その二十六(それぞれの決断の先)
フィアナは走った。
泥に足を取られながらも、がむしゃらに駆けた。
雨は益々酷くなって、フィアナの想いを否定するかのように殴りつけてくる。
汚れて雨を存分に吸い込んだドレスは重く、フィアナの体に纏わりつく。
フィアナは自分の体を一瞬見下ろすと、決意を固めた。
傍にあった木の枝を手で握り、裸足の片足を木に乗せた。
そのまま全力で体重をかけると、メキリと木が引き裂かれる音がして、枝がボキッと折れた。
その反動でフィアナの体は手酷く地面に叩きつけられたが、構っていられない。
ドレスの端を掴むと、すべらかな生地の真ん中に思い切って枝を突き刺し、引き裂いた。
美しいドレスはその原型を失ったが、フィアナは止まらない。
破れた裾を両手で引っ掴むと、ぐるりと括った。ひざ上になったドレスで立ち上がれば、先程より身軽になったのがわかる。
立ち上がった足の裏の熱に、フィアナは顔を顰めた。
もしやと思って足の裏を見れば、柔らかい足裏は森の地面に手酷く痛めつけられて、血がじわりと流れ出ていた。
裸足で森を駆ければそうなることも、フィアナは知らなかった。
口をぐいっと引き結んで、フィアナはドレスのレースを引きちぎって、足の裏に括りつけた。
裸足よりはまだましだが、あっという間に細かなレースからは血が滲み出てきた。
ぐっとぬかるんだ地面を踏みしめ、フィアナは息を乱し、足を動かし続けた。
王子が来た方向と自分が転がり落ちた坂の場所を考えると、きっとこの方向であっている筈だ。
元の場所の更に奥、王子が来た方向に他の仲間がいるという一縷の望みをかけた。
これでどこにも辿りつけなかったとしても、動かずにいるよりはいい。
そう思って駆け続ける。途中何度もよろけては、フィアナは木に手をついて呼吸を整えた。
どれほど走っただろうか。
雨が少しずつ小降りになって、雲にさえぎられていた月が顔を出した。
フィアナの走る先で、唐突に森が抜けた。
息を弾ませるフィアナは走る足を緩めて、辺りを見回しながら森から抜けだす。そこは、森が見渡せる丘だった。
目の前に月の光に照らされて広がる森は、とんでもなく雄大だった。
しかし目を凝らせば、灯りの洩れる―――遺跡、だろうか。古い建造物があるようだった。
「あそこは…」
恐らく、自分が閉じ込められていた場所ではなかろうか。
助けがいるのか、それともあの賊がまだいるのか…二つに一つだった。
「でも、彼がここにきてるってことは…きっとルチエもいるわ」
あの近くに、少なくとも彼の味方であるルチエや、特殊隊もいるはずだとフィアナは自分を奮い立たせた。
再び月を雲が隠そうとして辺りが暗くなる。
慌てて丘の緩やかな部分を探して降りようと、見回した時だった。
森から飛び出してきた影に、フィアナは悲鳴を上げた。
しかし見慣れた青の瞳と目があった。森の影にあっても、その瞳の色は間違えない。
「姫っご無事で!」
月が隠れてしまって暗いせいであまり良く見えないが、ほっとしたような泣きそうな顔をしていたのは、確かに『彼』だった。
「あっ、王…」
王子と呼んでいいのか、一瞬迷った時もう一つの影が森から躍り出してきて、彼に切りかかった。
彼はその勢いで倒れ、強かに背を地面にぶつけたが、瞬時に相手の腹を蹴りとばして立ち上がった。
もう一つの影はジノだろう。
灰色のマントは破れており、蹴られた腹を押さえる彼は獰猛な獣のようだった。森の影からギラギラと目を光らせ、唸り声を上げる彼の目には、既に理性がない。
その姿は悪魔に取り付かれた化身のようだ。
「姫、離れていてください」
そう言って『彼』はジノに向き直った。
離れるも何も、フィアナは丘の端にいる。
もう一度転げ落ちるしか逃げる手はないのだが。
二人が同時に叫び声をあげて剣を交わらせる。
二人の腕前は拮抗しているのかと思ったが、ジノの方が息が上がっているようだった。理性を飛ばしたその口から、白い息が何度も立ち上る。
人の言葉ではなくなったジノの叫びと同時に二人の剣がぶつかり弾かれた時、ジノの身体が勢いに負けてぐらついたその瞬間を逃さず、彼の目が煌めいた。
彼も叫び声を上げ、下段から剣を振り上げる。ギィン!という音と共にジノの剣は彼の剣に弾きとばされた。
やった!とフィアナが喜んだ瞬間、ジノの片眼がぎらりと輝く。
「うるぁぁぁああぁ!」
「なっ!」
雄叫びをあげたジノは超人的な脚力で彼に襲いかかると腕を掴み、地面に引き倒した。
二人が縺れ合うように転がる。一つの剣を巡って、二人は激しくもみ合った。
「王――――――」
掠れた声で叫ぼうとしたフィアナの目には、信じられないものが飛び込んできた。
再び姿を晒した月の光が、二人のその傷ついた身を晒す。
白。
月白の髪だ。
『王子』の髪は先程の茶金ではない、月白の髪だった。
そう、『彼』と同じ、色。
フィアナが戸惑ったその一瞬の隙に二人の剣をめぐる攻防に決着がついた。
ジノが王子に馬乗りになり、片手で剣を持つ腕を地面に押さえつけ、残った片腕で彼の首を握ったのだ。ジノの大きな手には筋が浮き、王子の顔は苦しげに歪む。
「かっ…!!」
あの超人的な握力で握られたら…!フィアナはぞっとして駆けだした。
「だ…めだ…!」
王子が掠れた声で引き留めるが、その顔は既に青くなっており、ジノの手を掴む手も小刻みに震えていた。フィアナは手を伸ばし走りながら叫んだ。
「やめて…!ジノッ!!」
その途端、ジノが顔を上げてフィアナを見た。
王子に馬乗りになるジノにフィアナは飛びかかった。思わぬ衝撃にジノの身体はフィアナを攻撃対象と認識して、王子を蹴り飛ばし今度はフィアナを抑えつけた。
「や゛っ、や゛め゛ろっ!」
王子が息苦しそうに首を押さえながら起き上ろうとしているが、視界が朦朧としているのか動きが遅い。
ぐっと絞められる首に、フィアナの息がとまる。
「うぅっ…!」
ふーっふーっと荒い呼吸を繰り返すジノの目をフィアナはなんとか見つめた。
しかしジノの狂気の目の中に、違う色を見つけた途端フィアナは抗おうとする手を緩めた。
途端にジノの指が喉に埋まり、更に息が苦しくなった。朦朧としてくる意識の中で、フィアナは思った。
「この人は、私と何処かにている」と。
囚われたままずっと動けない、そんな人だ。
「誰かの気持ちを大切にすることも、考えろ」
そうフィアナに言った時のジノの顔は、酷く怒っている様な、悲しんでいる様なそんな顔だった。
本当はラジェにジノが何を思ったのか、リンドウの家に何があったのか、彼をここまでの行動に向かわせた原因を、フィアナは知らない。
けれど、ラジェが自由になったように、フィアナが影武者の枷を外せたように。
彼も彼の道を選べたはずなのだ。
だって、自分の価値を決めるのは、自分だけじゃないから。
自分はこういう人間だという思いや、絡みつく立場は自分という人間を動けなくしてしまう。
だからこそ、時には辛くても、自分に絡みつくものを捨てなくちゃならない時もある。
そしてその決断をするのは、いつでも自分なのだ。
寂しげなこの男はきっと、自由や、気持ちを大切にされることを望んだのではないだろうか。そして自らに纏わりつく、リンドウの家を断ち切れなくて苦しんでいたのではないか。
役目に固執していたフィアナに、苦言を零すぐらいに。
きっとジノも、フィアナに自分と似た何かを感じたのだ。
「お前はせめて分かれ」そんな気持ちが彼の言葉の端々に滲んでいたのが、今では分かる。
フィアナに本当に伝えようと思ったわけではないのかもしれない。それでもきっとその想いは、凄く分かりにくい、彼の本当の気持ちだったのだ。
「…貴方は、自由、に…なれるのよ…自分の力で…!!」
フィアナが叫んだ。
ジノを見つめるフィアナの目から 涙がとめどなく溢れた。
「お…まえ…」
ジノの片眼に理性が戻り、フィアナを見て泣きそうに顔が歪んだ。
力が弱ったその時、月白の髪がフィアナの視界に飛び込んできた。彼はジノの身体に掴みかかると、フィアナから引き剥がそうと揉み合い、今度は彼が馬乗りになった状態で止まった。
ジノの首に剣を突き付けると、彼はぴたりと動きを止めた。
「どう゛した…!殺ぜよ…!!」
「……」
喉を押さえて起き上ったフィアナの目に、二人の姿がはっきりと映った。
「ラ…ジェ…」
もう、見間違えようもなかった。
月明かりを反射する月白の髪、雨で拭われた肌の下は白磁。
一度見たら忘れないだろうその美貌は、月明かりの下で出会ったあの男性だった。
茶色く汚れたその肩を見たとき、まるでパズルのピースが嵌るかのようにフィアナの中で全てが繋がった。
遠乗りの日、見えた茶色に汚れたタオル。あれは、髪を染めていた染料が落ちたからこその汚れで。
フィアナの手に絡みつく月白の髪の毛は、ラジェの髪の毛そのものだったのだ。
似ていると思った王子とラジェの振る舞い。それもそのはず、ラジェ本人だったのだから。
「『王子』は…『ラジェ』だったのね」
呟くフィアナに、『ラジェ』が悲しそうに微笑んだ。
超人的な力の反動なのか、ジノの身体は動かない。手と足先だけが痙攣するようにびくびくと動いていたが、ジノの目はそれでも『ラジェ』を睨みつけていた。
「…私は…」
「お姫様の前じゃ殺せないってか…?!」
「お前はもう…私を殺せないだろう。身体を強化する秘薬を使ったな、もう今までのような身体ではない」
ジノの目が見開かれ、泣きそうに歪んだ。必死で身体を動かそうとバタつくが、先程の動きがまるで嘘のように彼の身体は言うことをきかない。
それどころか、ジノは口から血を吐いた。
ジノの喉からは、ひゅーひゅーと息の通る苦しそうな音が聞こえてきた。
その痛ましい姿に、フィアナは思わず両手で自分の口を押さえた。
「…お前」
「いっそ、殺してほしかったよ。お前を殺せないなら…」
悲しげに顔を歪めるラジェは、ゆっくりとジノから離れた。
フィアナを背にラジェは立つと、不安げに見上げるフィアナに「もう大丈夫だよ」と呟いた。
その声は以前の様な声ではない。
あの夜に聞いたやや低めの、腹に響く声だった。
先程喉を絞められたことと関係しているようで、彼は喉を摩りながら咽た。
「身体を強化する劇薬の副作用さ…。摂取しすぎて、体中が悲鳴をあげてる」
「くそが、天才には…敵わないってか…」
ジノは苦しげに息を吐きながらフィアナを見上げた。その眼は既にきちんとフィアナの姿を捉える事ができないのだろう。焦点がずれていた。掠れる様な声で、ジノは笑う。
「…胸糞悪ぃ人生だったよ…あんたには想像できないかもしれないだろうが…。何かに縛り付けられて…逃げられなくてよ…」
フィアナに何を訴えようと言うのか、先程までの憎悪は消えて、悲しみだけがその眼に浮かんでいた。
「……逃げようとしなかったのは、お前だろう」
ラジェが苦しげに呟く。同じリンドウの家の者として、思うところがあるのだろう。剣を握る手が、力を入れ過ぎて青白くなっていた。
その手を、フィアナは思わずそっと包んだ。ラジェの手がびくりと震えたが、フィアナの手を振り払おうとはしなかった。
横たわったままのジノは、片眼を閉じて苦しそうな声でから笑いをした。
「ははっ…人生、そう簡単じゃねぇ…よ…」
そこでジノは、もう一度フィアナの方を見上げ、小さな声で呟いた。
「でも…あんたは、変えちまったんだな」
ジノはそういうと、薄く笑った。
ジノは身体を丸め再び血を吐きながら片手をついて起き上ろうとする。体中がぶるぶると震えているが、それでもジノは立ち上がった。
「お前…っまだ!」
「はっ、今更…どうもしねぇよ」
険しい顔をするラジェを尻目に、ジノは笑った。
最後の力を振り絞るように足を踏ん張って、ジノは丘の先に向かって歩く。
「お前…まさか」
「お前らの前で…死ぬのは癪だ」
そういうとジノは、笑って丘の先から身を投げた。




