婚約者の浮気を調べていたら、王国最大の横領事件を見つけてしまいました
婚約者の支出が、三か月で金貨八百枚増えていた。
高級宿。
宝飾店。
花屋。
そして、毎週同じ曜日に消える不可解な現金。
――浮気だ。
そう判断した伯爵令嬢セシリアは、婚約解消に備えて証拠を集め始めた。
ところが帳簿を追えば追うほど、おかしい。
金額が大きすぎる。
動いている人数も多すぎる。
そして最後にたどり着いたのは。
婚約者の愛人ではなく、王国財務局だった。
婚約者が浮気をしている。そう確信したのは、六月分の帳簿を見たときだった。
私はセシリア・アーヴェル、二十四歳。アーヴェル伯爵家の長女で、父が経営する王都最大級の穀物商会の会計監査を任されている。数字を見ることだけなら、刺繍や舞踏よりずっと得意だ。そして今、机の上に並んでいるのは、私の婚約者であるルーカス・フェルディン侯爵令息の支出記録だった。
もちろん、勝手に盗み見たわけではない。私とルーカスは来年結婚予定で、両家の資産整理のため、半年ほど前から互いの婚姻後財産に関係する収支を共有している。だから見つけてしまった。
「……金貨八百十二枚?」
三か月前と比べ、明らかに支出が増えている。私は帳簿を一行ずつ確認した。
王都西区の高級宿。金貨四十八枚。
宝飾商ローデン。金貨七十三枚。
花屋ベルフルール。金貨十二枚。
貸馬車。金貨九枚。
そして。
毎週木曜日。用途不明の現金引き出し。平均して金貨百枚前後。
合計。金貨六百枚以上。
「これはもう……」
浮気でしょう。私は椅子の背へもたれた。一般的な愛人へ使う額としては、かなり大きい。しかし侯爵家の嫡男なら、あり得なくもない。高級宿。宝石。花。現金。どう見ても怪しい。
「お嬢様?」
帳簿を運んできた侍女のミナが、私の顔を覗き込んだ。ミナ・クロウは商家出身で、五年前から私付きとして働いている。数字には強くないが、人の顔と噂を覚えることに関しては私より優秀だ。
「ルーカス様が浮気しているかもしれないわ」
「えっ」
「声が大きい」
「申し訳ありません」
ミナは慌てて口を押さえた。
「証拠はあるのですか?」
「今から集める」
「問い詰めないのですか?」
「数字がそろってから」
私は帳簿を閉じた。感情で責めて間違っていたら、こちらの信用が落ちる。本当に浮気なら。婚約を続けるかどうかを決めるためにも、事実を知る必要がある。
「まず、支出先を確認します」
「……お嬢様らしいですね」
「何が?」
「浮気調査を始める言葉とは思えません」
そうだろうか。
翌日。私は商会の用事を装い、宝飾商ローデンへ向かった。老舗の宝飾店で、王族や上級貴族も利用する。店主は父の知人だった。
「フェルディン侯爵家からの注文について?」
「はい。婚姻後の資産整理に必要で」
嘘ではない。店主は帳簿を確認した。
「ルーカス様のお名前では、最近大きな宝石の購入はございませんね」
「でも、金貨七十三枚の支払いが」
「ああ」
店主が頷く。
「それは銀細工です」
「銀細工?」
「小型の銀板を大量に」
宝石ではない?
「何に使うのですか?」
「さあ。こちらでは注文通り加工しただけで」
不思議だ。浮気相手への贈り物なら、銀板を大量に買う意味がない。
次。花屋ベルフルール。
「ルーカス様でしたら、毎週白い花を大量に」
「女性への贈り物ですか?」
「いいえ。花束ではなく、切り花を箱で」
「箱?」
「百本単位です」
ますます分からない。そして高級宿。受付で確認すると、ルーカスは確かに何度も部屋を取っていた。ただし。
「一人ですか?」
「いえ。毎回、数名の男性と」
私は黙った。
「女性はいない?」
「少なくとも、私どもが確認している限りでは」
浮気ではない。では何だ。その夜。私は三か月分の支出を並べ直した。高級宿。銀板。大量の白い花。貸馬車。現金。そして毎週木曜日。すべて木曜日周辺に集中している。
「木曜日……」
何かある。王都の定期市?違う。議会?王国財務局の週次決済日。手が止まった。ルーカスは、王国財務局の監査補佐官だ。侯爵家嫡男でありながら官職に就き、国庫支出の検査を担当している。つまり。これは私的支出ではない?
私は別の帳簿を開いた。父の商会が王国へ納入している穀物の代金記録だ。財務局からの支払い。毎週木曜日。一致した。嫌な感覚が背中を走る。
翌日。私は父に頼み、過去一年分の王国向け取引記録を出してもらった。
穀物。軍用保存食。馬糧。価格。数量。支払額。そして王国側の発注書。比較する。おかしい。
アーヴェル商会が納入した小麦。一万二千袋。支払い額、金貨四千八百枚。王国側の発注記録。一万五千袋。支出額、金貨六千枚。三千袋分、多い。私は別の月を見る。また多い。さらに別の月。また。
「……何これ」
誰かが、納入量を水増ししている。差額はどこへ?私は計算する。一年分。アーヴェル商会分だけで、金貨一万枚を超える。もし他の商会でも同じことが行われているなら。規模は桁違いになる。
「ミナ」
「はい」
「今すぐ、父を呼んで」
「何か?」
「浮気どころではなくなったわ」
父、エドモンド・アーヴェル伯爵は、爵位より商人として有名な五十歳の男だ。祖父の代に穀物商で財を築き、王家への功績で爵位を得た家の二代目。数字の異常には敏い。
「これは確かか」
「商会側の帳簿は」
「王国側は?」
「写しです。ただし発注印は財務局の正式なもの」
父の顔が険しくなる。
「ルーカス君には?」
「まだ」
「なぜ」
「彼が調べている可能性があります」
私は、ルーカスの不審な支出を説明した。高級宿。銀板。花。現金。
「銀板と花?」
父も首を傾げる。
「何かの暗号かしら」
「あるいは、証拠を残すための道具」
「どういう意味?」
「分からない」
分からないことが。腹立たしい。
その日の夕方。ルーカスが我が家へ来た。ルーカス・フェルディン、二十七歳。フェルディン侯爵家の嫡男で、王国財務局監査部に勤める官僚だ。柔らかな物腰で、社交界では穏やかな人物として通っている。
だが今の私は。その顔を素直に見られなかった。
「セシリア。急に呼び出してどうした?」
「聞きたいことがあります」
「何?」
「毎週木曜日、何をしています?」
一瞬。本当に一瞬だけ。表情が固まった。見逃さない。
「仕事だ」
「高級宿で?」
沈黙。
「銀板を買って?」
さらに沈黙。
「白い花を百本単位で買って?」
ルーカスが額を押さえた。
「どこまで調べた」
「浮気調査をしていたら、ここまで来ました」
「……浮気?」
初めて、彼の顔が崩れた。
「私が?」
「違ったようですね」
「何をどう見ればそうなる」
「高級宿、宝飾店、花屋、毎週大量の現金」
「確かに怪しいな」
本人が納得した。
「ですが今は、それよりこちらです」
私は王国発注記録と商会帳簿を並べる。ルーカスの顔から笑みが消えた。
「これをどこで」
「父の商会です」
「他人に見せたか?」
「父だけ」
「よかった」
その言葉で確信した。
「知っていたのね」
ルーカスが椅子へ座る。
「一部は」
「一部?」
「半年前から、財務局内で数字が合わない」
彼は声を落とした。
「軍需、公共工事、食糧備蓄。複数部署で支出額が納入実績より多い」
「横領?」
「ああ」
「誰が」
「分からない」
「だから調べている?」
「正式な監査をかけようとした」
彼は苦く笑った。
「だが、その監査命令自体が消えた」
私は黙る。
「つまり」
「上にいる」
財務局の上層部。下手をすれば。もっと上。
「高級宿は?」
「財務局外で協力者と会うため」
「銀板」
「記録用だ」
「紙では駄目なの?」
「改ざんされる」
ルーカスが小さな銀板を取り出した。表面には細かな刻印がある。
「数字を刻んでいる。加工後の傷まで記録すれば、あとから書き換えられない」
なるほど。
「白い花は?」
そこで。ルーカスが少し気まずそうな顔をした。
「合図だ」
「合図?」
「協力者が宿へ入る日の目印として、窓辺に白い花を置く」
「百本も?」
「宿の宴会装花に紛れさせる必要があった」
理解した。そして。腹が立ってきた。
「なぜ私に言わなかったの」
「危険だからだ」
「婚約者のあなたが毎週怪しい支出をしていれば、私は調べます」
「普通は聞くだろう」
「証拠がない状態で?」
「……君はそういう人だった」
何よ、その言い方は。私は腕を組んだ。
「それで、犯人は?」
「候補は三人」
「証拠は?」
「足りない」
「横領額は?」
「現時点で確認できているだけで、金貨三十万枚」
私は言葉を失った。王国年間予算の数パーセント。一貴族の不正では済まない。
「王国史上最大では?」
「だから表に出せない」
「違うでしょう」
私は即座に言った。
「大きいからこそ出すのよ」
ルーカスが私を見る。
「だが証拠が」
「商会側から集める」
「何?」
「王国側の帳簿だけ見ているから、改ざんされるの」
私は立ち上がる。
「納入業者側の帳簿を全部集める」
「そんなことが」
「できます」
私は父を見る。父が笑った。
「うちの娘を誰だと思っている」
嫌な言い方だが。今回は頼もしい。
そこから十日間。私は王都中の商会を回った。穀物。木材。石材。薬品。織物。武具。王国と取引している業者は多い。最初は皆、帳簿を見せたがらなかった。当然だ。しかし、父の信用と、私自身が長年築いた取引関係が役に立った。
「王国への納入記録だけで構いません」
「何に使う」
「過払い調査です」
「税務局か?」
「違います」
「では」
「今は言えません」
怪しまれながらも。四十七社分が集まった。比較する。数字が浮かぶ。特定の部署。特定の承認印。特定の曜日。そして。差額の一部が同じ名義の中継商会へ流れている。幽霊会社。住所へ行くと、空き倉庫だった。
「ここまでそろえば」
私は一覧表を机へ広げた。
「犯人を絞れる」
ルーカスと父が覗き込む。
「承認者は三人」
私は指を置く。
「でも、この三人全員が関与しているわけではない」
「なぜ分かる」
「横領がない取引もあるから」
承認者A。承認者B。承認者C。差額が発生した案件だけ抽出する。共通しているのは。
「最終決裁補佐」
ルーカスが呟いた。
「財務次官補、ベルドン」
ベルドン伯爵。王国財務局の実務上の第二位。五十八歳。二十年以上国庫を管理してきた人物。
「でも、彼一人では無理」
私は言う。
「幽霊商会へ金を流すには、財務局外にも協力者が必要」
「銀行だ」
父が言った。
「決済先を追えば分かる」
「追えますか?」
「商人を甘く見るな」
父が立ち上がった。
三日後。決定的な証拠が見つかった。幽霊商会の口座から、毎月一定額が、ベルドン伯爵家の遠縁が経営する投資会社へ流れていた。さらにそこから、王国議会の複数議員へ。賄賂。横領。証拠隠滅。すべてつながる。だが、問題があった。
「誰に提出する?」
私は聞いた。
「財務局長は?」
ルーカスが首を振る。
「ベルドンの上司だ。潔白とは限らない」
「司法局」
「令状を出す前に情報が漏れる」
「国王陛下へ直接」
父が言った。それしかない。しかし謁見を申し込めば、理由を聞かれる。情報が漏れる可能性がある。
「王妃様の慈善晩餐会」
私は思い出した。
「三日後です」
父が私を見る。
「お前は招待されているな」
「はい」
「国王も来る」
「そこで渡す?」
「正式な告発状ではなく」
ルーカスが言う。
「陛下本人に、調査開始に足る資料だけを」
決まった。
三日後。王宮大広間。慈善晩餐会。音楽。笑い声。美しい衣装。誰も。王国史上最大級の横領事件の証拠が、この会場へ持ち込まれているとは思わない。私は扇の内側に折り畳んだ一覧表を隠していた。
「緊張している?」
ルーカスが隣で聞く。
「少し」
「珍しい」
「あなたの浮気を疑ったときよりは」
「まだ言うのか」
「一生言うわ」
「勘弁してくれ」
そのとき。国王が近くを通る。今。私は一歩出た。
「陛下」
「アーヴェル伯爵令嬢か」
「三分だけ、お時間をいただけますか」
国王の護衛が反応する。
「何の話だ」
私は答えた。
「王国が、一年間に金貨三十万枚以上を失っている可能性についてです」
国王の表情が消えた。
その夜。
王宮の小会議室に。国王。司法局長。近衛騎士団長。父。私。ルーカス。六人だけが集められた。
私は証拠を説明した。納入業者側帳簿。王国側記録。差額。中継商会。銀行記録。金の流れ。国王は最後まで口を挟まなかった。
「これを」
資料を見終えて、低い声で言う。
「そなたら二人で調べたのか」
「最初はルーカス様です」
「私は内部記録だけでした」
ルーカスが言う。
「外部記録を集めたのはセシリアです」
国王が私を見る。
「なぜ、このような調査を始めた」
困った。正直に言うしかない。
「……婚約者の浮気を疑いまして」
沈黙。司法局長が咳をした。父が顔を背ける。ルーカスは額を押さえた。
「浮気?」
国王が聞き返す。
「はい」
「そこから国庫横領が?」
「はい」
国王はしばらく黙り。そして。笑った。
「王国は、随分妙なところから救われたものだ」
翌朝。ベルドン伯爵は拘束された。同日中に関係者十一人。一週間で三十人以上。財務局だけでなく、議会、銀行、複数商会にも捜査が及んだ。最終的に確認された横領額は、金貨五十二万枚。王国史上最大だった。新聞は連日その話題で埋まった。
もちろん。私の名前は出ていない。表向きは、王国財務局内部監査による発覚。それでいい。
事件から一か月後。私はルーカスと王都の小さな喫茶店にいた。
「で」
私は言った。
「何だ」
「結婚するの?」
ルーカスが飲んでいた紅茶を噴きそうになった。
「急だな」
「事件が終わったから」
「普通はもっと情緒のある聞き方をしないか?」
「婚約しているのだから、確認でしょう」
「する」
即答された。
「私はしたい」
「では条件があります」
「何だ」
「今後、秘密の調査をするときは、必要な範囲で私にも伝えること」
「危険な場合は?」
「全部話せとは言っていない」
私は指を一本立てる。
「ただし、高級宿へ通い、宝飾店へ支払い、花を大量購入し、毎週金貨百枚を引き出す場合は説明すること」
ルーカスが笑い出した。
「分かった」
「笑い事ではありません」
「いや」
彼はまだ笑っている。
「浮気を疑われた結果、国庫横領が発覚したと思うと」
「私も不本意です」
「でも」
ルーカスが真面目な顔になる。
「ありがとう」
「何が?」
「一人だったら、証拠を集めきれなかった」
私は少しだけ黙った。
「次からは最初から頼って」
「はい」
「それと」
「まだあるのか」
「もう一つ」
私はバッグから紙を出した。
「何だこれ」
「結婚後の家計管理案」
「今?」
「今です」
ルーカスが天井を仰ぐ。
「セシリア」
「何?」
「君は本当に数字が好きだな」
「あなたよりは信用しています」
「ひどい」
「でも」
私は紙を閉じた。
「あなたのことも、少しは信用しています」
「少し?」
「今後の行動次第」
ルーカスは苦笑した。窓の外では、いつも通り王都の馬車が行き交っている。婚約者の浮気を疑った。結果、浮気ではなかった。その代わり、王国最大の横領事件を見つけた。予定とは随分違ったけれど。帳簿とは、そういうものだ。人が隠したいものほど、数字のどこかに残っている。私は新しい家計表をルーカスへ差し出した。
「では、まずこちらに署名を」
「事件の告発状より怖いな」
「失礼ね」
来年、私たちは結婚する。たぶん。浮気調査をすることは、もうない。ただし。
帳簿の確認だけは、これからも欠かすつもりはなかった。




