4,昔語りをしていたら、雨が降ってきた
「雨がきますよ」
裏庭の木を眺める。
木登りが上手になったフィーが、枝に座り、素足を遊ばせている。
「戻りましょう」
遠くの空を見つめ続ける。いつもなら、にこりと笑って降りてくるところ、微動だにしない。
「フィー、どうしたの」
「レオン、今日は暗いのね」
「雨がきますからね」
フィーが見つめる空の先へ俺も目をやる。
「私ね。
ずっとどうしたらいいのかなって考えていたの」
フィーが、ぽつぽつと話し始める。
「お父様から、『お前は王太子の婚約者になるんだよ』って言われて、そうなんだって思っていたの。なんの疑いもなく。
私は、いずれお妃様になるのだから、ちゃんとした教養を身につけないといけない。
私の未来ってそれが当たり前で、それ以外の未来って考えたこともなかった。
今ここにいることが、とても不思議。
過去なんてまるっきりない。
そんな風に感じてしまうことも、あったわ。
お行儀とか、絵とか、刺繍とか、音楽とか。
今もそれだけは残っている。
字も書けて、本も読めて、勉強したことだけはちゃんと残っているの。
もう過去の私は失われて、何も残っていないって思っていたけど。
ちょっとだけ、最近、少しだけ、私の中に残されたものがあるって、わかってきた。
今まで生きてきた証として感じられるようになったの」
「フィーの身につけていることは、村の女の子は誰も持っていないよ。
村の女の子は、ものが分かるようになれば働くんだ。字を読める子も少ない。裁縫だって、つくろったり、なおしたりするだめだし、家畜の世話とか、畑仕事とか。本当に生活に関することでいっぱいなんだよ。
フィーの身につけていることは、すごいことばかりなんだよ。読めて、書けて、計算できて、魔法も使える。音楽も、刺繡も、絵も、全部、今まで努力してきたことがちゃんとあるよ」
フィーがフフッと笑った。
「レオンって変な人。
村の女の子ならだれでもできることができない、って言わないもの。
私、平民になったのに、みんなができることは一つもできないのよ。
本来なら、役立たずって言われそうじゃない」
「まあ、そういう見方もあるかもしれないですけど。
母さんが言うんだ。
フィーのような立場の子は、きっと自由には生きれなかったはず。
立場も、役目もあって、そこから逃げることはできない。
村の女の子は彼女のような教養はないし、学もないかもしれないけど、
自由に笑い、自由に話す、そんな明るい楽しみがたくさんあるって。
村の女の子のようにはできないけど、
村の女の子にはない知識と教養を蓄えていて、
それはそれですごい努力を伴う価値のあるものなんだって」
「ありがとう」
「だから、フィーには村の女の子ならできて当たり前なことができなくても、フィーにはちゃんとフィーのできることがあるから比べちゃだめよ、って母さんが言うんだ」
「ありがとう。
ああ、私、今度、レオンのお母さんにお礼が言いたいわ。
ミラのおいしい焼き菓子と紅茶を持って、一緒にお茶をしたい」
「母さんもきっと喜ぶよ」
「私こそ、レオンがいてくれて。
レオンのお母様の言葉に救われている。
私にはちゃんと私のできることがある。
そう、教えてくれた。
だから、考えたの。
村の女の子に行儀作法を教えてあげたらどうだろうって。
字が書けて、読めて、ちょっと計算できたら困らないでしょう。
行儀作法ができたら、働き先も広がるかなって思ったの。
どうかしらね」
「うん。
それは、いいと、思う。
農閑期とかさ。ちょっとの間でも。
字が読めたり、本が読めたら、世界が広がるもんな」
「うれしい。
なんか、ちよっとだけ、私も前を向けそうな気がするわ。
ありがとう、レオン」
「この前、暇をもらって帰ったろ。
フィーの話をしたらさ、母さんが言っただけだよ。
俺はただそれを繰り返しただけさ。
降りておいでよ、フィー。
夢の話は、また明日だ。
雨が降ってきてしまう。
今日は、もう帰ろう」
雨粒が、ぽつりと落ちてきた。粒が大きい。
フィーはゆっくりと木から降りてくる。降りることはまだ少し苦手そうだ。
「急いで、フィー。
こういう雨は、どりゃぶりになるのが早い」
足場を確認しながら、ゆっくりと降りてくる。地面に足が着くころには、雨足は強くなり始めていた。幹のそばに置いていた靴。きっと中は雨でぬれているだろう。
手を差し伸べると、フィーは自らの手を当たり前のように俺の手に載せる。バランスを取りながら、靴をはいた。
「帰るまでに、濡れてしまいますよ」
手を握ったまま、歩き始める。
「雨に濡れてみるのも面白いかもしれないわね」
フィーは満面の笑みを浮かべる。
困ったお嬢様だ。
風でも引いたら、ミラが心配するじゃないか。
『あなたが一緒にいて、どうして早く帰ってこなかったんですか』
俺がどやされるのは目に見えている。
「早く帰りましょう。ミラが心配しますし、風邪をひいても困りますよ」
フィーもおとなしく手を引かれて進む。
「歩きにくくなるのね」
「土が水を吸って柔らかくなるんです。土の上は歩いたことありませんか」
「ないわ。いつも、石で舗装された道を馬車で移動していたの。家の庭も、整えられていたし」
「歩きにくいなら、ゆっくり行きましょう」
歩調をゆるめると、フィーはほっとした顔をした。
早く帰らないとと焦っていた。少し早かったようだ。気づかないで悪いことをした。
もうこんなに濡れてしまっては、ゆっくり歩いても変わらないのに。
雨はとめどなく降る。
頭部に降りそそぐ雨粒が、額から落ちてくる。
二人ともぬれねずみだ。
「雨って気持ちいいのね」
フィーはのんきに笑う。濡れそぼる髪をかき上げた。白い肌。淡く光る白金の髪。深緑の瞳。
雨に濡れてもきれいだ。
中身は、初めての経験に喜ぶ子どもでしかないのに。いつまでも続くとは思えないけど、今は重いため息しか出ない。
「子どもみたいなこと言わないでください。泥水跳ねて服についた汚れはとれませんよ」
「じゃあ、この服は雨の日用にするわ」
そうきたか。
「困った人だ。まずは一生懸命歩いてくださいよ」
もう少しで屋敷につく。
カッと一面が白く光る。
影さえも消えてしまうような白さに包まれる。
陰影がよみがえってきたら、背後で雷鳴が轟いた。
最後まで、お読みいただきありがとうございます。
続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、
ブックマークや評価をぜひお願いいたします。