第105話 『まさかの出奔』
妹との用事を済ませてブライズは自分の館に向かっていた。
分家の女王クローディアの従姉妹であり、先日戦死したバーサの妹でもあるブライズは猛獣使いだ。
昔から獣を手なずけるのが上手く、凶暴な熊や狼も力ずくで屈服させて配下にしていた。
そのせいでその体には生傷が絶えなかったが。
「チッ。ベリンダの奴。満足そうにしやがって」
妹のベリンダが毒薬の実験で殺した華隊のタビサ。
そのタビサの死体を食らったのは調教に漏れた数頭の黒熊狼だった。
獣を調教する際、子供の頃から躾けるが、全ての個体を調教できるわけではない。
猛獣の性質には個体差があり、どんなに力で押さえつけても服従しない個体もいる。
そうした獣は周囲の個体との調和を乱すため、危険因子として殺処分するのがブライズの方針だった。
そのためベリンダによって毒味の役割に白羽の矢が立てられたのだった。
いかに妹の頼みとはいえ、ブライズとて頑健で従順な獣ならば殺させるわけにはいかないが、その辺は狡猾なベリンダも計算ずくというわけだ。
「とはいえ、黒熊狼どももかなり少なくなっちまったな」
先日は姉のバーサのたっての願いで多くの黒熊狼を連れて遠征を行った。
その際にかなりの数の黒熊狼を投入し、そのほとんどが本家の戦士たちに殺された。
だがブライズはそのことは後悔していない。
バーサが自分の命を失うことをも厭わぬ覚悟でたった一人本家に乗り込むと聞いた時、せめて餞にと後方支援を請け負ったのだった。
ブライズにとって姉のバーサ、妹のベリンダともに姉妹ではあるものの、ダニアの女戦士同士でありクローディアに次ぐ2番手を争う競争相手でもある。
姉のバーサが戦死したことを知った時も少なからず感傷的な気分になったものの、だからと言って仇を取ろうなどとは思わない。
姉は戦士として自らの戦場で死んだのだ。
ならば文句を言う筋合いはない。
ダニアの女としては名誉ある最後だからだ。
「そういえばあの鳥使い。なかなか面白い奴だったな」
ブライズは道すがら空を見上げて頭上を舞う鳥を見ながら、ふとそのことを思い出した。
あの夜、鳥を使ってブライズの位置を把握し、巨大なヒクイドリに跨ってブライズを追ってきた本家の女がいた。
鳶隊の者だとすぐ分かったが、鳥を使役するその技術と鳥との意思疎通能力の高さは目を見張るものがあった。
同じく獣を扱うブライズだからこそ分かることだ。
あの女は出来れば捕らえて自分の部下にしてみたい。
そんなことを考えながら歩き続けると彼女の館が見えてきた。
今、その館にはある人物を捕らえて閉じ込めている。
「ありゃまさに天からの落し物だったな」
バーサはその時のことを思い返した。
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本家の本拠地である奥の里のさらに奥、天命の頂という山奥に向かった夜。
鳥使いの女を振り切って谷の向こう側へと飛び渡ったブライズは、悠々と山を降りた。
姉の戦いぶりを最後まで見届けたかったが、そんなことをして自分が捕まってしまえば元も子もない。
生き残った数頭の黒熊狼らも無事にダニアの街に連れ帰らねばならないのだ。
谷底には二艘の船を用意させていて、数人の部下たちが待ち受けていた。
一艘にその部下たちと乗り込み、もう一艘に生き残った黒熊狼らを乗せて川を下り始めた時だった。
黒熊狼らが急に頭上を向いて唸り始めたのだ。
何かと思ってブライズが上を見上げると、崖の上から何かが落下してきた。
目を凝らすとそれは人の体のようだった。
落下してきたその人物は崖の絶壁から幾重にもせり出して生えるオオシダレヤナギのしなやかな枝葉にぶつかってバウンドし、それを幾度も繰り返してついにはブライズらの前方の川面に落ちた。
後方の一艘で黒熊狼らが吠えるのを口笛で抑え、ブライズは前方に目を凝らす。
すると薄い星明かりが崖の間から差し込み、水面に浮かび上がってきた1人の人物を照らし出した。
「……男か?」
その男は水面に浮かんだままピクリとも動かない。
死んでいるようだ。
そう思ったブライズだが、その男がわずかに表情を歪めたのと、その男の頭髪の色を見てすぐに部下たちに命令する。
「おい。あの男を回収しろ」
予期せぬ命令に部下たちは戸惑ったが、ブライズに促されてすぐに船をそちらに近付けた。
そして男を船の上に引き上げた。
ずぶ濡れの男はまだ若かった。
そしてその男の頭髪を見て部下たちはブライズの命令の意味をようやく理解した。
珍しい黒髪だったのだ。
黒髪の男女は死体でない限り有無を言わずに連れ帰る。
それが昨今の分家の方針だった。
ブライズは男を見て、それから頭上の崖を見上げる。
この遥か上は恐らく山頂の辺りだ。
「こいつまさか山頂から落ちて来たのか? よく生きていたな」
両腕の肘辺りと両膝の辺りが紫色に腫れ上がっている。
おそらく両手両足の骨が折れているのだろう。
オオシダレヤナギに幾度もぶつかったせいだ。
だかこの男はそのおかげで生きている。
幾度もバウンドするうちに落下の衝撃が相当に弱まったのだ。
「運のいい男だ」
この時期でなければオオシダレヤナギの枝にはあれほどの葉が茂らない。
季節が冬だったとしたらこの男はそのまま水面に落下して、おそらく脳や内臓を著しく損傷して死んでいただろう。
そしてブライズは男が落ちた山頂をもう一度見上げた。
「黒髪……こいつもしかして」
その人物に思い至ったブライズはニヤリと笑みを浮かべるのだった。
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その時のことを思い返しながら自分の館に戻ったブライズはすぐに異変に気付いた。
彼女を出迎えた小姓らが血相を変えて駆け寄ってきたからだ。
「騒がしいな。どうした?」
「ブ、ブライズ様が捕らえた例の人物ですが……」
「あいつがどうした?」
小姓らは顔を見合わせ、それから意を決して口を開いた。
「急にここにクローディアがいらっしゃって、あの男を連れて何処かへと行かれてしまいました。お、おそらくいつものご出奔かと……」
「な……なんだってぇぇぇ?」
ブライズの館の中に主の仰天する声が響き渡ったのだった。




