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白髪のお姉さん ~綺麗な女神さまと過ごした夏休み~

作者: zeke

季節感のきの字もありませんが新作です

書きながら、プロットを練っておくことの重大さを痛感しました

 初めて彼女と出会ったのは、裏山の中腹にある古びた神社の前だった。

 艶のあるまっさらな白髪が夏の木漏れ日をきらきら反射して、まるで女神様みたいだと思ったのを、今でもよく覚えている。


 小学生の頃に一度だけ、僕は田舎にある祖父母の家に預けられたことがあった。

 両親の長期出張に夏休みが重なってのことで、期間は一か月と少し。子供を一人置いていくわけにはいかないし、良い機会だから田舎の自然に触れさせようとか、そんなつもりだったらしい。

 都会での暮らししか知らなかった僕にとっては、自然豊かな田舎なんて未知の世界。何が起きるか楽しみでドキドキしていたのだけれど、あったのはひたすら退屈な日々だった。

 なにせ祖父母が住んでいたのは、山々に囲まれた小さな小さな集落だったのだ。

 十軒かそこらの住宅に、住んでいるのは老人ばかり。平地になっている中央部を田畑にしてなんとか生計を立てているような、車がなければどこにも行けない僻地の村。コンビニや公園みたいな遊び場もなければ、同年代の遊び相手もいない。当時の僕には、あまりにも刺激の無い場所だった。

 宿題をしたあとは、持ってきたゲームでひたすら暇潰し。ただそれだけの一日を何回か繰り返したところで、僕は耐えられなくなって外へ飛び出した。

 つまらないというのもあったが、正直なところ少し寂しかったのだ。

 昼食のために戻ってくる以外は、祖父母は夕方まで畑仕事。一緒に遊べそうな子供もおらず、広い家にずっと一人というのは、当時の僕には寂しかった。

 何か楽しいことはないか、誰か遊んでくれる人はいないか。そう祈りながら家の周りを探索していた時に見つけたのが、あの神社へと続く階段だった。

 納屋の影にひっそりと隠れて、裏山へと伸びている、苔むして崩れかけた石段。

 これだ、と思った。この階段の先にきっと楽しいことがあるに違いないと、そう思わずにはいられなかった。

 子供には段差のきつい石段を一歩一歩登っていき、脇から生い茂る下草を短パン姿の脚でかき分けて。そこら中で鳴り響く蝉の鳴き声をBGMに、汗を吸ったタンクトップが肌にはりつくのも構わずに。

 木々に覆われた薄暗い山道を、期待と希望で胸を膨らませながら息を切らして登り切った先。階段が途切れるのとほぼ同時に、視界が急に開ける。

「ついた……!」

 辿り着いた先にあったのは、今にも朽ち果てそうな古い神社だった。

 壁板も屋根もボロボロに痛んで、神様どころかお化けが出てきそうなほど。周りは平たく整地されていたけれど、雑草が生い茂っていて足元は見えない。薄暗かった山道と太陽が照り付ける境内を仕切るように、石製の今にも崩れそうな鳥居が静かに建っている。

 森の奥深くに隠された、冒険心をくすぐる廃神社。

 その縁側、ひさしの影になる場所に寝転んでいたのが、薄桃色の浴衣に身を包んだ、彼女だった。

「……ん?」

 モデルのように整った、すらりと細い身体。テレビでしか見たことのないようなクールで大人びた顔つき。あまりの美しさに、子供ながらにドギマギさせられた。

「珍しいの、こんな若人は」

 だが、何よりも目を引いたのが、人間離れした彼女の髪だった。

 木漏れ日を反射してきらきらと輝く白髪は、遠目でも分かるほどに真っすぐで瑞々しい。肩にかかるくらいの長さのそれは横たわる持ち主の顔にさらりとかかり、綺麗な大人という印象を強くする。億劫そうに髪をかき上げるその手つきに、訳も分からずドキドキさせられた。

 ここに来てからはおろか、都会でだって見たことがないような、綺麗なお姉さん。

 お話に出てくる女神様みたいな、人間離れした美しさに、僕の目はどうしようもなく奪われてしまっていた。

「おい、坊、こっちに来んか。そこは日があたって暑かろう」

 寝そべったまま、お姉さんが腕だけを伸ばして手招きする。浴衣の袖から伸びた腕は細くて、ひらひらと振られると花が風に吹かれているよう。

 綺麗だな、なんてのぼせた頭で思いながら。返事もせずにぼーっと立ったまま、僕はしばらくの間お姉さんを見つめていた。

「……坊、どうした?」

 動かない僕を不思議に思ったお姉さんの言葉で、僕ははっと我に帰る。

 やばい。変な事しちゃった。

 初めて会った人に挨拶もせず、じろじろと見つめるのはよくない事。お母さんにはそう言われたのに。

 どうしよう、こんな綺麗な人に嫌われるのは嫌だ。

「え、あ、その……」

 恥ずかしさで顔が熱くなって、思わず俯いてしまう。何とか挨拶しようとしても上手く言葉にならなくて、あの、えっと、と繰り返すだけ。ちらちらと見るのが精一杯で、目線を合わせようとしても中々合わせられず。挨拶も上手く出来ない自分が、ますます恥ずかしくなっていく。

「おやおや、可愛いのう」

 肩をすぼめて縮こまる僕に、お姉さんにはそっと笑いかけてくれた。

「早うこっちに来い。そこにおったら暑かろう」

 そう言って柔らかく微笑むお姉さんの笑顔は、お婆ちゃんみたいに優しくて。

 その笑顔に吸い寄せられるように、僕はふらふらとお姉さんの方へ歩いて行った。


 体を起こしたお姉さんの隣、少しだけ離れたところに、恐る恐る腰を下ろす。ボロボロの板敷きが文句を言うみたいに軋んだけれど、そんなことに気付かないくらいに僕は緊張していた。

 だって、余りにも美人だったから。

 顔も、髪も、仕草も。僕なんかが隣にいて良いのかなって思っちゃうくらい綺麗だった。目を合わせるのも恥ずかしくて、ちらちらと横目で盗み見するのが精一杯。お姉さんの細い目が僕を見つめているのをひしひしと感じながら、ドキドキうるさい胸の音を押し込めるみたいに、縮こまって座ることしか出来なかった。

「よう来たの。折角じゃ、西瓜でも食わんか?」

 そんなことを言われたけれど、出来たのは何とか頷くことだけ。喉がからからで上手く喋れず、ぎゅっと握りしめた両手を太ももの上にのっけて、僕の身体はガチガチに固まってしまっている。

「そう縮こまらずともよい。ほれ」

 はたして、いつ現れたのか。

 横を見たときには、丁寧に切り分けられた西瓜が、大皿にたっぷり盛られて僕とお姉さんの間に置かれていた。

 お皿も西瓜もさっきまで無かったはずで、お姉さんも隣に座ったままだったはず。まるで手品のような出来事に僕はとてもびっくりして、思わず、お姉さんのすっきりとした横顔をまじまじと見つめてしまう。

「ん? どうした?」

 僕を見つめ返すお姉さんは、さも当然のように不思議な西瓜へ口をつけた。

 肩にかかったまっさらな白髪をそよ風が柔らかく吹き崩して、形の良い耳一瞬だけ目に映る。ひさしの影にうっすらと覆われたお姉さんの中で、そこだけふわふわと輝いている透き通った白髪。

「ほれ、食え食え。毒なぞ入っておらんよ」

 しゃくしゃくと軽快な音をたてながら、お姉さんは切り分けられた西瓜を食べていく。ぺっと種を吐き出す仕草ですら、この人がやるとどこか綺麗だ。

「……いただき、ます」

 山のように積み上げられた、真っ赤に熟した皮つき西瓜。

 その山から一つを手に取って、おっかなびっくり一口かじった。

 しゃく。

「……! おいしい……!」

 頬張るたびに弾ける甘さ。まるでジュースみたいな果汁が一噛み毎にあふれ出て、乾いた喉にみるみる染み込んでいく。二口、三口と夢中になってかぶりついていたら、あっという間に皮だけになった。

 横に座っているお姉さんが、嬉しそうに二つ目を手渡してくれる。

「そうかそうか、ほれ、まだ沢山あるからな」

「うん!」

 勢いのまま、二つめにかぶりついた。

 一つめと変わらない瑞々しい甘さが、口の中いっぱいに弾ける。何個だって食べられそうなほど美味しくて、頬張る手が止まらない。一つ食べたらまた次、その繰り返しが、飽きることなく続けられてしまう。

 あっという間に小さくなっていく西瓜の山。僕がようやく満足したときには、空っぽの大皿だけが横に置かれていた。

「美味しかったか、坊?」

「うん! ありがとう!」

「そうか、よかった」

 満面の笑みでお礼を言う僕に、お姉さんはニコニコ笑って喜んでくれた。

 はちきれそうなお腹がちょっと苦しくて、その場にごろんと横になる。ひさしの陰になっていた板敷きは、ひんやりと涼しかった。あれだけドキドキしていたはずの心も落ち着いて、緊張していたのもいつの間にかすっかり消えている。

 お腹いっぱいになってぼーっとしていた僕を、お姉さんが上から覗き込んできた。

「坊は何故、ここに来たのかの? 地元の者も滅多に来ぬ場所ぞ?」

 なんでかは分からないけど、お姉さんはなんだかうきうきしてる。影になって見えづらいけど、声が楽しそう。

 横になったままは失礼かなと思ったけれど、動きたくなかったから、寝そべったまま答えた。

「えーっと、お家にいたんだけど退屈で、周り散歩してたら階段があったから、それで……」

「それで登ってきたのか。一人でか?」

「うん。お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、今は畑でお仕事中だし」

 ……一緒に遊んでくれそうな友達も、ここにはいないし。

「坊、家はどこじゃ?」

「今いるのは、ここから下りてすぐのところ。お祖父ちゃんの家」

「参道を下りてすぐ……」

 一瞬考えただけで、お姉さんは僕が住んでる場所を当ててみせた。

「ああ、ということは、秀蔵の家か」

 お姉さんの口からぽんと飛び出た、僕のお祖父ちゃんの名前。知っている名前がいきなり出てきたことに驚いて、僕は思わず飛び起きる。

「お祖父ちゃんのこと知ってるの!? 何で!?」

「知っとるとも。ここいらに住んどる者のことは皆知っとる。いやあそうか、あの秀蔵の……」

 しみじみと呟くお姉さん。思い出に浸るように細められたその眼差しは、鳥居の向こう、お祖父ちゃんの家の方へと向いている。切り揃えられた白髪の陰で、お姉さんの口元がほんの少し緩んだように見えた。

「あの悪ガキに孫、なあ……。時が過ぎるのは、早いものじゃて」

 どう見てもお姉さんは若いはずなのに、まるでお祖父ちゃんよりもずっと年上かのような口ぶり。さっきから頭の隅っこにあった疑問が、だんだん形を帯びてくる。

「あ、あの……」

「どうした? お腹いっぱいで眠くなったか?」

 なんなら膝枕でも、なんて言いかけたお姉さんに慌てて首を振って、気になったことを訊いた。

「い、いや、そうじゃなくて……。その、お姉さんはなんでここにいるのかな、って」

「なんでと言われても……」

 会ってから初めて、お姉さんは呆れたような顔になった。何を変な事を、そう言いたげに、整った首を傾げる。

 さらさらとした白髪が、肩から首元へと流れた。

「吾は住んどるからの、この神社に」

「え!? 住んでるの!?」

 ここに住んでいる。そう言われて、思わず僕は飛び起きた。

 だってここ、どう見ても人の住むところじゃない。

 柱はボロボロ、板で出来た壁は穴だらけ。扉があるはずの場所はがらんどうで、屋根にも青草が生えている。どう見ても廃墟だ。

「こんなボロボロのお家に住んでて、怖くないの?」

「社が崩れたとて、吾がどうなるわけでもないからのう」

 なにせ、と。まるで普段の雑談みたいな口ぶりで、お姉さんはこの日一番の爆弾発言を口にした。

「吾は、この神社に祀られておる神じゃからの。人と違うて、怪我や病気はせぬ」

 あまりの驚きに、言葉も出なかった。

「えっ……え?」

 目の前に座っているお姉さんが、まさか神様、だなんて。

 そりゃあ、まるで女神様みたいに綺麗だなとは思ったけれど、まさか、そんな。

「ほん、と……?」

「本当じゃ。ほれ」

 そう言うと、お姉さんは右手を前へと突き出す。

 浴衣から伸びる真っ白な腕。お母さんやお祖母ちゃんとは何かが違う、とても、とても真っ白な腕。

 何かを受け止めるみたいに手のひらを上に向けて、よう見とれよ、と言うと、お姉さんは腕に力を込めた。

「む……!」

 静かだったはずの風が、段々と強く荒れていく。ごうごうと音を立てる風に煽られて、お姉さんの綺麗な白髪が激しく舞い踊る。

 強い風に目を細めながら見入っていると、上に向けられた手のひらからごぼごぼと水が湧きだしてきた。

「うわあ……!」

 白くすべすべしたお姉さんの手から、まるで湧き水のように水が噴き出していく。陽の光を浴びてきらきら輝きながら湧いては溢れていく水の粒はとても綺麗で、心を奪われてしまった僕は目をまん丸に見開いて眺めた。

 どれほどの間そうしていたのかは分からない。時間を忘れるほどの素敵な体験が終わったときには、僕はお姉さんの言葉をすっかり信じ込んでいた。

「すごい! 本当だったんだ!」

「そうじゃとも。吾はここら一帯の土地神よ」

 自慢げに胸を張るお姉さん。どことなく子供っぽい振る舞いだったせいか、僕の心に無遠慮な好奇心が湧いた。

「ね、腕、触っていい?」

 言うが早いか、僕は手を伸ばす。子供の僕の左手が、お姉さんの白い右腕を掴んだ。

 ……はずだった。

「え……?」

 掴もうとしたはずのその腕を、僕の左手はぶつかることなくすり抜ける。まるでくっつくかのように交差する二本の腕。

 ありえない、起きるはずのないこと。フリーズした頭が目の前の出来事を理解したとき、反射的に、僕は自分の腕を引っ込めた。

 さっきまでわくわくしていたはずなのに、急に恐怖が襲い掛かってくる。

「ひっ……!」

 そこにいるのに、触ったはずなのに、通り抜ける。姿が見えるのに、声も聞こえるのに、触れない。

 それじゃあ、まるで。

「ゆう、れい……!」

「幽霊、か」

 ガタガタ震える身体を抱き締める僕から、お姉さんはそっと目線を逸らした。

「……似たようなものじゃの」

 だらんと垂れさがる両腕。俯いたまま、お姉さんがぽつぽつと呟く。

「神というても、吾は小さく、弱い神じゃ。昔ほどの信仰も権能も、今の吾にはない。土地神じゃとえばったところで、最早地縛霊と変わらぬ」

「え……」

 俯いた顔を僕から背けて、お姉さんは寂しげに語る。切り揃えられた白髪がカーテンのように覆い隠しているから、どんな表情をしているのかは分からない。

 ただ、胸が締め付けられるような声だけは、はっきりと聞こえた。

「……坊も、早う帰れ」

「え、あ、その……」

 僕が怖がったから、きっとお姉さんは嫌な思いをしたんだと思う。だからこんなことを言ったんだろう、そう思った。

 だから謝ろう、ごめんなさいって言おう。

 そう、思ったんだけど。

「早う帰れ。あまり遅うなると、秀蔵にも心配されるぞ」

 お姉さんの声は冷たくて、何も言えなかった。

 ……きっと、お祖父ちゃん家に帰ったほうがいいんだと思う。

 ここはお姉さんのお家で、僕のじゃない。お母さんが一緒にいても、きっと「帰りましょ」って言う。

 ……けれど、何故か。

 僕に帰れっていうお姉さんの、その声が、あんまりにも悲しそうで。寂しそうで。

 だから、気付いた時には、口に出していた。

「あ、あのっ!」

「……なんじゃ」

 断られたら、とか、嫌なこと言われたら、とか。そんなことも一瞬だけ考えたけれど。

 寂しいのは、僕も嫌だなって、そう思ったから。

「明日も、来ていい、ですか……?」

「……!」

 僕の言ったことにびっくりしたのか、お姉さんはびくっと身体を震わせた。

 そしてそれっきり、何も喋らない。

 ……やっぱり、嫌だったのかな。

「あ、えっと、ごめんなさい。いやだった……」

「坊は、吾が怖いのではないのか……?」

 謝ろうとした僕を遮って、お姉さんが僕にたずねる。怯えているような、寂しがっているような、そんな声で。

「さっきは、怯えておったろうに」

「……ちょっとは、怖い、けど。でも……」

 怖くないわけじゃない。

 今もまだ身体は震えてる。普通の人間じゃないお姉さんと一緒にいて、平気でいられるわけがない。

 けど。

「……お姉さんが、寂しそうだったから。寂しいのは……僕も嫌だから」

「……そうか」

 僕がそう言うと、お姉さんは安心したみたいに息を吐きだした。

「坊は、優しいのう」

 それから、僕の方へとゆっくり振り向いて。

「ああ。坊さえよければ、いつでも来い」

 そう、微笑んでくれたのだった。


 この日から、僕は毎日のようにお姉さんのところに行くようになった。

「来たか、坊。今日は桃じゃ」

「いただきます!」

 お姉さんが用意してくれる甘くて美味しい果物を、並んで一緒に食べたり。

「もーいーかーい」

「まーだじゃよー」

 昔の遊びを教えてもらって、二人で遊んだり。

「え、お祖父ちゃんそんなことしてたの!」

「そうとも、危なっかしいやつじゃった」

 時には、お祖父ちゃんが子供の頃の話を聞いたり。

 お祖父ちゃんとお祖母ちゃんと一緒にお昼ご飯を食べてから、二人が帰ってくる夕方まで。出会った神社で、お姉さんと二人で過ごすのがいつものことになっていった。

 小さな田舎で、やっと出会えた遊び相手。しかも、綺麗で優しい女神様。想像していたのとは違うけれど、ずっと続いて欲しいくらいとっても楽しい時間。

 そんな時間を過ごす中で、不思議に思うことが一つあった。

 お姉さんの、髪だ。

 お姉さんの見た目の中で一番綺麗な、あの透き通るように白い髪。

 何で、あんなに真っ白なんだろう。

 それも、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんみたいな、お年寄りの白髪じゃない。きらきら輝いている、特別美しい白髪。

 しかも、毎日少しずつ、長さが変わっている。

 肩にかかるくらいだったのが、次の日には胸のあたりまで伸びていたり。元の長さに戻ったと思ったら、今度は首までしか隠れないくらいの短さになったり。

 お姉さんは神様なんだし、そういうこともあるのかな、とも思ったけれど。あんまりに綺麗でいつも見てしまうから、どうしても気になった。

 だから、聞いてみることにした。

「ねえ、お姉さん」

「ん? どうした、坊?」

 いつもみたいに縁側に座って、お姉さんが出してくれたブドウを食べる僕たち。上手く皮を剥けない僕と、慣れた手つきで剥いていくお姉さん。

 剥いてもらったブドウを一つ食べてから、聞いてみたかったことを聞いてみる。ブドウはとても甘かったけれど少しだけ酸っぱくて、食べると口の中がさっぱりした。

「お姉さんってさ、なんで髪が真っ白なの?」

 自分で剥いたブドウを摘まんで、口に入れるお姉さん。しばらく静かに味わった後、お姉さんはすんなり答えてくれた。

「吾はもともと白蛇でな、その名残じゃ」

「蛇? お姉さん蛇だったの?」

「そうじゃよ」

 細くて白い指で器用に皮を剥きながら、お姉さんは昔話を語りだす。

「ずっと昔、秀蔵祖父ちゃんの、そのまたお祖父ちゃんの、さらにそのまたお祖父ちゃんよりも昔の話じゃ。このあたり一帯の村々に、酷い日照りが起きたことがあった。

 何か月も雨が降らんでな。米も野菜も育たんで、このままじゃ食うものが無い、飢え死にするしかないと、皆怯えておったのよ。

 それでも何とか食い物を探して、鹿やら猪やらを狙って男衆が山に入ってな。血走った目で獲物を探しておったあ奴らの足元に、まだ小さかった頃の吾がおった」

 怖かったぞ、と、綺麗に剥かれたブドウを丸飲みするお姉さん。流れるような白髪が、左右に揺れる。

「己と家族の命がかかっておるからな、食えるものならなんでも捕まえてやると、皆必死になっておった。ぎらついた目がこっちを見ていると感づいた時は、これは駄目だと思ったわ。

 吾は死ぬのかと観念したその時に、誰もが待ち望んだ雨が降りだした。

 その時の男共の喜びようといったら。誰も彼も飛び跳ねて、大泣きしておる者までおったわ。少ないとも米が作れる、足りはすまいが飢えることはないとなれば、無理もない。

 それでの、皆が喜んでおるその時に、男衆の誰かが言い出したのじゃ。『きっとこの白蛇は、神様に違いない』と。

 あれよあれよという間に社が建てられ、吾は神として崇められることになった。その社というのが、これよ」

 そう言いながら、お姉さんはこんこんと柱を叩く。ボロボロで今にも崩れそうな柱は、それでもなんとか真っすぐ立っていた。

「へえー」

 なんとか自分で皮を剥いたブドウを、口の中に放り込んだ。取りきれなかった皮が歯に張り付いて、なんだか気持ち悪い。

 正直なところ、僕はそこまで話を理解できていなかった。ただなんとなく、お姉さんはずっと昔にいた白蛇だったんだなというのが理解できただけ。

 わかったようなわからないような話に頷きながら、僕は次の質問を投げかけた。

「じゃあさ、髪の毛の長さが変わるのはなんで?」

「……ううむ、何と説明すれば良いかのう」

 すべすべしたほっぺたに手を当てて、お姉さんは考えこむ。下を向いていた目線が、ふっと僕の方へ向いた。

「坊は、神の力は何で決まると思うか?」

 ……なんだろう。

「神社の大きさ……?」

「外れじゃ。正解はな、信仰の強さよ」

 しんこう? なんだろう。初めて聞いた。

「『しんこう』って?」

「神として認め、祭ることじゃ。『ここには神様がおられる』と信じること、と言ってもいい。

 神の力とは集まる信仰の強さ。より多くの人から信仰されればされるほど、その神の力は強くなり、出来ることも増える。逆に、多くの者に忘れられてしまえば、力も弱く、大したことも出来ぬ存在に成り下がる。誰も覚えておらぬようになれば、その神は消えるしかない」

 この髪はの。そう続けながら、お姉さんは自分の白髪を指でなぞる。今日は肩まで伸びている白髪が、さらさらと指の間を流れていった。

「吾が持つ神の力が如何ほどか、それを表しておるのよ。

 吾の力が強ければ髪は長くなり、力が弱まれば短くなる。……今となっては、こんなにも短うなってしもうたが」

「え? じゃあ、昔はもっと長かったの?」

「長かったぞ。今は吾の肩ほどまでしかないがな、昔は腰よりも下まで伸びておった。力もずっと強くてな。その気になれば、川を溢れさせるくらいは簡単に出来たわ」

「すっご! 見たいみたい!」

「昔は、の。今はもう出来ぬよ」

 また一つ、ブドウの皮を剥き始めるお姉さん。宝石みたいに輝く一粒を、今度は僕に食べさせてくれた。

「ほれ、いつだかやったじゃろ、手のひらから水が湧きだすのを。あれが今の吾の精一杯じゃ」

「えー。つまんない」

 ぶうぶう文句を言いながら、お姉さんがくれたブドウの美味しさを味わう。今よりももっと髪が長かった頃のお姉さんはどんな風だったんだろうな、なんて考えながら、日が暮れるまでいつものように二人で過ごした。

 見たことのない真っ黒の着物を着たお祖父ちゃんが、真剣な顔でどこかに出かけていったのは、その日の夜のことだった。


 次の日、僕はお姉さんに会いに行けなかった。

 お祖父ちゃんのお友達だった人が亡くなったからだって、お祖母ちゃんは言ってた。お葬式がある日は一日家にいるしきたりだから、僕も今日はお家で遊びましょうねって。

 お祖父ちゃんも今日は畑仕事をやらないで、一日どこかへ出かけていた。僕はお祖母ちゃんと一緒にお家にいたけれど、頭の中はお姉さんのことでいっぱいだった。

 お菓子くれたりお話したりお祖母ちゃんも色々構ってくれたけど、全然楽しくなくて。早く明日にならないかな、なんて思いながら、お家の中で一日中過ごした。

 そして、次の日。

 お昼ご飯を急いで食べた僕は、二日ぶりに神社へと向かった。

 相変わらずうるさい蝉の声を聞きながら、神社へ続く階段を一段飛ばしで駆け抜ける。好き放題に生えている雑草をかき分けて、いつもの鳥居の下をくぐると、見えてくるのはあのお姉さんがいる神社。

 一昨日までと同じように、お姉さんが笑って出迎えてくれる――そのはずだった。

「お姉さーん」

 目に飛び込んできたのは、縁側で横になっているお姉さんの姿。この夏休みの間に見慣れた、いつも通りの光景。

 だけどなんだか、お姉さんの姿が前よりもぼやけて見える。

「お姉さーん! 来たよー!」

 大声で呼んでみたけど、返事はなかった。僕に気付いていないみたいに、寝転んだまま動かない。

 ……おかしい。

 いつもだったら、鳥居をくぐったあたりで気付いてるはず。それで、よう来たの、なんて言いながら、にこにこ笑って手を振ってくれるはず。

 なのに、今日は返事がない。

 おかしい、何か変。

 そんなことを思いながら、下草をざくざくとかき分けて神社のほうへ歩いていく。まだ僕に気付かず横になっているお姉さんの姿を間近で覗き込んで。

 そこで初めて、何か大変なことが起こったことに僕は気が付いた。

「え……」

 大の字になって寝ているお姉さんの、すらりと細い身体が。まるで、今にも消えてしまいそうなくらい、白く透けてる。

 薄桃色の浴衣も、浴衣から投げ出された細い腕や脚も。学校で使う下敷きみたいに、お姉さんの身体の向こう側が、痛んだ床板の茶色が見えてしまっている。目を閉じたままのお姉さんの顔は風邪をひいた時みたいに苦しそうだけど、それも、半透明になっているせいで少し分かりづらい。

 そよ風が吹くだけで消し飛ばされてしまいそうな、存在感の無さ。

 それだけでもびっくりしたけれど、同じくらい驚いたことがもう一つあった。

「うそ……」

 お姉さんの髪が、見たこともないくらいに短くなっていたのだ。

 耳もおでこも丸見えで、まるで男の人みたいに短い。今までは髪に隠れていたお姉さんの首がこんなに細いことを、僕は初めて知った。

 いつもは輝いて見えたお姉さんの白髪。日陰でも目立っていたはずなのに、今日はひさしの影に覆われて薄暗い。あんなに綺麗だったはずの白髪に艶がなくて、まるでお祖父ちゃんと同じになったみたい。

「なに、これ……」

 頭の中が真っ白になる。

 全力で走った後みたいに、はっ、はっ、と息が速くなる。

 何があったのか、なんでお姉さんがこんなことになっているのか、全然考えられない。

「ね……ねえ、お姉さん。大丈夫?」

 お姉さんを起こそうと、肩のあたりに手を伸ばしたけれど。掴んだように見えた僕の両手は、そのままお姉さんの身体をすり抜けていった。

 ……どれだけ人間みたいに見えても、お姉さんは神様。人間の僕が触ることの出来る相手じゃない。

 知っていたはずのことなのに、なぜだか急に心が苦しくなる。

 立ち尽くすことしか、僕にはできなかった。

「ん……だれ、じゃ……?」

「! お姉さん!」

 僕の気配に気が付いたのか、お姉さんがゆっくりと目を開けた。うっすらとだけ開かれた瞼の奥のぼんやりとした目つきには、普段の大人っぽさは少しも感じられない。

 どこを見ているのか分からない両目が僕を見つけるまで、僕は何度も声をかけ続けた。

「僕だよ! ねえ、分かる!?」

「あ……ああ、坊、か」

 必死に呼びかける僕の声に、途切れ途切れになりながらお姉さんが答える。いつもの柔らかさが無い、小さくてかすれた声。

 それでも、お姉さんが反応してくれたことで、僕は少し安心することができた。

「良かった……」

「すまぬ、の。いま、起きる、で……」

「いいよ寝てて! きついんでしょ?」

 止めようとする僕に構わずに、お姉さんは柱に寄りかかってなんとか身体を起こす。ぎゅっと目をつぶって苦しそうに深呼吸を繰り返してから、平気そうな顔をしてこっちを見た。

「心配かけたの。もう大丈夫じゃ……」

 なんて言うけど、お姉さんだって、自分の身体がどう見えているかは知っている。誤魔化そうとした自分を馬鹿にするみたいに笑ってから、お姉さんは

「……と言うても、坊は信じぬわな」

と続けた。

「……なんで、何が、あったの?」

 聞きたいこと、知りたいことは沢山あったけれど、口から出たのはそれだけ。まとまらない考えは頭の中でぐるぐるするだけで、とても言葉になりそうにない。

「……昨日、誰ぞの葬式があったじゃろ」

「……うん。お祖母ちゃんが言ってた。お祖父ちゃんの、お友達だった人だって……」

 お姉さんのことばかり考えていたからよく覚えていないけど、お祖父ちゃんとは、子供のころから仲が良かったらしい。

 その人が、どうかしたんだろうか。

「あやつはの、村でもただ一人、吾の姿を知っておる人間だったのよ。

 吾がちゃんと神として祭られておったのは、もう何十年も前の話での。昔は祭りなどもあったのが、今や来客すら滅多に来ぬ。信仰されぬ神は消えるが定め。吾がこうして消えずにいられたのは、あやつが吾のことをここの神として覚えてくれておったからじゃ。

 それが亡くなったとあらば、吾はもう、長くはないのじゃろうな」

 頭がふらふらする。

 お姉さんが何を言っているのか、わからない。

「ながく、ない……? なにが……?」

「……吾がここから消えて、誰からも忘れられるまでの時間が、じゃ。

 秋までは持つまいな。十日か、二十日か……一か月持てば、万々歳じゃろ」

「きえ、る……?」

 お姉さんが?

 なんで? やっと、仲良くなったのに……?

「安心せい」

 なだめるように、お姉さんは僕に笑いかける。その笑顔も、どこかぼやけてしまって見えにくい。

「今すぐ消える、というような話でもない。夏休みとやらが終わって、坊が帰るまではなんとか持つじゃろう」

 だから心配するな、なんてお姉さんは言うけど。

 ああよかった、じゃあ大丈夫だ、なんて、思えるはずがない。

「うそ……」

 夏休みが終われば、都会に帰らなきゃいけない。だから、そこで一回お別れになるのはわかってた。

 でも。

「やだ……」

 お正月でも、来年の夏休みでも。お祖父ちゃん家に泊まってここに来れば、また会える。

 また会えると、そう思っていたのに。

「やだよ……」

 声が震える。涙が、目からこぼれる。

 お姉さんがいなくなってしまうなんて。

 二度と会えなくなる、なんて。

「そんなの、やだ……!」

 これからも、ずっとずっと、遊んで、お話して、美味しいものも食べて。

 そういう楽しいことが、いつまでも出来るんだと思っていたのに。

「なにか、なにかないの? お姉さんがずっといられる方法が、なにか……」

「……信仰さえ取り戻せれば、村の者たちに吾がおることを信じさせられるなら、すぐにでも力は戻ろう。じゃが……」

 無理じゃ、とお姉さんが呟いたのは、聞かなかったことにした。

「わかった。お祖父ちゃんたちに、お姉さんのことを教えればいいんだね?」

「……坊の気持ちは嬉しい。がの」

 無駄じゃろう。そう言って、お姉さんは首を横に振る。

「吾はずっとここにおるが、坊以外の客人は久しくおらなんだ。今はもうおらぬあやつが覚えておらなんだら、吾はとうに消えておったはずじゃ。

 ここまで消えずにいられたこと自体が、吾には奇跡のようなもの。……もう、寿命なのじゃよ」

 ……そんなの。

「そんなの、やってみなくちゃわからないじゃん!」

 登ってきた階段へと振り向いて、一目散に裏山を降りていく。

 すまぬ、っていうお姉さんの言葉は、風に紛れて聞こえなかった。


 最初はお祖父ちゃんに頼んだ。

 いつも遊んでもらっている人がいる、詳しいことは言えないけど、会って欲しい。怪しむお祖父ちゃんをなんとか誤魔化しながら、そう言って神社に来てもらった。

 直に会ってお話すれば、きっとお祖父ちゃんもわかってくれる。そう願いながらあの階段を登って行ったけれど。

「その『お姉さん』っちゅうとはどこや? 誰もおらんぞ?」

 お祖父ちゃんには、お姉さんが見えなかった。

 ちょっとぼやけているけど、僕にはちゃんと見えたのに。

 神社の壁に寄りかかって、こっちに手を振ってくれているのに。

「いるじゃん! ほら、あそこ!」

「そがん言うけど、そっちにゃ古か神社しかなかぞ?」

 あそこにいるって、指さして教えたけど、それでも、お祖父ちゃんはお姉さんに気付かなくて。

 結局、その日はお参りだけして、お姉さんには後で一人で会いに行った。

 お姉さんは、苦しそうなままだった。


 次は、お祖母ちゃんに頼んだ。

 裏山を登っていくと神社があって、そこには神様がいるんだ、綺麗なお姉さんなんだよって言って。一緒に神社まで来てもらった。

 誤魔化して連れて行ったのが駄目だったんだ、全部説明してから行けばきっと見えるはず。そう祈って裏山を登って行ったけれど。

「こがんとこに神社のあったとねえ。祖母ちゃん知らんやった」

 お祖母ちゃんにも、お姉さんは見えなかった。

「お祖母ちゃん、見えるよね? あそこ、いるよね?」

「祖母ちゃんには見えんねえ、ごめんねえ」

 ごめんなさいなんて、お祖母ちゃんに言わせたことが情けなくて。

 結局、その日もお参りだけして、お姉さんには後で一人で会いに行った。

 お姉さんは、苦しそうなままだった。


 一回だけじゃ駄目なのかもしれない。そう考えた僕は、時々でいいからあの神社にお参りして欲しいと、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに頼んだ。

 いないはずのモノが見えるって言い張る僕を見て、お祖父ちゃんたちがどう思ったのかはわからない。けれど二人とも、僕のお願いを聞いて、暇があるときは神社にお参りに行くと約束してくれた。

 実際に、僕がお姉さんと二人でいるときにも、時々顔を出してくれて。約束通りお参りしてから、遅くならんとよ、なんて言い残してから帰っていく。

 今日こそは、今回はきっと、なんてその度に期待したけど。お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、お姉さんに気付くことは無く。

 お姉さんの様子は、変わらず苦しそうなままだった。


 お供え物をしたらどうだろう。そう思った僕は、果物やお菓子を持っていくようになった。

 村の反対側にある小さなお店まで歩いて、その日あるものをお小遣いで買う。ただ神社に行くよりも遠回りにはなったけど、もうこれくらいしか思いつかなかった。

 何か食べたら、お姉さんも元気になるかもしれない。そんな、小さな希望を信じてみたけど。

「有り難うの、坊。美味しかったぞ」

 そう言って微笑むだけで、お姉さんの様子は変わらなかった。


 あれこれやって、何も変わらず、それでも、お姉さんに会いに行くことだけは止めない。そんな日々が続いて――気付けば、夏休みもあと数日になっていた。

「そうか、坊は明日、父ちゃん母ちゃんのところに帰るのか」

「……うん」

 柱に寄りかかるお姉さんと、その隣で膝を抱える僕。

 お祖父ちゃんに駅まで送ってもらうのが明日の朝だから、僕がここに来られるのは今日が最後。お姉さんの言う通りなら、お姉さんが消えずにいられるのもあと数日。

 言いたいこと、言わなくちゃいけないことが沢山あるはずなのに、何も言葉が出てこない。今言えないと、もう二度と言えないかもしれないのに、ただ静かな時間だけが過ぎていく。

「……のう、坊」

「……」

 気まずい時間がだらだらと流れる中、お姉さんは躊躇いながら口を開いた。

「一つ、約束してくれんか」

「……なにを?」

「都会に帰ったら、吾のことは忘れてくれんか。幻でも見たんだと思って、それまで通りに暮らしてくれ」

「……なんでさ」

 忘れられるわけない。

 こんなに綺麗で、優しい神様と。

 いっぱい美味しいもの食べて、いっぱい遊んで、いっぱいお話して。

 とっても、とっても楽しかったのに。

「忘れる、なんて……」

「……坊のためじゃ」

 俯く僕に、お姉さんは優しい声で話し続ける。駄々をこねる子供に言い聞かせるような言葉遣いに、なんだか苛々してくる。

「坊はまだ、ほんの子供じゃ。これから先、いろんなもの見て、沢山の人と会って、様々な経験をしていくじゃろう。良き友を見つけ、好きな人に出会い、可愛い子供をもうけ、そうやって生きていくのじゃろう。そんな坊の人生に、吾のような消えかけはおらずともよい」

「そんなの……」

「坊にはいい夢を見させてもらった。もう十分じゃ。吾のことは忘れて、坊は坊の人生を生きて――」

「そんなの、できるわけないじゃん!」

 叫んだ。

 それっぽいことをぺちゃくちゃ喋るお姉さんに腹が立って、心の底から本気で怒った。

 自分でもびっくりするくらい、大きな声だった。

「坊……」

「忘れられるわけないじゃん! あんなにいっぱい遊んだのに、いっぱいお話聞かせてもらったのに!

 楽しかったんだよ!? お姉さんといるの、楽しかったんだよ!? 毎日毎日、今日はどんなことしようか、どんなこと教えてもらえるんだろうって、わくわくしてたんだよ!? ずっと一緒にいたいって、絶対にまた会いたいって思うくらい、すっごく、すっごく楽しかったんだよ!?

 そんなの、忘れるなんて、できるわけないじゃん!」

「じゃが、坊よ……」

「幻なんかじゃないんだよ! 今日が最後だったとしても、もう二度と会えなくったって、たしかに、お姉さんはここにいたんだ!

 見とれちゃうくらい綺麗で、とっても優しい、ほんとは神様なお姉さんが、この神社に、絶対にいたんだよ!」

 おろおろしているお姉さんの顔を、強く睨みつける。今にも消えそうなくらいうっすらとしていたけど、それでも、確かにお姉さんはそこにいた。

「僕は覚えてる。何があったって、誰と結婚したって、ずっと、ずっと覚えてる! お爺ちゃんになっても、死ぬまで、一生、絶対に忘れない!

 そうすれば、お姉さんだって消えずにすむでしょ!? だから……」

 視界が滲む。

 声が震えて、言葉がうまく出てこない。

「だから……忘れろ、なんて……いわないでよ……」

 こらえきれなかった涙が、ぽろぽろと頬を流れ出す。寂しさと悲しさが我慢出来なくって、かっこ悪いけど、僕は泣き出してしまった。

「……そうか」

 そんな僕の頭を、お姉さんの白い手が撫でる。触った感覚はないけれど、優しく撫でてくれているのを、心で感じた。

「有り難うな……有り難うな、坊……」

 泣きじゃくる僕の頭を撫でながら、お姉さんも静かに涙を溢す。

 そうやって神社で二人、日が沈むまで泣き続けた。


 あの夏から、十年と少し。

 大学生になった僕は、ようやくあの集落を訪ねることが出来た。

「ふー、ついたついた」

 かつて祖父母が住んでいた家、僕があの夏休みを過ごした家に、乗ってきたレンタカーを止める。両親や祖父母が定期的に掃除しているとは聞いていたけれど、誰も住まなくなって久しい家には至る所に雑草がぼうぼうと生えていた。

 納屋の中にまとめられているはずの掃除道具をざっと確認する。熊手に草刈り鎌に、言われた通りの物は一通りそろっていた。

「……さて、行きますか」

 かつて夏休みを過ごしたこの空き家の掃除、それが僕の表向きの目的。

 けれど本当の目的は、あの神社を訪ねること。

「よかった、残ってる」

 納屋の裏手、足しげく登ったあの石段は、記憶のままの姿で今も残っていた。

 長靴と長ズボンで固めた脚で繁茂する下草をかき分け、小さく感じる段差を一つ一つ踏みしめる。空を覆い隠す木々もうるさく鳴く蝉もあの時のままで、少しだけタイムスリップした気分になった。

 しばらく登った先に見えた、変わらずに建ちつづけている鳥居。くぐった先に広がるのは、子供の頃のまま何も変わっていない景色だった。

 草だらけの境内。さびれきった神社。

 そして。

「お久しぶりです、お姉さん」

 あの頃のままの、薄桃色の浴衣に、すらりと細い四肢。大人びた色気のある顔。そして何より、短く揃えられた綺麗な白髪。

 一日たりとて忘れられなかったあの時の姿のまま。

 お姉さんは縁側に寝転がっていた。

「坊、か……」

「ご無沙汰しています。お加減は如何ですか?」

「今日は調子が良い、しばらくぶりにの」

 身体を起こしてこちらに歩いてくるお姉さん。少し億劫そうではあるけれど、記憶よりもずっと機敏な動きだった。

「本当に、吾のことを忘れてはくれなんだのだな……」

「言ったでしょう? 忘れられるわけがないと」

 あの頃のままのお姉さんと、あの頃よりも背の伸びた僕。誰もいない廃神社の境内で、二人は笑う。

 ほんの少しだけ伸びたお姉さんの白髪が、風に吹かれて柔らかく揺れた。


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