75.それでも彼女は
――もう、何年も前の話だ。
まだ、『アリア』という名前もなく、ノートリアの一人であった頃。
少女は作られた世代の中では『傑作』だ、と白衣に身を包んだクフィリオが言った。
少女に全ての暗殺技術を叩き込み、いらぬ感情を覚えさせるようなことはしない。それが、少女にとっての完成だった。
だが、少女以外の存在が、それを許さなかったのだ。
「ここから逃げなさい、ノートリア」
ずっと過ごしてきた施設から出してくれたのは、少女を可愛がってくれた兄と姉。
兄は一人で残って、追い掛けてくる者達と戦っているという。
……彼らは、少女に家族を教えてくれた。
「兄さんと姉さんは?」
「後から行くわ。だから、そうね……まずはこの国から出ること。もっと広い世界を、あなたに見てほしいの」
「広い、世界?」
「ええ……そうすればきっと、あなたを理解してくれる人がいるから」
「わたしには、家族がいればいいよ。兄さんと姉さんがいる」
「……ええ、私もあなたのことが大事よ。この感情を教えてくれたのはあなた――だから、私ももっとあなたに教えてあげたいことがある。そのために、あなたはここから逃げるの。ここは、あなたの居場所ではないわ」
その言葉の意味を、うまくは理解できなかった。
けれど、時が経つにつれて――少女、アリアは理解する。
『先生』と『父』、二人のクフィリオの抱いている感情が悪意であったことを。
そして、兄と姉がアリアに向けてくれていたのは、愛情であるということを。
それが理解できたのは、イリスとイリスの母のおかげであった。
名前を付けてくれた日のことは、今でも覚えている。
「祖母の名前がアイリアで、私はそこから名前を頂いてイリスなのよ。だから、あなたの名前はアリア。私と同じで、祖母から拝借したの。これで、私とあなたは家族よ」
「家族……」
イリスがそれを、教えてくれた。
だから、アリアにとっては逃がしてくれた兄と姉も、大事な家族なのだ。
いつか二人に出会うことがあれば、今度はアリアが救う番なのだと。
そうして、クフィリオと共に現れた二人は変わってしまっていた――見た目は同じなのに、中身が違う。そんな違和感しかなかったのに、二人は過去のことを覚えている。
だから、アリアは従う他なかった。
協力すれば、兄と姉も戻してくれる、と。そして、イリスにも手を出すことはしない――そんな、本当かどうかも分からない言葉に、従うしかなかったのだ。
「――気分はどうかな、アリア」
一糸纏わぬ姿で拘束されたアリアに、白衣姿のクフィリオが問いかける。
少し広めの部屋の中では、金属で構成されたケーブルや、ガラスで作られたケースが目に入る。
かつてアリアの生まれた、『研究所』のようであった。
「いい場所だろう。《剣客衆》という奴等がアジトの一つに使っていたようだが、まだ見つかっていないところでね」
アリアも実際に戦った者達だ。
彼らはこの王国に潜伏して、いくつかのアジトを転々としていたのだろう。
そこを、クフィリオ達が利用したのだ。
「今からボクの全てを君に移し変える。それで、ボクがアリア・ノートリアとして彼女達に近づこう。それが、エーナを殺るもっとも簡単な方法だろう」
にやりと笑みを浮かべて、少年のクフィリオが言う。
いずれもクフィリオ・ノートリアであるが、彼らはそれぞれ記憶や技術で専門が分かれている。
肉体派と頭脳派――今回入れ換えるのは、肉体派のクフィリオだ。
「……そんな方法で、いけると思ってるの?」
「いけるさ。君は思った以上にイリスやアルタから心配されているじゃないか。あの二人を殺してからなら、簡単だよ」
「……っ! なん、で……」
「言っただろう、君が上手くやっていればその必要はなかった……だが、イリスもアルタもボクらにとっては邪魔になりそうなんだよ。だから、殺すことにした。心配しなくていい、君はそのとき、もうこの世にはいないのだから」
「……っ」
ガシャン、と鎖の音が鳴り響く。アリアの動きを止めるそれを、引きちぎることは到底叶わないだろう。
だが、それでもアリアは無理やり動こうとして、手首から出血する。
そんなアリアに対して、クフィリオは楽しそうな表情を浮かべて言い放つ。
「あはは、君にそこまで感情ができてしまったとは……泳がせるべきじゃなかったかもね。二人ともさっさと殺したときに追いかければよかった」
「――え?」
その言葉に、アリアは唖然とする。
『二人とも』という言葉の意味、すぐにアリアは理解してしまったからだ。
「ああ、あの二人は君の知っている『兄』と『姉』ではないよ。それらしく作り上げた偽物さ――二人とも、もうこの世にはいないよ」
「そん……な……」
それでは、何のためにここに来たのだろう。
イリスとアルタを裏切って、救おうとした家族はそもそもいなかった。
――いや、始めから分かっていたことなのに、ちらつかされたわずかな希望にすがったのだ。今のアリアはただ利用されるためだけの存在でしかない。絶望が、心を支配する。
そんなアリアをクフィリオは見下ろす。
「もう君の記憶も残らないのだから、何も心配することはないだろう。すぐに楽にしてあげるからさ――クフィリオ、始めよう」
「承知したよ」
アリアの身体に取り付けられた装置が、音を立てて動き始める。
必死に逃げようとしても、それは叶わなかった。
「怯える必要はないよ。もうすぐ何も分からなくなる」
嫌だ――記憶がなくなるだけならまだいい。
けれど、このままでは、イリスの身に危険が及ぶ。
(違う、本当は……記憶がなくなるのも、嫌だ)
イリスと共に過ごした日々の、記憶はアリアにとって大事なものだ。何にも代えられないそれを、失うことだけはしたくない。
それならいっそ――自ら死を選ぶ。
そう考えて、舌を噛みきろうとした時だった。
「おっと、君の考えていることはボクにはわかるよ。それはダメだ」
「……っ!」
口の中に無理やり布を噛まされて、それすらも許されない。
アリアにはもう、抵抗する術は残されていなかった。
(イリスなら、わたしが違うことに、気付いてくれるかな)
望んだことは、わずかな希望。イリスであれば、アリアの中身がクフィリオであることにも気付いてくれるかもしれない――そんなことを考えたとき、パリッと音を立てながら、装置の周辺に電撃が走る。部屋の中にあった機材全てに電撃が打ち込まれて、動きを停止させたのだ。
そんなことができる人は決まっている――
「いつか言ってたわよね。私に見つけられるほど甘くはない、って」
それは、アリアがイリスの前から姿を消す数日前のこと。
探さないでほしいという願いと、イリスには見つけられないという本音――けれど、それすらも彼女は覆す。……そういう人だと、分かっていたはずなのに。
「今度こそ、見つけたわよ……アリアっ!」
擦り傷や汚れにまみれても、何も気にする様子もない。
アリアにとっての『大切な人』――イリスがそこには立っていた。