第103話 『色のない日々』
毎晩同じ夢を見る。
愛する男が微笑み、谷底へと落ちていく夢だ。
そしてその男の名を叫びながら最悪の目覚めを迎える。
「ボルドッ!」
ブリジットはベッドから跳ね起き、宙に向かって手を伸ばした。
そこには何もない。
連日続く最悪の目覚めにブリジットは力のないため息をついた。
奥の里を出発してから2日目。
森の近くの野営地に張った天幕の寝室でブリジットは1人きりの朝を迎えていた。
隣を見る。
そこには誰もいない。
ボルドの枕だけが残されている。
朝、目覚めてボルドが隣にいてくれた日々。
それだけで自分がいかに満たされていたのかをブリジットは痛感する。
今はもう失われてしまった束の間の幸せな時間だった。
「ボルド……なぜおまえは今ここにいないんだ」
毎朝のように撫でていたあの黒髪の指ざわりは今も鮮明に覚えている。
ブリジットはベッド脇の小机に置かれた小瓶を手に取った。
蓋を閉められたその小瓶には、十数本の黒い頭髪が収められていた。
奥の里の私室や寝室に残されていたボルドの毛を集めたものだ。
その小瓶を見てブリジットは小さく息をつく。
「何と女々しい。アタシはこんな弱い女だったのか……」
ボルドの髪の毛一本ですらここに留めておきたかった。
着ていた衣服。
使っていた小物。
食べ残した菓子に至るまで、何もかもを捨てるに忍びなかったのだ。
ボルドの残り香の染みついた枕をそっと抱きしめ、ブリジットは彼の顔、匂い、声、そして彼と過ごした日々に思いを馳せる。
寝室は静けさに包まれている。
ボルドと出会う前はいつもこうして寝室で1人過ごすのが当たり前だった。
だというのに今はこの静寂に押し潰されそうになるほど寂しい。
ユーフェミアが次の情夫を自分にあてがうつもりなのは知っている。
だが、ここは自分とボルドだけの寝室だ。
別の男などにこの場に足を踏み入れてほしくない。
「もうアタシに情夫など必要ない」
自分にとっての情夫はボルドだけだ。
そう思うと目に涙が滲んで来て、彼女はその顔をボルドの枕に埋めた。
数日前まではブリジットの目覚めの叫びを聞いて驚いた小姓たちが寝室に飛び込んで来たが、毎朝のことなので彼らも入って来なくなった。
ブリジットとしてはそのほうがありがたい。
こんな姿を誰にも見られたくなかった。
ボルドがいなくなってからグッスリ眠れたためしはない。
体を壊さぬよう食事だけは無理をして食べたが、何を口にしても味気なかった。
目に見える景色すべてが色あせて見える。
そして1人になるとボルドのことを考えてはため息をついているばかりでいつの間にか時間が過ぎるのだ。
だというのに不思議とブリジットとしての執務だけは滞りなくこなせていた。
情夫を失ったブリジットを気遣う周囲のほうが驚くほどだった。
失意のブリジットだが、それでも女王として強くあるべく人前では決して弱い表情を見せなかった。
それがボルドの望んだことだからだ。
だが何の希望もないこんな日々をいつまでも過ごしていくのかと思うと、ブリジットはどうしようもなく気持ちが黒く濁っていくのを感じていた。
(ボルド……おまえがいなくなった後もこうしてブリジットとして生きろというのか。アタシの今の気持ちをおまえは想像しなかったのか)
自分を1人残して逝ってしまったボルドに恨み事を言いたくなるのを堪え、ブリジットは立ち上がった。
女王としての仕事を投げ出してしまえば、ボルドが自ら命を断った意味がなくなってしまう。
歯を食いしばり、悲しみを押し殺してブリジットは支度を始めた。
今日は朝食の後に軍務がある。
先日のクローディアからの文に記されていた女王同士の会談については、明確な回答を出していない。
当然、慎重に判断すべき事柄のため、十刃会と話し合いを重ねている。
だが今の気持ちから言えば、クローディアに会う気には到底なれなかった。
ボルドが天命の頂から身を投げることとなった今回の騒動。
そもそも事の発端はバーサがリネットと結託してボルドを誘拐したことだった。
あんなことさえなければ、今もボルドは自分と一緒にいたはずだ。
そう思うと、分家のクローディアを前にして冷静でいられる自信が無い。
ブリジットは着替えを終えると寝室から出て私室へと移る。
そこでは小姓たちが朝食を用意して待っていた。
これを無理やり口に詰め込んだら、この後は本陣に移動して十刃会の者たちと顔を突き合わせて昼まで会議だ。
十刃会の面々、特にユーフェミアの顔を見るのは憂鬱だった。
百対一裁判の結果を差し戻してボルドの無罪を確定させる審理をユーフェミアは迅速に行った。
そして処刑の判決が間違っていたことを認め、十刃会の者たちとともにブリジットに謝罪をしたのだ。
あくまでも処刑の判決は裁判の投票結果であるため、謝罪をする必要はなかったのだが、ブリジットの心情を慮ってのことだろう。
ブリジットはこの謝罪を受け入れるしかなかった。
「行くぞ。ボルド」
ブリジットはボルドの頭髪を収めた小瓶を衣服の内側に忍ばせる。
こうして彼の髪の毛を携行することで、少しでもボルドを傍に感じていたかった。
気休めにしかならないが、そんなふうに自分を慰めることでしか、この色のない日々をやり過ごせる気がしなかったのだ。