プロローグ
悪魔のような女だった。こうなったのは何もかもあいつのせいなのだ。
数時間前のことである。アセビ・ワビサビーは冒険者になった。青年の希望に満ちた物語は始まったばかりだ。しかし今終わりを告げようとしている。
「大変なことになっちまった……」
現在アセビがいるのは、とある生物の住む洞窟。目の前にいるのは、鋭い爪と牙を持ち、大きな翼が生えている竜。ワイバーンだ。
「グルル……」
ワイバーンは、晩ごはんが生えてきたと思っているのか、アセビから目を逸らさず舌なめずりをしている。このままでは数秒後には胃袋の中だ。
アセビは自分の人生という名の物語を続けるため、闘志を燃やし、雄叫びを上げる。
「うおぉぉぉ! やってやろうじゃねえか! 来いトカゲ野郎! ぶっ倒してやらぁ!」
「グアァァァァァァ!!!!!!!」
「すんません調子に乗りました」
ワイバーンの咆哮。アセビは圧倒され、思わず即座に謝罪の言葉を口にした。何度も頭を下げているため、炎のように赤い髪の毛が激しく揺れている。
ワイバーンは全てを噛み砕く牙、鉄をも切り裂く鋭利な爪、突風を巻き起こす大きな翼が武器の巨大なモンスターだ。
一方アセビの武器は銅の剣のみ。防具は安物の胸当てと膝当てだけである。圧倒的な戦力差だ。
しかしアセビは希望を捨てない。どんなこともやってみなければわからないからだ。
「来い……もっと……近くに……来い!」
アセビは頭をゆっくりと上げ、瞬きを忘れてワイバーンをじっと見つめる。状況は絶望的だが、アセビには勝算があった。
「グルル……グアァァァ!」
ワイバーンがアセビを噛み砕くために、長い首を勢いよく伸ばす。強力な牙の前では、安物の防具は無意味に等しい。1度でも噛みつかれたら死が確定する。
「それを待ってたぜトカゲ野郎!」
アセビはその場でジャンプし、噛みつこうとするワイバーンの攻撃を避けた。あと1秒遅れていれば、噛み砕かれていただろう。本当にギリギリだった。
「勝ったぜ!」
ワイバーンの牙による攻撃を、アセビはジャンプして避けた。このままいけば、問題なく頭部を狙うことができる。
アセビは勝利を確信し、腕に力を込めた。
「頭潰せば倒せるだろぉ!? ストレングス! こいつでオレの筋力は倍増だぜ!」
アセビの腕が光り輝く。
ストレングスを発動すると、使用者の一部の身体能力が上昇する。その状態で繰り出す攻撃は強力だ。
アセビは素早く空中で銅の剣を構えると、ワイバーンの頭部に向かって思いっきり振り下ろす。気合いの込められた一撃を食らわせるために。
「農家舐めんな! オラァ!!」
アセビの攻撃がワイバーンの頭部に直撃するが、岩のように固かった。銅の剣はあっけなく折れ、切っ先が洞窟の天井に刺さる。
「折れたぁ!? だがオレの勝ちだな! フッ!」
アセビは勝利を確信してニヤリと笑い、正面を見据える。
ワイバーンは首を傾げ、小バカにするように欠伸をしていた。言葉を話すことはできないが、その目が言っている。そんな攻撃効かねえよクソボケ、と。
「……うん」
狙いは悪くなかった。攻撃はうまく決まった。
しかしそれでも、新人冒険者が簡単に倒せるほどワイバーンは脆弱な存在ではない。
アセビは青ざめ、ゆっくりと後ずさる。
「まだだ……アレを使えばまだ勝てる可能性が……」
アセビはワイバーンを見上げる。恐ろしく、そして大きい。
「いや無理だわ。でかすぎるしオレの手が届かねえ。ワイバーン先輩? このまま見逃してくださるっていうわけにはいかないっスかね……?」
「グアァァァァァァ!」
ワイバーンがアセビの疑問をかき消すように、再び咆哮を上げる。見逃すはずがない。目の前の人間は、ワイバーンにとって、ただの晩ごはんなのだから。
「ですよねー……」
ワイバーンは爪を見せつけながら、猫がネズミをいたぶるようにゆっくりと近づく。彼は言っているのだ。この爪で引き裂いてやる、と。
アセビはじりじりと下がりながら、顔をしかめる。
「こいつ絶対性格悪いわ。ほとばしる青春がなかったんだろうな。オレわかるよ。こいつそういうタイプだよ」
アセビのネチネチとした精神攻撃が効いたのか、ワイバーンは額に青筋を浮かべている。鋭い眼光で睨みつけたまま、大地を何度も踏みしめた。
「やっべ。怒っちゃいました?」
今さら後悔しても遅い。
ワイバーンは巣を荒らされたこと、精神攻撃を受けたことで怒り狂っている。今にもアセビに飛びかかろうとしていた。
「あっ!?」
アセビは驚愕の表情を浮かべ、突然大声を上げてワイバーンの後ろを指差した。
「!?」
ワイバーンが勢いよく振り向く。なにも、ない。見慣れた洞窟の景色が広がっているだけだった。
ワイバーンが正面に向き直ると、晩ごはんの背中が見えた。彼は腕を必死に振りながら走っている。みるみるうちにワイバーンから距離を離し、あっという間に洞窟を脱出していった。
「グアァァァァァァ!!」
ワイバーンは激昂する。巣を荒らされたこと、騙されたこと、逃げられてしまったことに。
取るに足らない晩ごはんと思っていた人間に、ここまでコケにされてはプライドが許さないのだろう。
ワイバーンは大きな翼を広げた。
「よっしゃあっ! なんとか脱出できたぜっ!」
アセビは来た道を必死に走り抜けた。崖から落ちないように。ワイバーンから離れるよう大急ぎで。
「あとはこいつを持って帰れば……ん?」
背後に気配を感じた。嫌な予感を抱きながら、アセビがゆっくり振り向く。
そこに、いた。巨大な漆黒の竜、ワイバーンが。翼を羽ばたかせ、空中を移動しながら、憤怒の形相でアセビに近づこうとしている。捕まれば命はない。
アセビはストレングスを使ったため、脚力は普段よりも強化されている。簡単には捕まらない。しかし効果が切れた瞬間、あの世への招待状が、アセビの前に送り届けられることになるだろう。
「しつこいぞ! 見逃してくれ! 次会ったらなんかうまいもんご馳走するから! 肉でも魚でもなんでも食べさせてやるから!」
「ガァァァァァァ!」
アセビの懇願は聞き入れられるはずもない。うまく脱出できたと思ったのにこれである。
一難去ってまた一難。人生とは、なかなかうまくいかないものなのである。
「クソっ! こうなったのも全部あいつのせいじゃねえかよ! あ〜、ムカついてきた!」
アセビの脳裏に、白頭巾の少女の姿が過る。彼女は天使のように可愛らしく、そして悪魔のような女だった。
「このまま死ねるか! あいつを1発ぶん殴ってやらねえと死んでも死にきれねえ! あっ!?」
怒りに燃えるアセビの目に、白い頭巾を被った少女の華奢で頼りない背中が映る。足を必死に動かし、ワイバーンの巣から離れている最中だった。
アセビの魂に怒りの炎が燃え上がる。
「見つけたぞ悪魔女! 待ちやがれ!」
ワイバーンがアセビを追いかけ、アセビが白頭巾の少女を追いかける。奇妙な構図ができあがっていた。
「お前がな! お前が全部悪いんだよ!!」
アセビは怒りの感情を吐き出し、悪魔女と読んだ少女に向かって驚異的な速度で近づいていく。
早い、早い、早い! あっという間に目標に近づいていく。
しかし忘れてはいけないこともある。アセビは背後を一瞥し、血の気が引くのを感じていた。
「あっワイバーン先輩もいるんでしたね……」
アセビは怒りで忘れかけていた。そう、ワイバーンが追いかけてきているのだ。命がけの鬼ごっこは、どちらかの命が失われるまで終わらない。
「と、とりあえず……おい悪魔女ァ! 待てやっ!」
アセビは足を必死に動かす。止まることは死を意味するからだ。走り続けるしかない。生き残るために。
「諦めなければなんとかなる! 多分だけど! おい悪魔女ァ! 聞こえてるだろ悪魔女ァ!」
アセビの声が聞こえたのだろう。白頭巾の少女が振り返る。天使のように可愛らしい顔だった。アセビに何度も悪魔女と呼ばれた少女は、満面の笑みを浮かべる。
「あなたと無事にまた会えるなんて! これはきっと運命ね! 素敵じゃない!」
「クソみたいな運命だな!」
アセビは吐き捨てるように言った。
これは、アセビ・ワビサビーが、問題児たちといっしょに、ちょっとだけ頑張る物語である。




