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婚約者の浮気を調べていたら、王国最大の横領事件を見つけてしまいました

作者: 久世こはる
掲載日:2026/09/05

婚約者の支出が、三か月で金貨八百枚増えていた。


高級宿。

宝飾店。

花屋。

そして、毎週同じ曜日に消える不可解な現金。


――浮気だ。


そう判断した伯爵令嬢セシリアは、婚約解消に備えて証拠を集め始めた。


ところが帳簿を追えば追うほど、おかしい。


金額が大きすぎる。

動いている人数も多すぎる。


そして最後にたどり着いたのは。


婚約者の愛人ではなく、王国財務局だった。



婚約者が浮気をしている。そう確信したのは、六月分の帳簿を見たときだった。


私はセシリア・アーヴェル、二十四歳。アーヴェル伯爵家の長女で、父が経営する王都最大級の穀物商会の会計監査を任されている。数字を見ることだけなら、刺繍や舞踏よりずっと得意だ。そして今、机の上に並んでいるのは、私の婚約者であるルーカス・フェルディン侯爵令息の支出記録だった。


もちろん、勝手に盗み見たわけではない。私とルーカスは来年結婚予定で、両家の資産整理のため、半年ほど前から互いの婚姻後財産に関係する収支を共有している。だから見つけてしまった。


「……金貨八百十二枚?」


三か月前と比べ、明らかに支出が増えている。私は帳簿を一行ずつ確認した。


王都西区の高級宿。金貨四十八枚。

宝飾商ローデン。金貨七十三枚。

花屋ベルフルール。金貨十二枚。

貸馬車。金貨九枚。


そして。


毎週木曜日。用途不明の現金引き出し。平均して金貨百枚前後。

合計。金貨六百枚以上。


「これはもう……」


浮気でしょう。私は椅子の背へもたれた。一般的な愛人へ使う額としては、かなり大きい。しかし侯爵家の嫡男なら、あり得なくもない。高級宿。宝石。花。現金。どう見ても怪しい。


「お嬢様?」


帳簿を運んできた侍女のミナが、私の顔を覗き込んだ。ミナ・クロウは商家出身で、五年前から私付きとして働いている。数字には強くないが、人の顔と噂を覚えることに関しては私より優秀だ。


「ルーカス様が浮気しているかもしれないわ」


「えっ」


「声が大きい」


「申し訳ありません」


ミナは慌てて口を押さえた。


「証拠はあるのですか?」


「今から集める」


「問い詰めないのですか?」


「数字がそろってから」


私は帳簿を閉じた。感情で責めて間違っていたら、こちらの信用が落ちる。本当に浮気なら。婚約を続けるかどうかを決めるためにも、事実を知る必要がある。


「まず、支出先を確認します」


「……お嬢様らしいですね」


「何が?」


「浮気調査を始める言葉とは思えません」


そうだろうか。


翌日。私は商会の用事を装い、宝飾商ローデンへ向かった。老舗の宝飾店で、王族や上級貴族も利用する。店主は父の知人だった。


「フェルディン侯爵家からの注文について?」


「はい。婚姻後の資産整理に必要で」


嘘ではない。店主は帳簿を確認した。


「ルーカス様のお名前では、最近大きな宝石の購入はございませんね」


「でも、金貨七十三枚の支払いが」


「ああ」


店主が頷く。


「それは銀細工です」


「銀細工?」


「小型の銀板を大量に」


宝石ではない?


「何に使うのですか?」


「さあ。こちらでは注文通り加工しただけで」


不思議だ。浮気相手への贈り物なら、銀板を大量に買う意味がない。


次。花屋ベルフルール。


「ルーカス様でしたら、毎週白い花を大量に」


「女性への贈り物ですか?」


「いいえ。花束ではなく、切り花を箱で」


「箱?」


「百本単位です」


ますます分からない。そして高級宿。受付で確認すると、ルーカスは確かに何度も部屋を取っていた。ただし。


「一人ですか?」


「いえ。毎回、数名の男性と」


私は黙った。


「女性はいない?」


「少なくとも、私どもが確認している限りでは」


浮気ではない。では何だ。その夜。私は三か月分の支出を並べ直した。高級宿。銀板。大量の白い花。貸馬車。現金。そして毎週木曜日。すべて木曜日周辺に集中している。


「木曜日……」


何かある。王都の定期市?違う。議会?王国財務局の週次決済日。手が止まった。ルーカスは、王国財務局の監査補佐官だ。侯爵家嫡男でありながら官職に就き、国庫支出の検査を担当している。つまり。これは私的支出ではない?


私は別の帳簿を開いた。父の商会が王国へ納入している穀物の代金記録だ。財務局からの支払い。毎週木曜日。一致した。嫌な感覚が背中を走る。


翌日。私は父に頼み、過去一年分の王国向け取引記録を出してもらった。


穀物。軍用保存食。馬糧。価格。数量。支払額。そして王国側の発注書。比較する。おかしい。


アーヴェル商会が納入した小麦。一万二千袋。支払い額、金貨四千八百枚。王国側の発注記録。一万五千袋。支出額、金貨六千枚。三千袋分、多い。私は別の月を見る。また多い。さらに別の月。また。


「……何これ」


誰かが、納入量を水増ししている。差額はどこへ?私は計算する。一年分。アーヴェル商会分だけで、金貨一万枚を超える。もし他の商会でも同じことが行われているなら。規模は桁違いになる。


「ミナ」


「はい」


「今すぐ、父を呼んで」


「何か?」


「浮気どころではなくなったわ」


父、エドモンド・アーヴェル伯爵は、爵位より商人として有名な五十歳の男だ。祖父の代に穀物商で財を築き、王家への功績で爵位を得た家の二代目。数字の異常には敏い。


「これは確かか」


「商会側の帳簿は」


「王国側は?」


「写しです。ただし発注印は財務局の正式なもの」


父の顔が険しくなる。


「ルーカス君には?」


「まだ」


「なぜ」


「彼が調べている可能性があります」


私は、ルーカスの不審な支出を説明した。高級宿。銀板。花。現金。


「銀板と花?」


父も首を傾げる。


「何かの暗号かしら」


「あるいは、証拠を残すための道具」


「どういう意味?」


「分からない」


分からないことが。腹立たしい。


その日の夕方。ルーカスが我が家へ来た。ルーカス・フェルディン、二十七歳。フェルディン侯爵家の嫡男で、王国財務局監査部に勤める官僚だ。柔らかな物腰で、社交界では穏やかな人物として通っている。

だが今の私は。その顔を素直に見られなかった。


「セシリア。急に呼び出してどうした?」


「聞きたいことがあります」


「何?」


「毎週木曜日、何をしています?」


一瞬。本当に一瞬だけ。表情が固まった。見逃さない。


「仕事だ」


「高級宿で?」


沈黙。


「銀板を買って?」


さらに沈黙。


「白い花を百本単位で買って?」


ルーカスが額を押さえた。


「どこまで調べた」


「浮気調査をしていたら、ここまで来ました」


「……浮気?」


初めて、彼の顔が崩れた。


「私が?」


「違ったようですね」


「何をどう見ればそうなる」


「高級宿、宝飾店、花屋、毎週大量の現金」


「確かに怪しいな」


本人が納得した。


「ですが今は、それよりこちらです」


私は王国発注記録と商会帳簿を並べる。ルーカスの顔から笑みが消えた。


「これをどこで」


「父の商会です」


「他人に見せたか?」


「父だけ」


「よかった」


その言葉で確信した。


「知っていたのね」


ルーカスが椅子へ座る。


「一部は」


「一部?」


「半年前から、財務局内で数字が合わない」


彼は声を落とした。


「軍需、公共工事、食糧備蓄。複数部署で支出額が納入実績より多い」


「横領?」


「ああ」


「誰が」


「分からない」


「だから調べている?」


「正式な監査をかけようとした」


彼は苦く笑った。


「だが、その監査命令自体が消えた」


私は黙る。


「つまり」


「上にいる」


財務局の上層部。下手をすれば。もっと上。


「高級宿は?」


「財務局外で協力者と会うため」


「銀板」


「記録用だ」


「紙では駄目なの?」


「改ざんされる」


ルーカスが小さな銀板を取り出した。表面には細かな刻印がある。


「数字を刻んでいる。加工後の傷まで記録すれば、あとから書き換えられない」


なるほど。


「白い花は?」


そこで。ルーカスが少し気まずそうな顔をした。


「合図だ」


「合図?」


「協力者が宿へ入る日の目印として、窓辺に白い花を置く」


「百本も?」


「宿の宴会装花に紛れさせる必要があった」


理解した。そして。腹が立ってきた。


「なぜ私に言わなかったの」


「危険だからだ」


「婚約者のあなたが毎週怪しい支出をしていれば、私は調べます」


「普通は聞くだろう」


「証拠がない状態で?」


「……君はそういう人だった」


何よ、その言い方は。私は腕を組んだ。


「それで、犯人は?」


「候補は三人」


「証拠は?」


「足りない」


「横領額は?」


「現時点で確認できているだけで、金貨三十万枚」


私は言葉を失った。王国年間予算の数パーセント。一貴族の不正では済まない。


「王国史上最大では?」


「だから表に出せない」


「違うでしょう」


私は即座に言った。


「大きいからこそ出すのよ」


ルーカスが私を見る。


「だが証拠が」


「商会側から集める」


「何?」


「王国側の帳簿だけ見ているから、改ざんされるの」


私は立ち上がる。


「納入業者側の帳簿を全部集める」


「そんなことが」


「できます」


私は父を見る。父が笑った。


「うちの娘を誰だと思っている」


嫌な言い方だが。今回は頼もしい。


そこから十日間。私は王都中の商会を回った。穀物。木材。石材。薬品。織物。武具。王国と取引している業者は多い。最初は皆、帳簿を見せたがらなかった。当然だ。しかし、父の信用と、私自身が長年築いた取引関係が役に立った。


「王国への納入記録だけで構いません」


「何に使う」


「過払い調査です」


「税務局か?」


「違います」


「では」


「今は言えません」


怪しまれながらも。四十七社分が集まった。比較する。数字が浮かぶ。特定の部署。特定の承認印。特定の曜日。そして。差額の一部が同じ名義の中継商会へ流れている。幽霊会社。住所へ行くと、空き倉庫だった。


「ここまでそろえば」


私は一覧表を机へ広げた。


「犯人を絞れる」


ルーカスと父が覗き込む。


「承認者は三人」


私は指を置く。


「でも、この三人全員が関与しているわけではない」


「なぜ分かる」


「横領がない取引もあるから」


承認者A。承認者B。承認者C。差額が発生した案件だけ抽出する。共通しているのは。


「最終決裁補佐」


ルーカスが呟いた。


「財務次官補、ベルドン」


ベルドン伯爵。王国財務局の実務上の第二位。五十八歳。二十年以上国庫を管理してきた人物。


「でも、彼一人では無理」


私は言う。


「幽霊商会へ金を流すには、財務局外にも協力者が必要」


「銀行だ」


父が言った。


「決済先を追えば分かる」


「追えますか?」


「商人を甘く見るな」


父が立ち上がった。


三日後。決定的な証拠が見つかった。幽霊商会の口座から、毎月一定額が、ベルドン伯爵家の遠縁が経営する投資会社へ流れていた。さらにそこから、王国議会の複数議員へ。賄賂。横領。証拠隠滅。すべてつながる。だが、問題があった。


「誰に提出する?」


私は聞いた。


「財務局長は?」


ルーカスが首を振る。


「ベルドンの上司だ。潔白とは限らない」


「司法局」


「令状を出す前に情報が漏れる」


「国王陛下へ直接」


父が言った。それしかない。しかし謁見を申し込めば、理由を聞かれる。情報が漏れる可能性がある。


「王妃様の慈善晩餐会」


私は思い出した。


「三日後です」


父が私を見る。


「お前は招待されているな」


「はい」


「国王も来る」


「そこで渡す?」


「正式な告発状ではなく」


ルーカスが言う。


「陛下本人に、調査開始に足る資料だけを」


決まった。


三日後。王宮大広間。慈善晩餐会。音楽。笑い声。美しい衣装。誰も。王国史上最大級の横領事件の証拠が、この会場へ持ち込まれているとは思わない。私は扇の内側に折り畳んだ一覧表を隠していた。


「緊張している?」


ルーカスが隣で聞く。


「少し」


「珍しい」


「あなたの浮気を疑ったときよりは」


「まだ言うのか」


「一生言うわ」


「勘弁してくれ」


そのとき。国王が近くを通る。今。私は一歩出た。


「陛下」


「アーヴェル伯爵令嬢か」


「三分だけ、お時間をいただけますか」


国王の護衛が反応する。


「何の話だ」


私は答えた。


「王国が、一年間に金貨三十万枚以上を失っている可能性についてです」


国王の表情が消えた。


その夜。

王宮の小会議室に。国王。司法局長。近衛騎士団長。父。私。ルーカス。六人だけが集められた。


私は証拠を説明した。納入業者側帳簿。王国側記録。差額。中継商会。銀行記録。金の流れ。国王は最後まで口を挟まなかった。


「これを」


資料を見終えて、低い声で言う。


「そなたら二人で調べたのか」


「最初はルーカス様です」


「私は内部記録だけでした」


ルーカスが言う。


「外部記録を集めたのはセシリアです」


国王が私を見る。


「なぜ、このような調査を始めた」


困った。正直に言うしかない。


「……婚約者の浮気を疑いまして」


沈黙。司法局長が咳をした。父が顔を背ける。ルーカスは額を押さえた。


「浮気?」


国王が聞き返す。


「はい」


「そこから国庫横領が?」


「はい」


国王はしばらく黙り。そして。笑った。


「王国は、随分妙なところから救われたものだ」


翌朝。ベルドン伯爵は拘束された。同日中に関係者十一人。一週間で三十人以上。財務局だけでなく、議会、銀行、複数商会にも捜査が及んだ。最終的に確認された横領額は、金貨五十二万枚。王国史上最大だった。新聞は連日その話題で埋まった。


もちろん。私の名前は出ていない。表向きは、王国財務局内部監査による発覚。それでいい。


事件から一か月後。私はルーカスと王都の小さな喫茶店にいた。


「で」


私は言った。


「何だ」


「結婚するの?」


ルーカスが飲んでいた紅茶を噴きそうになった。


「急だな」


「事件が終わったから」


「普通はもっと情緒のある聞き方をしないか?」


「婚約しているのだから、確認でしょう」


「する」


即答された。


「私はしたい」


「では条件があります」


「何だ」


「今後、秘密の調査をするときは、必要な範囲で私にも伝えること」


「危険な場合は?」


「全部話せとは言っていない」


私は指を一本立てる。


「ただし、高級宿へ通い、宝飾店へ支払い、花を大量購入し、毎週金貨百枚を引き出す場合は説明すること」


ルーカスが笑い出した。


「分かった」


「笑い事ではありません」


「いや」


彼はまだ笑っている。


「浮気を疑われた結果、国庫横領が発覚したと思うと」


「私も不本意です」


「でも」


ルーカスが真面目な顔になる。


「ありがとう」


「何が?」


「一人だったら、証拠を集めきれなかった」


私は少しだけ黙った。


「次からは最初から頼って」


「はい」


「それと」


「まだあるのか」


「もう一つ」


私はバッグから紙を出した。


「何だこれ」


「結婚後の家計管理案」


「今?」


「今です」


ルーカスが天井を仰ぐ。


「セシリア」


「何?」


「君は本当に数字が好きだな」


「あなたよりは信用しています」


「ひどい」


「でも」


私は紙を閉じた。


「あなたのことも、少しは信用しています」


「少し?」


「今後の行動次第」


ルーカスは苦笑した。窓の外では、いつも通り王都の馬車が行き交っている。婚約者の浮気を疑った。結果、浮気ではなかった。その代わり、王国最大の横領事件を見つけた。予定とは随分違ったけれど。帳簿とは、そういうものだ。人が隠したいものほど、数字のどこかに残っている。私は新しい家計表をルーカスへ差し出した。


「では、まずこちらに署名を」


「事件の告発状より怖いな」


「失礼ね」


来年、私たちは結婚する。たぶん。浮気調査をすることは、もうない。ただし。


帳簿の確認だけは、これからも欠かすつもりはなかった。




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