モテについて追記
「友だちいないけどせめて彼女ほしい」ってなんだろうな……(遠い目)。
っていう煩い思想を頭の中から追い出すため、文字にしました。
本編で書いた。
”モテって言うのは「自分を好きになってくれないかな」と相手に求める行為なので、嫌われる元です。あなたはその人になにを与えられたのよ? 与えてもいないのになにかをくれって言い出す人と付き合いたいか?
ちなみに『(恋人になりたいな、という)あなたの好意』は、求めていない人にとって、無価値な荷物です。くそ重たい荷物を持て、と、押し付けている。これも相手に求める行為です。
口説くのは与える行為ではなく、求める行為です。奢るのも褒めるのも、与える行為ではなく求める行為です。”
これに反論ありそうだなぁと思うので、追記しておく。文字数であきらめたけど、納得できない人がいそうだし。
なろうのエッセイなので、これは追加しておきます。
「あなた(の作品)が好きです~!」ってドデカ感情の感想は、与える行為です。
「(感想書いたから返事ほしいなぁ)」は、思うだけなら自由だけど、「作者、返信してくれなかった!」って怒るとき、その感想は求める行為だったと言えるでしょう。
「あなたのためを思って、あなたの作品を批判します」これは求める行為。
なにが違うのかな?
あなたにとってそれらは全部、「わたしからあなたへ」与える行動ですね。
でも、与えられる側にとっては、どうでしょう?
「感想返信ほしいなぁ」って副音声がついている感想、もらった作者は返信『しなければ』いけませんね。
「あなたのためを思って批判してます」って、作者は「ありがとう」って感謝したうえで、「批判を検討しなければ」なりません。批判求めたんだったか、作品発表しただけだが?
「あなたと恋人になりたいから」口説く、奢る、褒める。向けられた人間は、「恋人になること」を検討しなければならない。与えられた分、返すかどうかも決めなければならない。「返さなければ罵られるんですかね、一方的に与えられたものでも?」って心配をしながら。(タダ乗りの話はしていない)
相手にとって、どうなのか。
あなたの都合で与えられた好意ですが、相手はどう感じるのかな?
何かを返さなければならない、何かを考えないといけない。そういうコストって他者が義務として与えていいものだろうか?
たとえばあなたが、自分にとって必要ではないものを与えられて、さらに見返りまで求められたとしたら、どう感じますか。
ちなみに、「あなた(の作品)が好きです!」ってドデカ感情は、「わたしが作者へ伝えたいから」伝えたものです。作品を発表している作者は、承認欲求やら自己顕示欲やらが少なからずあるので、好きですと言われればうれしい。うれしいから感想返信したい。作者が、そうしたい。
一方通行ではないわけです。ドデカいことを心配する必要は、ほとんどないです。「やったー! 好きだと言ってくれる人がいた~!」ってドデカ感情で、ほとんどの作者も喜んでいるはず。
ここで、コミュ力の話に戻ります。
人間関係は相性だと繰り返したわけだけど、人付き合いにかけていいと考えるコストのつり合いが取れるか、価値観が似ているか、って意味です。
「わたしはわたしの作品に感想がほしいから、他人の作品に感想を書く」って考えの読者と、同じ考えの作者なら、うまく行くよね。相性がいい。
でも感想書かれた他者である作者が、
「わたしはわたしが好きな作品に感想を書きたい」という考えだったら、うまくいかないんじゃないだろうか。
「感想もらった。感想を書くべきだろうか。書かなきゃいけないっぽい。でもわたしの好みの作品がない。好みじゃない作品を読むのは大変。好みじゃない作品に感想を書くのも大変。好みじゃないなって気配が漂ったら失礼。延々とこれを続けなきゃいけないんだろうか。メンドクサ。そういうクラスタはすごく苦痛なんだけど。でもやめてって言ったら『失礼な奴って叩かれたり』しないか、心配」
この場合、相性の悪い人間同士になるわけだ。どちらの考えも、当たり前に存在するよね。どっちがよい、悪い、という問題ではない。相性。
忙しい連載作家さんが、作品を書く時間を削ってまで感想返信しないといけないのか? みたいなものもある。相性というよりこれはもう、想像力とか思いやりの問題では?
「わたしを特別扱いしろ」
「わたしの好意には(それだけで価値があるんだから)応えろ」
そういうコミュニケーションは嫌われるよ、と言いたい。いやぁ、未熟。
若いうちならほほえましく見守ることもできるけど、結婚を考えている年齢や、会社で上司になるような年齢の人がこういうコミュ力だと、未熟さにがっかりするよ……。
コミュニケーション下手なんだろうなぁとか、この調子で付き合っていくなら疲れるなぁ、とか。一方的にこちらが多めのコスト払っていかなきゃならないわけじゃん。本人はコスト払っているつもりなんだから、不平等に気づきもしない。ずーっと、不平等。
もちろん、相性のいい関係なら別ですよ。
不平等についてはどちらにも言い分があって、水掛け論だったりするからね。
「わたしにとって価値のあるものを差し出している」なのか。
「相手にとって価値のあるものを差し出す」なのか。
あなたはどちら? 相手はどちらかな。
同じ考えの人だったら、天秤で比べることができる。
違う考えの人だったら、天秤で比べることはできない。㎝とgを比べるようなものです。
ディスコミュニケーション、ですねぇ……。
「わたしにとって価値がある」「差し出せるものである」この二つの条件を満たすものって、意外とローコストなんだよね……。相手のほしいものがそれだったらさいわいですが。
「相手にとって価値がある」ものって、差し出すのが苦痛だったりする。
たとえば結婚生活につきものの不満、「おまえも家事をしろ」「おまえも稼いでこい」。お互いに言い合うけど、なかなか実現されないじゃない。家事をしろと言われる側にとって、家事をするのはすごく大変。稼いでこいと言われる側にとって、外で働くのはとても大変。
相手のためにこの『大変』を背負えるかどうか。
仲良し夫婦でいられるか、幸福感をあきらめて仮面家族になるしかないのか、関係解消する離婚か。
価値観の合う、相性のいい相手の方が、人間関係も継続しやすいでしょう。
結婚も、友情も、職場や学校の人間関係も。
だからね。コミュ障もコミュ強も、幻想みたいなものだと思う。
結局は相性の問題。
コミュニケーションに『正解』なんてないんです。当たりばっかり引き当てられるのは、奇跡か豪運か選ばれたコミュ強(才能)だけです。
失敗は、します。あきらめましょう。だから、傷つく必要はない。
コミュニケーションの失敗は、あなたがコミュ障だから、ではない。その人と相性が悪いだけ。
周りに誰も相性のいい人がいないなら、環境を変えてみましょう。今の学校、仕事を変える必要はない。とりあえず、今まで経験したことのない場所に行ってみよう。三十人のうち十二人(40%)とうまくいかなかったとしても、三百人のうち百八十人(60%)とうまくいくなら、あなたが悪いとは限らないでしょう?
十人中八人とうまくいかないなら、さすがにあなたのコミュニケーションを変えてみましょうか。
「わたしにとって価値のあるものを与える」のではなく、「相手にとって価値があるものを与える」ってどうすればいいのか、考えてみてください。
考えたくない、変わりたくない。それならあきらめてください。あなたにとっての人間関係、その程度のことなんですよね。変わりたくないなら、変わらなくていいんですよ。でも、今のあなたが求めているけれど手に入れられないもの、手に入らないでしょうけどね。
それでも生きていくことはできる。(かなり貧乏になったが)平和な日本なので。
わたしは「小説やマンガを楽しみたい」「創作したい!」という自分の気持ちが一番大事で、家族や友人との付き合いにもたくさんの労力を割くことができない。一時的にはできるけれど、継続することができない。仕事は就業時間だけ労力をつぎ込みます。職場の人間関係を拡張することすらできない。
なんでこんなに自分本位なのかなぁと情けなく思っている。だけどできないものはできないんだ。
人付き合いに大きく労力を割こうとしたことはある。できなかった。続けられなかった。付き合わされた人間を傷つけることになっただけ。人間関係は一人では築けない。自分の都合で他人を振り回すのがしんどい。相性いい人を見つけられたらよかったよね。探し回る労力すらかけられないんだけど。探し出せたとして、その人に何を与えられるというのか。
だからもうあきらめた。人間関係広くなくても、創作できる今、それなりに幸せなんだもの。人間関係失敗して「自分だめだ……」って顔を覆う方が不幸なんだもの。
わたしはこういう人間なんだ。家族を作るのに向いていない。
当然のことですが、「わたしはあきらめたからお前もあきらめろ」という意味ではありません。
相性のいい人が、あなたに見つかりますように。心から願っています。
友だちの付き合いすら継続できないのに、どうして結婚できると思えるんだろ……。もしもできたら子どもも「自分ではない他者」なのに。
恋愛が友情の上位互換とはまったく思わないけど、たいていの人が想定している恋人=異性は、同性の友人よりもずっと、価値観が違うのにさ。