82.この日のために
《影の使徒》との戦いが終わってから三日が経過した。
本来であれば帝国からの視察の予定はすでに終わっているはずだったが、エーナとメルシェはまだ王国に滞在している。
結局僕達の視察については二日で切り上げることになってしまったが、他の地域については引き続き視察を実施し、問題なく終わったとのことだった。
僕は病室の前で、レミィルと話す。
「地下の魔物についても現在確認している限りでは問題はなさそうだよ。改めて、外側から入れる場所がないように封鎖しているところだ」
「ですが、王都も広いですからね。管理するのも難しいでしょう」
「努力するしかないことだな。それに、今回の魔物の発生については侵入よりも放たれた方が要因として大きい。……まさか、私の多忙と今回の事件に繋がりがあるとは思いもしなかったが」
レミィルに多く申請のあった書類は、王都の地下の魔物についてのもの――それも片付けてようやく時間が取れたという。そこで、入院しているイリスの下へと見舞いに来たらしいのだが、
「ここまで来たのに中には入らないんですか?」
「今回、私は特別何かしたわけではないからね。それに、今はイリス嬢とアリアちゃんが一緒だろう?」
「そうですね。ところで、アリアさんについてですが」
「ああ、彼女は《影の使徒》に協力して、明確にエーナ・ボードル様の命を狙った――はっきり言えば、それは罪に問われることではある。ただ、狙われたエーナ様が責任について言及しないと仰っているのに加え、半ば家族を盾に取られて精神的に不安定だったと言える。しばらくは観察処分となるかもしれないが、大きな罪とはならないだろう」
僕の懸念していたことについては、大きな問題にはならなそうだった。もちろん、理由があったとしても、他人の命を狙うことは犯罪になる――アリアはそれに加担したのだから、完全に許されるということはないだろう。
それでも、罪としては軽く扱われるのは、エーナがそのことについて不問としてくれたところが大きいだろう。彼女には感謝しなければ。
「それはよかったです。僕も安心しました」
「そのことについては、君からアリアちゃんに伝えてくれ。それと、観察処分についてはおそらく君が監督役を担うことになるから、それも覚えておくように」
「また一つ役目が増えましたね……その点についても承知しました」
アリアのことも守ると約束した――元々、イリスと一緒に彼女にも剣と教えていた。それくらいは負担にもならないだろう。……そういう考えだと、ますます負担が増える気がしないでもないけれど。
「ま、彼女達については君に任せたよ」
ひらひらと手を振って、レミィルがその場を後にする。
時間ができたとやってきた彼女だが、やはり今はまだ忙しいのだろう。
帝国側からすれば、視察中に帝国元帥の娘が狙われたのだ――ただ、そこについては全てエーナの作戦の中に組み込まれている。
強くは言及してくることもないだろうし、大きく王国と帝国の関係が崩れることはないだろう。それでも、今回の件についてはまだ対応すべきことが多い。
一先ず、僕にできることは彼女達の傍にいてやれることくらいか。
「イリス、他に何かしてほしいことはない?」
「もう、そんなに心配しなくても大丈夫よ。私は元気だから」
病室に入ると、そんなイリスとアリアの会話が聞こえてきた。
イリスが目を覚ましてからずっとこんな様子だった――アリアがイリスの怪我を心配して、四六時中ベッタリとしている。その怪我の全てに、アリアが責任を感じているのだろう。
「確かに、元気そうで安心しましたよ」
「! 先生――あ、ご、ごめんなさい。こんな姿で……」
イリスがサッと布団を抱くようにして自身の姿を隠す。彼女の寝間着なのか、可愛らしい動物が刺繍された服を着ていた。別に気にするようなことは何もないのだけれど。
わざわざベッドから立ち上がろうとしたので、僕はそれを制止する。
「そのままで大丈夫ですよ。見舞いに来ただけですから気にしないでください」
「あ、ありがとうございます」
「先生……」
アリアが気まずそうな表情で、僕を見る。
あの日――《剣聖》であることを明かしてから、僕はアリアとしっかり話す機会はなかった。
今日、こうして対面で会うのもどこか久しぶりに感じるくらいだった。彼女も騎士団からの尋問を受けて疲れているはずだが、そんな様子を見せることはない。
「アリアさんも、体調は大丈夫ですか?」
「ん、わたしは大丈夫。先生のおかげで……助かった」
アリアは視線を泳がせていたが、やがて僕の方を見て素直にそんなことを口にする。
初めて僕に対して純粋にそんな言葉を言っている姿を見て、思わずふっと笑みを浮かべてしまう。
それに、アリアがぴくっと反応した。
「なに? おかしなこと、あった?」
「いえ、アリアさんが素直になってくれて嬉しいだけですよ」
「先生が信じろって言ったから。それで、イリスとわたしを守ってくれた。だから少しくらいは素直になる。でも、今後もイリスのことをしっかり守って」
「ちょ、アリア……!」
「もちろん、そのつもりですよ。ですが、それには君も含まれます。今後は、何かあれば僕に相談するように――いいですね?」
「……うん、ありがと」
この会話の中でもイリスのことばかり心配するアリアだったが、僕の言葉に頷くアリアを見て、イリスも微笑みを浮かべる。ようやく、全てが元に戻ったという感じがした。
けれど、もう一つ――僕はある人物と約束をしている。
「それから、アリアさん。君に会いたいという人が屋上で待っています。イリスさんのことは僕に任せて、行って来てもらえませんか?」
「わたしに会いたい……?」
アリアが首をかしげる。そんな人物は、彼女にとって心当たりはないのだろう。
けれど、僕はその人から話を聞いて――今回の件について理解できたのだから。
アリアが怪訝そうな表情をしながらも、僕に促されて病室を後にした。
***
――夕焼けに染まりつつある屋上には、病院で使われるシーツやタオルが干されている。
風になびいて揺れる白い布の中、アリアは周囲を窺うように歩いた。
人の気配がする。町を見下ろすように立っているのは、一人の少女。
「あなたは……?」
「初めまして――いえ、久しぶり、というべきですか」
アリアはその姿を見て少し驚いた表情を浮かべる。
少女の名はメルシェ・アルティナ。イリスと敵対した際に、父であるクフィリオ・ノートリアが戦っていた少女だ。
クフィリオと戦い負けたようだが、軽い怪我で済んだところ見ると彼女も相当な実力者なのだろう。
そんなメルシェがどうして、アリアに会いたがっているのか。
「久しぶりって、闘技場でのこと?」
「それはほんの数日前の話ですよ。まあ、でも……クフィリオですら気付けないんですから、あなたが気付かないのも無理はないですね」
「……どういうこと?」
アリアの警戒心が強まる。クフィリオの名を聞けば、そうなるのも当然だろう。
そんなアリアとは対称的にメルシェはふっと笑みを浮かべてアリアへと一歩近づく。臨戦態勢――とまではいかないが、何かあればすぐにでも対応するつもりだった。
そんなアリアに対して、メルシェが淡々と言葉を続ける。
「あなたが《影の使徒》にいるのを見て、一番動揺したのはイリス様でしょう。けれど、私も負けないくらい動揺しましたよ。どうして、あなたがそこにいるのか、ってね」
「……? 何で、そんな話を」
「顔も声も違うから、分からないのも無理はないですね。けれど――私も言ったでしょう? 後で必ず行くって」
「――」
アリアは驚きで目を見開く。
そんなはずはないと思いながらも、メルシェの言葉はアリアの記憶にあるものだった。
何も知らないアリアに、多くのことを知る機会を与えてくれた、姉の言葉。その後に姿を現すことはなく、久しぶりに現れた『兄』と『姉』を名乗る人物も作り出された偽物だった。
本物は、クフィリオによって殺されたのだと知らされた。そのはずなのに、目の前にいるメルシェは、あの時と同じ表情でアリアに言う。
「本当なら、『兄さん』と一緒に来られたら良かったんだけれど、生き残ったのは私一人だったから」
「……姉、さん?」
「そう呼ばれるのは、久しぶりね」
「だって、姉さんは、もう……」
「クフィリオがそう言ったんでしょう? 確かに、私はほとんど死んでいたわ――必死で逃げて、必死で戦って。今でもその傷は残っているもの。それでも、今はエーナ様に助けられてここにいる。そういう意味だと、私もあなたと同じ。名前を与えられた――!」
メルシェの言葉を遮るようにして、アリアは彼女に抱き着いた。
それは半ば反射的で、気付けばそんなことをしていた自分に驚いている。けれど、メルシェの胸元に顔を埋めるようにすると、彼女がそっと頭を撫でてくれた。
「こんな風に、してあげられるとは思わなかったわ。でも、ずっとしてあげたかった」
「姉さん……! 生きてて、よかった……っ!」
絞り出すようにして、アリアは言う。
顔も声も違う――けれど、彼女が本物であるということが、今は分かる。そう、伝わってくる。
「私も、あなたが無事でいてくれて安心した。全てが終わるまでは、あなたと私に関わりがあるように見せるわけにもいかなかったから。……ごめんね」
「わたしも、姉さんに謝りたかった。本当は……あそこでわたしは逃げるべきじゃなかった。わたしが残っていれば、兄さんも……」
「いいの。私も兄さんも、あなたのおかげで『家族』を知れたの。一緒にいる間……徐々に成長していくあなたを見て、芽生えた感情は作られたものじゃないって理解できた。だから、私と兄さんのしたことは間違いなんかじゃないの。作られたものじゃなくて、本当にあなたのことが大切だと思えたからしたの」
メルシェがアリアを強く抱く。アリアもそれに応えた。長い間、離れ離れだった時間を取り戻すかのように。
しばしの静寂の後、アリアの肩を優しく掴んでゆっくりと離す。
「全てが終わったら、あなたのことを帝国に迎え入れるつもりだったわ」
「! それって……」
「うん、でも……安心したわ。あなたには、あなたを大切にしてくれる人がもういるんだものね?」
ちらりとメルシェが後方に視線を送る。アリアが振り返ると、サッと姿を隠すようにした二人の陰が見えた。……イリスとアルタが心配して見に来てくれたのだろう。
アリアは思わずくすりと笑みを浮かべる。
「姉さん、わたしは大丈夫だよ。すごく強い先生と、大切な『家族』がいるから。もちろん、姉さんも大切な家族だけど――」
「分かっているわ。きっとこれからは、会いたい時に会えるから。だから、またね」
「うん、またね――」
メルシェとの話を終えて、アリアは振り返る。
すぐそこで待つ二人の下へと、アリアは駆け出した。
***
「心配はなさそうですね」
「……そうですね」
サッと姿を隠した僕とイリスだったが、おそらくアリアに見られているだろう。
そう思いながらも、二人で視線を合わせて、くすりと笑みを浮かべる。
エーナが《影の使徒》を誘き寄せるために王国の視察にやってきた――だが、その全てはその前から始まっていたのだ。
メルシェという、クフィリオによって作られた存在の一人の反逆。その一つが、ここまで繋がってきたのだと言える。
「さて、そろそろ病室に戻りますか。イリスさんもまだ怪我が治っていないんですから」
「せ、先生までそんな心配を。私はもう平気ですからっ」
「ダメですよ。しっかり治したら修行に付き合ってあげますからね」
「! そ、そういうことなら、しっかり治します……」
僕の言葉を聞いて、イリスは素直に頷く。どこまでもこういうところは彼女らしい――そんな風に思っていると、キィと屋上への扉が開く。
アリアがこちらへと戻ってきたのだ。
「あ、アリアさん。丁度イリスさんとここの近くに――」
不意に、僕の額に柔らかい感触が伝わる。イリスがその行為を見て、驚きの表情を浮かべた。――アリアが僕の額にキスをしたのだ。
突然の出来事に僕は驚く。いたずらっぽい笑みを浮かべながら、アリアが囁くように言う。
「わたし、先生のこと好きだよ――イリスの次にだけどね。だから、全部内緒にしておいてあげる」
「こ、こら! 今のは一体どういうことなの……!?」
「何だろうね」
「惚けないの! ま、待ちなさいって!」
怪我をしているにも関わらず、逃げるアリアを追おうとするイリス。結局それを心配して戻ってきたアリアが捕まって、今の行為についての尋問が始まった。
そんな様子を見ながら、僕は額に触れる。
「あはは、それでも子供扱いなんですね」
僕は思わず苦笑しながら、そんなことを呟いた。