前編
イ・ルーエ・ロダンがジェイド・ヴェズレイ卿の副官になってから随分と経つ。
『王立』第三副団長の手足として、王都内を忙しく走り回り、『王立』だけでなく、『近衛』や王宮内務まで顔が知られるようになっていた。
王都でも珍しい褐色系のルーエが目立たないわけがない。
彼が『王立』の書簡筒を抱えて歩く姿は誰もが振り返る。
背が高く、筋骨がっしりしていて、重いはずの腰の剣も軽やかに見える。他部署に行くときに羽織っている緑のマントが映える白髪も男女を問わず、眼を見張らせる。
今日の最後の使いは『近衛』で、『騎士見習』の合同夜営訓練の計画書の提出だった。
『近衛』の事務方は、王宮内にある。
本当なら「平民」身分のルーエが単身で入れるところではないが、『王立』の伝令襷で入れてもらえる。
伝令詰所で書簡筒を預けて用件は終わりだ。
一礼をして詰所を出ると、通りかかった事務方、官房長に呼び止められた。
「ルーエ君、」
ルーエが官房長に頭を下げた。
「今、帰りかね?」
「はい、ガーネット男爵閣下。」
「…今月、『伯爵』位を頂いた。」
「は!?
これは失礼いたしました!」
ルーエが深く頭を下げた。
「官房長にさせられるのに決められた。前の方が気楽だったのだがね。」
ガーネット卿が苦笑を浮かべた。
マクシミリアン・ガーネット伯、近衛官房長は、従卒の少年にマントを預けて先に行かせた。
「時間、かまわないか?」
「はい、閣下。」
酷く恐縮してルーエが直立不動で答えた。
「外へ。」
ガーネットは『近衛』の隊舎前の庭にルーエを誘った
ガーネットが立ち止まり、ルーエも足を止め、敬礼して頭を下げた。
「堅苦しいのはやめてくれたまえ。
君とは普通の友人でありたい。」
ルーエが顔を上げた。
「そうは言うものの・・・。
こんなところで済まない。じつは仕事の話だ。」
「…。」
「君は、ラインハルト・キンバリー伯爵を覚えているだろうか。」
「え?」意外な人物の名に思わず声が出た。
「元『王立』騎士団長殿だね。」
ルーエが頷く。忘れるはずもない人の名だ。
「自分が『王立』に入団して、最初にお付きした方です。」
ガーネット伯が頷いた。
「元『王立』の方と言ってもキンバリー卿は伯爵位の貴族だから、『近衛』の事務方も連絡を取っている。
長らく療養を続けておいでいたようだね。」
「はい。」
「そのキンバリー伯から、『伯爵家』の返上の申し出があって、『近衛』の事務方が手続きをしている。」
「まさか! お亡くなりに!」ルーエが青くなる。
「ルーエ君、」ガーネット卿が苦笑を浮かべた。
「キンバリー伯は、まだ元気なうちにお家の仕舞いをしたいという話だったんだよ。」
「あ、ああ…。」
ルーエがほっとする。
「それでキンバリー伯に手続きが済んだ確認をしてほしくてね。
療養所に行ってもらえないだろうか。」
「え? 自分がですか? 『近衛』のお役目でしょう?」
「『近衛』には、私を含め、キンバリー伯を存じ上げる者がいなくてね。
キンバリー伯が信用して話ができる者を探したんだ。」
「君が適任だと思う。」
「…。」
「キンバリー伯が『王立』を離れるまで従者だったんだろう?」
「…はい。」
「『近衛』が『王立』の騎士に指図するわけにいかないのでね、依頼をするつもりだが、君の意思も確認したかった。」
「…許されるなら、キンバリー様にお会いしたいです。
でも、」
「『王立』には私から話を通す。程なく、出かけてもらうことになるから、準備を頼む。」
「はっ、ガーネット閣下。」
少し緊張してルーエが敬礼した。
ガーネット卿の表情が穏やかになった。
「最近、エリー嬢とはどうなっているのかな?」
ガーネット卿の質問にルーエが固まってしまった。
◇◇◇
『王立』の定期馬車に揺られて、王都郊外の療養所についたのは昼過ぎだった。貴族専用の療養所なので外観は大邸宅の趣きである。親族に恵まれなかったり傷病で助力のいる療養を必要とする貴族たちが入所している。
もっとも、個々の財力によってその暮らし向きはいろいろだが。
療養所の受付で、キンバリー伯の離れの場所を確かめ、大きな文箱を抱えてルーエは療養所奥の丘を登った。
キンバリー伯は、この療養所に長く暮らしている。
ルーエが仕えて三、四年目ぐらいに病を得て、騎士団長を辞し、ここに移った。
まだ若いというのに身体の自由が徐々に失われていく難病ということだった。
キンバリー伯は家庭を持っていなかった。親族もなく、天涯孤独な身だったため友人たちがこの療養所を探してくれたのだ。
キンバリー伯の離れは、背後に大きな森がある丘の上だった。
心地よい綺麗な風が緩やかに吹いている。
他の建物が豪奢なのに比べて、キンバリー伯の離れはこじんまりした作りだった。キンバリー伯は華美を好まず、質実剛健な面があったせいか、飾り気のない家はとても似合っている。木造の狩り小屋のような外観は彼らしい。
キンバリー伯の介護人の詰所に声をかけ、ルーエは寝室へ向かった。
白く塗られた扉をそっと叩く。
「どうぞ。」
はっきりとした声で返事があった。低く小さくはなったが、あの方の声だ。
扉を開けて深く頭を下げた。
「お久しぶりです、閣下。
イ・ルーエ・ロダンです。」
「…顔を見せてくれ、ルーエ。」
ルーエが顔を上げた。
キンバリーの長くなった黄土色の髪はもうほとんど白髪だ。肩口を紐で結んでいる。半身を寝台に起こし、微笑んでいた。その穏やかな笑みは昔と変わらない。
「え、ええっと…」ルーエが口ごもる。
(『お元気そうで』は、違うな。『老けましたね』、これは失礼か。)
「随分と大きくなったな。」
キンバリーのほうが笑いながら言った。
「背は変わりませんよ。え、太ったかな?」
ルーエが自分を見回す。
「老けた、という意味だな。」
キンバリーのほうが、笑いが止まらない。
ルーエは携えてきた文箱を寝台のそばに置いた。
「『近衛』から預かってまいりました。
最終のご確認をお願いしたいそうです。」
「『近衛』? お前は『王立』だろう?」
「『近衛』の官房長から命じられました。
オレ、じゃない、自分が適任だろうと。」
「『近衛』の官房長? 誰だ?」
「マクシミリアン・ガーネット伯爵様です。」
キンバリーがはてなという顔をした。
「えっと、ガーネット男爵家に婿入りされて、今は官房長で『伯爵』閣下で…」
「…マクシミリアン?」
「あ、あの… 昔、エリー・ケリー・アナスン侯爵令嬢の婚約者だった方です。」
小声でルーエが付け足した。
「マクスか。」キンバリーが呟いた。ルーエには聞こえない。
「ご存じの方でございますか?」
「同じ家門だったと思う。」
「は?
お知り合いじゃないと伺いましたが?」
キンバリーが答えず、笑ってごまかした。
「…書類はあとで改めよう。手伝ってくれるのだろ?」
「はい、閣下。」
またキンバリーが笑った。
「かしこまらなくていい、昔のように『おっさん』でかまわない。」
「さすがにそれはできません!」
ルーエも噴き出してしまった。
「窓を開けてくれ。」
ルーエがキンバリーの言葉に窓を大きく開けた。
穏やかな風が流れてくる。寝室の窓からは丘のふもとが見える。
コツコツと扉が叩かれた。
「どうぞ、」
キンバリーの返事に扉が開いて、白衣の人物が入ってきた。『治療院』の制服だ。
その人物を見て、ルーエが口をあんぐりさせる。相手もおやっという顔をしてから優しい笑顔を見せた。
「ルーエさん、どうしてここに?」
「センセイこそ…」
また、キンバリーに笑みが浮かぶ。
「知り合いなのか、ルーエ?」
「え、ええ、まぁ…」
エリーは笑みを浮かべてキンバリーのそばによった。手に持った盆を枕元の台に置く。匙をとると椀の中の水薬をすくい上げた。キンバリーの口元に運ぶ。
「おじ様、お薬です。」
キンバリーの顔が渋くなる。
「これは、苦いんだ。」
「ダメです、飲んでいただかないと。」
「おい、ルーエ、代わりに飲め。」
ルーエが噴き出す。
「俺が飲んでどうするんですか!」
「そうだな。」
キンバリーが差し出された匙を口に入れた。
手を使っていない。
ルーエが心配そうな顔をした。
「行儀が悪くてすまないな。」
「いえ、閣下…。」
「手がうまく動かんのだ。匙を持つとこぼしてしまう。」
エリーが少し寂しく微笑んだ。もうひと匙、キンバリーの口元に運んだ。
「次は、お夕食のときにまいります。」
エリーが二人に頭を下げて部屋を出て行った。
ルーエがその後ろ姿を見送った。
「お前と知り合いとは不思議な話だ。」
「は、はい。
上司の、今の上司は、ジェイド・ヴェズレイ卿、第三を指揮する副団長閣下で、マリー・ケリー・アナスン侯爵、右翼副団長の夫君です。
エリー様の義理のお兄様にあたる方で…その…。」
「くどいな。
で、付き合っている仲なのか?」
「め、めっそうもありません!
オレなんか!」ルーエが慌てて否定する。
キンバリーが笑った。
「まあ、よかろう。
では、ルーエ、書類を読み上げてくれ。確認をしよう。」
キンバリーの枕元に椅子を置いてルーエが腰かけた。
文箱から取り出した分厚い書類を寝台の隅に置くと、上から手に取った。
◇◇◇
『近衛』から託された書類の確認が終わったのは、空が夕日にかわる頃になっていた。
ルーエの読み上げる一項目ごとにキンバリーは頷き、署名を行う。最初はきれいに書いていたが、終わるころには文字に震えがあった。休み休みだったり、ペンを持つ腕をルーエがそっと支えたりして署名してきたのだった。
一番最後の一枚紙は、養子縁組の書類だった。
ルーエのほうがえっという顔をした。
「閣下、ご養子をとられるんですか!」
養親欄にはすでに力強いキンバリーの署名がある。
この用紙はほかのものよりも少し古びれている。
「ずっと前に、養子に迎えたい者がいたんだが、本人に話し出せなくてな。
保留にしていた。」
「そんな方が…。
これはどういたしましょうか?」
キンバリーが微笑んだ。
「お前、署名しないか?」
「はぁ?」ルーエが口をぽかんと開ける。
「『貴族』になれるぞ。」
「そんなこと…。」
「もう一つの役目から、降りられる。」
小声でキンバリーが言った
ルーエは俯いてしまったがしっかり答えた。
「その気はありませんよ。」
キンバリーがルーエを見て微笑んだ。
「だがな、署名すれば、エリー嬢に求婚できる。」
「じょ、ご冗談はおやめください!
求婚だなんて、センセイにご迷惑でしょう!」
慌てて否定したルーエが少し赤くなっていた。褐色の肌ではわかりづらいはずなのに。
「ルーエ、幸せになれ。」
ルーエが見せたのは、申し訳ないという表情だった。
会話が途切れたところで扉が叩かれて、エリーが顔を出した。
「ああ、そんな時間か。」
「そんな時間ですよ、おじ様。」
エリーが薬の盆を掲げて入ってきた。ルーエが慌てて席を立って彼女に場所を譲る。
「苦いのは嫌なんだがな。」
「ダメです。飲まないと痛みが酷くなりますよ。」
キンバリーは、エリーの差し出す匙を口にした。
全部飲み終わって、一息つく。
「お仕事は、お済みになりましたか。もう横になられたほうが。」
「そうだな、少し疲れた。」
「ルーエさん、手を貸していただけますか。」
ルーエがキンバリーのそばに来て、背中を支えた。ゆっくりと横にする。
「ハリー、まだ生きているか?」
陽気な声でグラハム医師が入ってきた。
「グラハム先生!」
エリーに笑顔が浮かぶ。
ルーエも会釈をした。
「なんだ、お前もいたのか、ルーエ。」
「はぁ…。」
「今日は随分と賑やかじゃないか。」
「まあな。」キンバリーが答える。
「ルーエはなんでここに?」
「『近衛』の用事を請け負ってきたんだ。」
答えたのはキンバリーだった。
部屋の隅っこでルーエが立っている。
「相変わらずの、『なんでも屋』だな。」
グラハムも笑う。
「で、用は終わったのか?
なんだ、一枚残っているぞ。」
グラハムが養子縁組の書類をひらひらさせた。
「…いいんだ、破り捨ててくれ。」
ちらりと書類を見てグラハムが頷くと勢いよく破った。
残念そうなキンバリーの顔とほっとしたルーエの顔が対照的だった。
「エリー、今夜は私がハリーを見ているから、もういいよ。」
「グラハム先生?」
「夕飯、ルーエが奢ってくれるってさ。」
「えっ!」
「えー!」
エリーが目を輝かせ、ルーエが酷く動揺する。
「広場に夜店が出ていたよ。
ゆっくり楽しんでおいで。」
エリーが嬉しそうな顔をしてルーエを見上げた。その笑顔には勝てない。
「…じゃ、お言葉に甘えて。
行きましょうか、センセイ。」
「はい!」エイミーのように元気な返事が返ってきた。
二人を見送って、キンバリーがため息をついた。
「…結局、『うん』といってもらえなかったのか?」
グラハムが笑いながら、キンバリーに尋ねた。
「軽く、流されてしまった。即答で断られた。」
「そうか。」
「自由な奴だからな。」
ふふとキンバリーが笑う。
「エリーと知り合いだと思わなかったよ。」
「偶然らしいぞ。
何でも、エリーがルーエの店に飲みに行ったらしい。」
「?」
「お前が、酒なんか教えるからだ。マリー以上に酒豪だ。」
「…誰にでも取り柄はある。」
「まあな。」グラハムが笑った。
「…息子や娘がいたら、あんな感じなんだろうか。」
「…そうかもな。
お前も俺も、子供には恵まれなかったな。」
「何いってる、お前には嫁がいるじゃないか。」
「嫁って、俺より偉い院長様だぞ。いまだに顎でこき使われている。」
ははとキンバリーが笑う。
「…俺を呼んだのは、
いいのか?」
「ああ、よく、生きた…。」
キンバリーが目を閉じた。