帰り道
「部活つまんないなあ」
その言葉が自分の口からこぼれたことに驚きを感じたあと、ふと前で自転車をこいでいる桜井の方をちらっと確認した。今のつぶやきを聞かれていなかっただろうか。
「えっ、なんか言った?」
こちらを少し振り返り、桜井は聞いてきた。どうやらちゃんとは聞きとれなかったようだ。僕はそのことに安堵して、「なんでもない」とばかりに首を横に振った。
「物理の小テストどうだった?」
と反対に桜井が聞いてくる。
「そんなに難しくなかった。運動が中心だったし」
「そかそか、それなら安心安心。」
隣のクラスの桜井はまだ小テストを受けていない。どんな問題か具体的に聞いてこないところが彼の頭の良さをあらわしている。
「等速直線運動!」
そういっていきなり彼は思いっきり自転車を漕ぎだした。前言撤回である。
しばらく先の信号で桜井は止まっていた。少し肩で息をしている。そんなになるならやらなければいいのに。
「今日アリンに行こうぜ」
思い出したかのように、桜井はそう提案してきた。
「明後日計測じゃん?さすがにやばいんだよね」
そう続けて桜井は左手で自分のお腹をさすった。彼は野球部にしてはいささか痩せすぎている。身長は180㎝近くあるのにも関わらず、体重は60キロと少ししかなかった。そのことを彼自身も気にしており、部で恒例の月一身体測定の前には必ずと言っていいほど、帰り道にある洋菓子店のアリンに寄っては大量の菓子を買って、体重のかさましに努めている。その努力はなかなか報われていないのだけど。
「今日は何のロールケーキにしようかな」
どうやら僕が「いいよ」と返す前から、彼の中ではもう行くことが決定しているようだ。
なぜか僕はそのことが少しうれしかったが、先ほど自分が発した言葉が脳裏をよぎり、彼に返事ができなかった。信号が青に変わったこともあり、会話はそこで終わって、二人で黙々と自転車を漕いでリアンに向かった。僕はその間に先ほどの「つまらない」について考えていた。
「つまらない」のはなんでだろう。レギュラーになれないからか。そうではないと思う。三年が引退して最上級生になったのに、この前の秋の大会で一塁で試合に出ていたのは一年生だった。そのことに疑問はなかった。あいつの方が守備は上手いし、打撃は水物とはいえ、期待値は負けてるんじゃないだろうか。
そもそも試合に出たいのかもよくわからなかった。秋の大会の二回戦、つまり僕らの高校が敗退することとなった試合のことだけど、その試合に代打で出たときも、8回の裏と試合が大詰めとなった場面の起用で自分のことながら、「ここでかよ」と思ってしまった。回の先頭で自分が塁に出れば、まだ試合はわからなかったかもしれないが、結果はセカンドゴロ。もしあれが最終回で一打逆転のチャンスだったら…。考えるのすら恐ろしい。
じゃあ、試合に勝てないからか。それもなんだか違う気がする。そもそも勝ちたいならこの公立校を選んでいない。グラウンドはそれほど大きくないし、他の部活と共用しないといけない。さらには定時制があって、平日は彼らが登校する前に下校しなくてはならないので、二時間も練習ができない。それでは私立強豪はおろか、同じ公立校にも勝つのは難しい。
あれ、じゃあなんで部活やってるんだろう。野球が上手くなるため?上手くなってどうするんだ。試合に出たいわけでも、勝ちたいわけでもないのに…。
そんなことを考えている間にリアンに到着した。桜井は待ちきれないとばかりに、駐輪場に自転車を停めるとエナメルバッグをかごに置いたまま、
「お先に」
と言って店内に入っていった。僕も追いかけるようにして店内に入ると、ロールケーキコーナーの前にいる桜井を見つける。彼に犬のようなしっぽがあれば、おそらく左右にブンブンと振り回しているだろう。そう思えるくらいには、彼のテンションは上がっていた。
「おいおい、栗とさつまいもだってよ!どっちにすっかな…」
どうやらロールケーキの新作が出ていたようだ。それなら無理もないかもしれない。
「お前、どうせいつも二本買ってるじゃんか」
アリンのロールケーキはその大きさのわりに値段が500円と格安であり、さらにその美味しさはコンビニのものとは比にならない。そのこともあって桜井はいつも、家族の分も含めて、ロールケーキ二本と、そしてついでにこの店の特徴でもある、ケーキや洋菓子の訳あり商品を何品か買う。
「あ、そっか。それもそうだな。」
そうにやけ顔で言いながら、ロールケーキを二本をトレーの上に載せた。僕はお菓子ではなく、いつも通り塩パンとクリームパンをトレーにとり、先に会計に向かった。
「二点で250円です。」
店員さんがそう言って、小さなビニルに入れたパンを紙袋に入れようとしたところで
「外で食べるのでそのままで大丈夫です」
と断り、代わりにおしぼりをお願いした。パンを受け取り、レジ横においてある無料で利用できるコーヒーメーカーで自分の分とついでに桜井の分もコーヒーを作った。僕はミルクと砂糖一つずつ。彼のはブラックでいいから作るのは楽だ。
外のテラスで塩パンとコーヒーを味わっていると、両手に紙袋をぶら下げた桜井がしばらくして出てきた。
「お待たせ。お待たせ。これで二キロは太れるわ。…お、コーヒーもサンキュ。」
そう言って、桜井は向かいの席に座って、店で貰ってきたスプーンでプリンを食べ始める。一度、コーヒーに口をつけたが、まだ熱かったようで、すぐにコップを置いた。彼は、ブラックを嗜むくせに猫舌なので熱々のコーヒーを飲めない。ふと以前読んだ本に出てきた「よいコーヒーとは、悪魔のように黒く地獄のように熱く天使のように純粋でそして恋のように甘い」という言葉を思いだして少し笑いそうになった。
僕がクリームパンに手を付ける前に、桜井はプリンを食べ終わっていた。
「桜井ってさ、なんで野球部にしたの?」
「急になんだよ」
その言葉が表す通り、桜井は少しだけ驚いた顔をしていた。僕からしてみれば、さっきから考えていたことの延長の話だったが、桜井にとってはそうでない。
「いや、その、なんとなく…かな。桜井って別に野球以外でもできそうだし。」
ちょっと失敗したなと思いながら、なんとか言葉をつなぐ。
「…ああ、なるほど。」
少し不思議な間がありながらも桜井は何かに納得した様子で、話を続けてくれた。
「うちの高校に野球部があったからかなあ…」
「なんだよ、それ。大体の高校には野球部くらいあるでしょ?」
自分の突然の質問に答えてくれたのに、思った回答でなかったのか、僕の声にはいくらかの呆れといら立ちが混ざっていた。
「いや、そうとしか…。うーんとね、俺って新しいことを始めるのとか苦手なんだ。って言ったことなかったっけ。」
「うん、何度か聞いたことあるかも。」
体育でやり投げのときとか、遊びでスケートとかパターゴルフとか行ったときにも聞いたが、彼はそういうわりには上手くこなしているように見えた。少なくとも僕よりもは。僕はそのたびに運動神経とか才能とかってものをぼんやりと考えたものである。
「だからさ、一応中学からやってる野球はギリ大丈夫というかさ」
「でもさお前、バスケとかバレー上手いじゃん?身長もあるし。そっちは全然考えなかったの?」
「上手いとか下手とかもあるけど、それだけじゃなくて…」
そこで桜井の言葉は途切れてしまったが、彼の顔を見ると何か言う気がないというより、どう言おうか考えているといった様子だったので、クリームパンに手を出し、待つこととした。途中、口にしたコーヒーは既にぬるくなっており、そのことに気づいた桜井もコーヒーを口にした。
「多分自信がないんだと思う。」
桜井はコップを置くのと同時にそういった。
「自信がない?」
僕の返答がただの鸚鵡返しになってしまったのは、桜井と自信がないという言葉の相性の悪さが自分にとって気持ちが悪いほどのものだったからである。彼は一年の秋には既にショートのレギュラーとして試合に出ていたし、今ではクリンナップを打つようになっている。僕が覚えている限り、試合でもなんでも緊張したところは見たことがなかった。
「別に野球なら自信があるとかいうわけでもないんだけどさ。自分の中で整理できるんだ。だから大丈夫だって。え、これわかる?」
「まあなんとなく…ね。」
本当になんとなくでしかわからなかった。多分、桜井なら他のスポーツをやってもある程度はできてしまう。この学校の部活レベルなら、それこそどの部活でもレギュラーになれてしまうのではないだろうか。そうしたなかでも、自分の実力とか周りとの関係性とか、そういった諸々のことを自分の中で整理するのが、新しい環境で新しいことをしながらでは自信がない。そう言いたかったかな、と。
ずいぶん贅沢な悩みだなと言ってしまいたいが、一方で素の桜井が見えた気もしてそこは嬉しかった。
「桜井って部活楽しい?」
今までの桜井像からすると僕がこの質問をすることはなかっただろうけど、ちょっと素が見えたこともあって踏み込んでしまった。
「うーん、楽しいかあ…」
そう唸りながら考えている桜井の表情をちらっと見ると、そこまで変な質問をしたということでもなかったようなので、ホッとした。されどこれもすぐに答えが出る雰囲気ではなかったので、またクリームパンを口にする。先ほどよりいくらか甘く感じた。
「楽しくはないかもね。でも悪くはないね。」
楽しくないって言葉には不思議と驚きはなかった。むしろ少し安心した。でも悪くないとはどういうことだろう。
「悪くないっていうか。問題がないというかね。整ってるというか。」
桜井はそういってから自分で長谷部だとかサウナだとか言っている。
多分先ほどの整理されているという部分が桜井には重要なんだろう。そして頭でっかちの僕にとってもその考え方はよくわかる。僕が整理できるために必要なことは何のだろうか。つまらない、の原因を探すことなのか。でも桜井は楽しくなくても整えられている。じゃあ、僕に必要なのは…。
「そういえばさ、なんで今日なの?リアン」
実は提案されたときから気になっていたことを聞いてみる。桜井は、いつも身体測定の前日にリアンにくるのだ。けれど、今日は前々日。
「え。だって明日工業じゃん」
少し間がありながら、桜井は答えた。
そうだった。大会のない時期は、木曜日は近くの工業高校で合同練習をすることとなっており、帰る時間も帰り道もいつもとは違うのだ。
「そっか。そっか。明日木曜か」
「質問タイム終了でいい?もう帰んないと腹減ったわ。夕飯食べたい」
「今プリン食べたじゃん」
桜井は「別腹別腹」と言いながら立ち上がる。僕も目の前のビニルとコップをゴミ箱に捨ててから、彼についていった。
自転車に乗って、残りの家路を黙々と漕ぐ。僕はその間、さっきの続きを考えていたが、なかなか思うような答えは出なかった。
ようやく家までの最後の上り坂を登り切り、あとは平たんな道をいくだけになった。登り切った次の道を曲がるのが桜井で僕はまっすぐ。そのわかれる最後のT字路で、彼は急に止まった。僕も同じようにブレーキを押して、止まった。
「はじめたってことはそれ自体がもう続ける意味になると思うんだよね」
桜井はそう言った。正確にはそういったように聞こえた。もしかしたら全く別の言葉を言ったのかもしれない。僕が「えっ」と聞き返す前に、彼はまた自転車を漕ぎが始めた、それも全力で。「等速直線運動」と大きな声で言いながら手を振る彼の姿が小さくなる。
その姿を見て、僕は思い返す。独り言。物理の小テスト。アリン。コーヒー。工業。今日のこと。そしてこれまでのこと。野球部に入ったときのこと。入学したときのこと。
僕はまた漕ぎ始める。もう見えなくなった彼にツッコみを入れながら。