その七(影と王子とその他の遠乗り:中)
進むにつれてふと周りに視線をやれば、段々周りの木々が多くなってきた事に気付く。
森に入ったのだろうかとフィアナが視線を巡らせる。基本的に城か、会か、城下かしか選択肢がなく、特に姫つきだったのでフィアナは見たこともないものが多かった。
高価なものに目が肥えていても、こういった場所に出入りしていたのは幼少のころだけだ。
さわさわと揺れる樹も、整備されているとは言い難い道もフィアナには新鮮である。
彼にここはどこなのかと尋ねると、東の森と呼ばれる場所だと言われた。
「東の森は王族専用の狩り場となっています」
「狩り場・・・」
「血の気が多い男が多い家系なので。・・・たまに例外もいますけど」
遠い目をしてぽつりと言った例外、という言葉に、口を開こうとしたがその前に彼は笑顔を作りなおしてフィアナに微笑みかけた。
「ですから、多くの動植物がいるのですよ。ここは。自慢の一つです」
「そういえば・・・どこまで向かうのですか?」
「着いてからのお楽しみ、です」
くすりと笑った王子が、ふいに固まって眼つきを鋭くした。何かを探るように耳をそばだてて、ふっと息を吐く。しんと静まり返った彼にフィアナは思わず固まる。
さわりと風が頬を撫でる間も、フィアナはじっと王子の顔を見つめていた。
彼がゆっくりと目を開くと、不安そうな顔をしているフィアナをその瞳に映した。
にこりと笑って先ほどの雰囲気を崩したので、フィアナも知らず詰めていた息を漏らす。
「少し飛ばしてもいいですか」
「?」
「後ろから彼らが追ってきていますから。このままではぬかされてしまいます」
彼ら、というとシャアラ達のことだろうか。しかし後ろを見てもシャアラとリュウの姿はない。そのことに首を捻っていると、王子は目を閉じてくすりと笑った。
「リュウが馬を暴走させているようですね」
なんでわかるのかしら、と顔を顰めると彼はふふふと笑った。
「なんでわかるのか、という顔をしていますね。長年の勘と、リュウは馬を暴走させる名手、という知識からでしょうか」
「だ、だから先に出発したんですか・・・!!!」
「はい」
――黒い、黒いわこの人!
フィアナは茫然と目の前の王子を見つめた。無邪気な笑顔をしている癖に内心は真っ黒なのだとフィアナの心には深く刻まれた。
顔色を青くしたフィアナをみて、王子はにやりと笑った。まるでフィアナの反応を楽しんでいるかのように。
「しっかり掴まっていてください、ねっ」
「え・・・きゃぁっ!」
王子がぱんと馬の腹を蹴ると、馬が嘶いて勢いよく走りだした。先程までとは違う風を切るような感じにフィアナは思わず王子に身を寄せた。恥じらい云々の前に自己防衛本能が強く働いたのである。
――はっ速い!!速すぎる!!
怖さでフィアナの顔は引きつっていた。とても王子に見せれるものではない。
「――――――――――――ッッ!!!!」
言葉にもなっていない声を漏らしながらフィアナは懸命に王子にしがみ付く。
「・・・愉快な方だ」
ぼそりと呟いた王子の声は、フィアナの耳には届かなかった。
***
「金輪際、ああいうことはやめてください!!」
腰に手を当ててじとりと睨みつけるフィアナの顔はまだ青い。
かたかたと腕が震えるのは恐怖か、はたまた怒りからかは本人にも分からなかった。
くすくすと王子は笑って「すみません」と言っているが、全く反省していないのは明らかである。
それを更にぎっと睨みつけたが、それすら面白そうに見返してくる。
王子の表情に対して、思わず漏らした溜息は見逃してほしい、とフィアナは思う。
今現在フィアナ達は休憩の最中だ。
フィアナが恐怖の余り、もう止まってくれと何度も頼み込んでやっとである。
「目的地はもう目と鼻の先なんですが」と彼は困ったように笑ったが、どう考えてもフィアナの顔色が悪いために彼は渋々といったように止まったのだ。
どこの誰が安全を保証するといったのだか、とフィアナはその口をつんと尖らせた。
高ぶっていた神経は大分落ち着いたのだが、まだ胃がぐるぐるしている気がする。
胃の辺りを撫でさするフィアナを見て、さすがに王子が申し訳なさそうに微笑む。
先程は血管が切れるかと思う程怒りが自分を支配していたのに、その表情を見た途端それは空気が抜けるように萎んでしまった。
彼を憎みきれない自分に呆れて、フィアナはそっと目を逸らす。
・・・この人に姫を付けなくてよかったのかもしれない。
真っ向勝負が根底にあるような姫だ。リュウ以上にこの王子とは衝突していたのではなかろうか。心労の面でいけば圧倒的にこちらに軍配があがるとフィアナは思う。
―――姫様にあっているのは。
「・・・やっぱりリュウの方かな」
ぼそりと呟いたその言葉に、聞こえていたらしい王子が何を思ったのか目を見開いた。
突き刺さるような視線を感じてフィアナが王子の方を見直せば、彼は初めて見る表情をしていた。
眉間に深い皺を寄せて、今まで弧を描いていた唇は真一文字に結ばれている。
それに驚き一二歩後退すると「・・・どうして下がるの」と地の底から這うような声が聞こえてきた。
馬も彼の表情に雲行きの悪さを覚えてか、彼から距離を取るように数歩下がり、その耳を忙しなく動かしていた。
彼はそのままの表情で、世話をしていた馬の方から歩み寄ってくる。
「君は・・・」
彼は深い苦悩を乗せた表情で何かを言おうとしたが、ぎゅっと瞼を閉じて俯く。
何かを逃がす様に息を吐きだし、彼はしばしそのままの状態で拳をきつく握っていた。
しかし次に顔を上げた時、そこにいたのはいつもの彼であった。
笑みをその顔に刻んで、柔らかく彼は微笑む。
「驚かせてすみません。私の前でリュウの話など・・・嫉妬してしまいました。私もまだまだですね。姫の前でお恥ずかしいです、申し訳ありません」
行き成り変わった彼の態度にフィアナは瞠目するしかない。彼は笑んだままで捲し立てるように言い終わって、尚微笑んだままでフィアナを見つめている。
二人のあいたままの空間を風が撫でていく。
その風がフィアナの髪を攫って、頬を撫でたところでフィアナも仮面を被りなおさねばと気付く。
「・・・し、嫉妬など。そ、そのようなお戯れ、他の女性が聞けば勘違いいたしますわよ」
「・・・」
彼は微笑んだままだった。
彼が何を考えているかフィアナには全く読めず、ただ二人の間にある空間は自分達の距離を現わしているのではないかと漠然と思った。
彼はゆっくりと目を伏せ、フィアナと視線を合わせることをやめた。
「・・・そうですね。戯れはここまでにしましょう。姫、そろそろ出発してもよろしいですか
「・・・え、ええ」
「では準備ができ次第こちらに」
そう言い終わると彼は背を向けて馬の方へ歩き出した。
彼の暗雲とした空気が消えたからか、馬も大人しく彼に撫でられている。
フィアナはまだ治まらない動悸に胸を押さえた。きっと先ほどと変わらぬくらい顔色も悪くなっているだろう。
何を失敗してしまったのか。
彼の言うとおり嫉妬をしたとして、その怒りにしては異常ではないか。彼と自分は会ったばかりの仲である。執着される謂われはない。それならば、自分が何か彼の機嫌を損ねる決定的な何かをしでかしたとしか考えられないとフィアナは思うのだ。
背を見つめても答えをくれるわけはなく、彼は馬を括りつけていた縄を解いている。
「・・・いえ、これは丁度いいのよ」
自分の目的は国に帰ること。ならば、彼の不興をかっても問題はない。
・・・ない筈であるのに、フィアナの胸中は酷くざわめいていた。
そんなフィアナに背を向けたまま準備を進める王子のその表情は先ほどと同じで、眉間には深く皺が刻まれていた。
王子は苦しげにぽつりと呟く。
「私は、本当なら貴女の傍になど・・・」
呟いた言葉は、風にかき消されて誰に届くこともなく消えていった。