67.アリアの家族
日も暮れた頃、僕は屋上へと向かった。部屋にイリスの姿はなく、外に出たという話もない。
そうなると、彼女のいる場所はここだろう。
扉を開くと、外を眺めるイリスの姿があった。……憂鬱そうな表情で、屋上から景色を眺めている。
「大丈夫――とは言い難いですね」
「先生……」
僕の姿を見ると、イリスは唇を噛み締める。何か言いたいことがあるようだが、それを抑え込んでいるようだった。
僕はそのまま、イリスの横に並んで景色を見る。
すでに町中は明かりによって照らし出されて、綺麗な夜景のようになりつつあった。《学園》の屋上からはあまり見られない景色だろう。
イリスもまた、再び夜景に目を移す。お互いに沈黙したまま、しばらく時が経った。
先に切り出したのは、僕の方だ。
「アリアさんについてですが」
「っ!」
ビクリと、その名を聞いただけでイリスが身体を震わせる。
僕がどういう判断をするのか――そこに怯えているようだった。その様子を見て、僕は小さく息を吐く。……別に、彼女を怯えさせるつもりなど毛頭ない。
だが、そうなってしまうくらいに、今のイリスは追い詰められているということだろう。
「心配せずとも、僕もイリスさんと同意見です。必ず、アリアさんを連れ戻しましょう」
「それは、分かっているんです。私だって、アリアを連れ戻したいと思っています」
イリスが僕の方に向き直る。今にも泣き出しそうな表情で、イリスは続けた。
「けれど……私には分からないんです。アリアと戦うことになるなんて思わなかった。迷うつもりなんてなかったのに、私はアリアとの戦いで……本気で向き合えなかったんです」
「だから、アリアさんを連れ戻せなかった、と?」
「……アリアは、『大切な人』のためなら迷わず殺せる……そう言い切ったんです。アリアにとって、きっと大切な人がそこにいる――だから、私とも戦えるんだって。そう思ったら、どうすればいいのか分からなくて……」
イリスはきっと、アリアのことを連れ戻したいと思っている。
アリアとどんなやり取りがあったのか、僕も把握しきれてはいないが、少なくともアリアから決別とも取れる言葉があったのだろう。アリアが《影の使徒》と行動を共にしているのは、その『大切な人』に起因するということだ。
「アリアさんにとっての『大切な人』が誰なのか……それは本人に聞かなければ分からないことでしょう。でも、少なくともアリアさんにとっては、イリスさんも大切な人のはずですよ」
「……どうして、そう言い切れるんですか?」
「それは君が一番よく分かっていることだと思いますよ。君が本気を出せなかったのだとしたら、今頃もっと大きな怪我をしていたかもしれません。少なくとも、アリアさんも本気だったとすれば」
「それは……」
僕の言葉を聞いて、イリスが言葉を詰まらせる。
僕から見て、イリスとアリアに大きな実力差はない。コンディションや状況によって、どちらかが勝つか分からないくらいには。少なくとも、イリスの状態を見る限りではベストというには程遠い――アリアと対峙した時もそうだったのだろう。
迷いは《剣》を鈍らせる……今のイリスが本気のアリアと対峙したのであれば、殺すことだって不可能ではないはずだ。
「アリアさんは他に何か言っていませんでしたか?」
「他に……そう言えば、この件からは手を引けって言っていました」
「! そうだとすれば、アリアさんも戦うつもりはなかったのでしょう。理由はどうあれ、アリアさんは敵側にいます。今後も敵と行動するからこそ、イリスさんには手を引いてほしい――そういう願いがあったんでしょうね」
「……っ! それじゃあ、アリアは……?」
「君もアリアさんも、お互いに心配し合う仲でしょう。アリアさんは随分と派手に演出したつもりでしょうが、僕が話を聞く限りではアリアさんはイリスさんと戦いたくなくてそう言ったように感じますね」
イリスはハッとした表情を浮かべる。何か思い当たる節があるのかもしれない。
《影の使徒》の明確な目的はエーナを暗殺すること。そして、その先にあるのは王国と帝国の戦争……そこに、価値を見出しているのだろう。
アリアがこの件からイリスを遠ざけたいのであれば、わざわざ自分が敵側にいることを伝えたのも納得できる。
暗殺者にとって、自身の正体をばらすことは致命的なことに繋がる。特に、アリアはイリスや僕に実力を知られてしまっているのだから。
本当に戦う気があるのならば、正体を隠して戦うのが正解だろう。
「……先生の言葉で、少し救われた気がします」
「救われた気になるのはまだ早いですよ」
「ですね。ごめんなさい、私……先生の前だと弱音ばかりですね」
「構いませんよ、そのための僕だと思っていただければ」
「ふふっ、先生ってやっぱり子供っぽくないですよね」
「あはは、よく言われます」
「――でも、ありがとうございます。どのみち、私のやるべきことは初めから決まっていたんです。アリアは、絶対に連れ戻します」
拳を握り締めて、イリスがはっきりと宣言する。
先ほどまでの表情とは違い、今度は決意に満ち溢れていた。
迷いさえなければ、彼女はきっと大丈夫――問題は、アリアの方だろう。
イリスの迷いが消えたからこそ、今度は僕から彼女に伝えなければならないことがある。
「イリスさん、アリアさんとは王国で出会ったんですよね?」
「……? はい、雨の日でしたけど、母と一緒にいた時のことで……」
「先ほどメルシェさんから一つ、話を聞きました。『ノートリア』についてです」
「ノートリアって、アリアのことですか?」
「その通りですが、少し違いますね。確かにこれはアリアさんの姓ではありますが、少なくとも《影の使徒》とアリアさんの関わりを知るには十分なことではあると思います」
「……どういうことですか?」
「クフィリオ・ノートリア――それが、《影の使徒》の創設者であり、僕達の敵となる人物です」
「……! それじゃあ、《影の使徒》を作った人が、アリアの家族ってことですか!?」
「『家族』と表現できれば、まだ良かったのかもしれないですけどね」
僕はメルシェから聞いたことをイリスに伝える。
ノートリアはアリアの姓であり、《帝国の闇》を象徴する存在でもあったからだ。
***
人気の感じられない暗闇の中、アリアは静かに武器の手入れを行っていた。
先ほどイリスと斬り合った短刀を磨き上げる。
その表情はどこまでも冷たく、まるで人形のようであった。
「ノートリア、大丈夫か?」
そんなアリアに話しかける人物がいた。
フードと仮面によって顔を隠しているが、アリアの前に来るとそれを外す。
そこにあったのは、アリアにそっくりな顔の青年。
「……兄さん」
「不安か? イリス・ラインフェルが手を引くかどうか」
「……たぶん、イリスは手を引かないと思う」
「そうか。お前が任されたことだから、俺から何か言うつもりはないが……あまり時間を掛けるようだと、イリスも殺さないといけなくなるぞ」
「……分かってる」
アリアは『兄』の言葉にそう答える。
アリアも、イリスについてはよく分かっているつもりだ――一緒に過ごしてきたのだから分かる。……だからこそ、自分が何とかしなければ、と考えていた。
二人で話していると、その背後からもう一人の人物がやってくる。
アリアよりも髪は長く、少し大人びた顔立ちの少女――、
「あまり妹を脅かさないの」
「姉さん……」
アリアが『姉』を呼ぶと、にこりと微笑んで頷く。
この二人が、アリアにとっての『兄弟』達だ。……随分と、数は減ってしまったようだが。
「脅かしているつもりはない。事実を伝えているだけだ」
「それを脅かしているって言うの。でも、大丈夫よ。『父さん』も『先生』も、アリアの言うことを守ってくれる――そう約束したんだものね?」
「……うん」
姉の言葉に、アリアは頷く。
ここには、アリアの家族が揃っている。先ほどの作戦でも、全員が参加していたのだから。
結果として作戦は失敗に終わったが、あくまで戦力を把握するための様子見ということだった。
……その敵の中に、イリスがいる。アルタもまた、当然のように敵に含まれていた。
だからこそ、アリアには早急に解決しなければならないことがある。
「心配しなくても、エーナ・ボードルさえ殺せば全て終わるのよ。だから、大丈夫」
「それも、分かってる……」
アリアは短刀を握り締める。
聞かされている目的は一つ――エーナ・ボードルという少女の暗殺。
帝国にとっては不要な存在だと、『先生』から伝えられていた。……その少女さえ殺せば、アリアの願いも全て叶える、と。
(……わたしは、『大切な人』を守る)
「いい子ね。さ、二人が待っているわ。次の作戦の話を始めましょう」
「ああ、早いところ終わらせるとするか」
兄と姉に続くように、アリアも立ち上がる。
決意を胸に秘めて――アリアは歩き出したのだった。