………そうだな、帰ろっか」
先輩達は?と聞くと…
彼女は不快そうに眉をひそめ。
ひらひらと右手を振って、いいのいいのとつぶやく。
「ああいうセイシュン真っ盛りの人達は放っとこ」
…ああ、成程ね。
再会した先輩と睦月を、二人きりにしてあげよう…という訳か。
「お前…実は空気読めるんだな」
感心して思わずつぶやく俺に、真っ赤な顔で怒鳴る不知火。
「馬鹿じゃないの!?そんなんじゃないわよ!」
「本当かぁ?…ていうかお前、泣いた?」
「…泣く訳ないでしょ!?あんたと一緒にしないでよ」
「俺!?俺が泣く訳ないだろ」
「…ほんとかなぁ???」
「本当だっての!つべこべ言わずに帰るぞ、不知火っ」
お互いの、寂しい気持ちに蓋をして…
俺達は、出来るだけ明るい調子で言い合いながら。
静かな朝の街へと、歩き出した。