49.先生
イリスとアルタから離れ、アリアは一人で市場へと向かっていた。
王都の市場はあちこちで開催されており、果物や雑貨などを扱った出店が並んでいる。
安息日は特に、人通りも多いのが特徴的だった。
だんだんと人が多くなってきたが、アリアは構わず進んでいく。
(……わたしは、どうしたいんだろう)
――アリアは、自分の気持ちがよく分かっていなかった。
イリスのことは、家族として大切に思っている。
だから、イリスがアルタに好意を抱いていたとしても、アリアとしては応援すべきことのはずだ。
それなのに、いざイリスとアルタを一緒に行動させようとすると、気持ちが落ち着かない。
イリスはきっと、彼のことを信頼しているのだろう。
けれど、アリアにはその気持ちがない――実力は確かだが、そこまで信頼の置ける相手ではなかった。
だからこそ、アリアは常に自分から行動をする。
《剣客衆》と呼ばれている相手だって、別に怖くはなかった。
それくらいの相手なら、アリアは勝てると思っていたからだ。
実際には、イリスを守り切ったのはアリアではなくアルタという少年だったのだが。
「……」
ピタリと、アリアは足を止める。
(わたしは――)
その時だった。
視線の端に、奇妙な動きをしている青年を捉える。
地面に置かれたケースをちらちらと見て、その近くにいる男を見る。
男は出店の店主と話すのに夢中で、その青年の動きには気付いていないようだった。
一瞬の隙をついて、青年が動き出す。ケースを手に持つと、慣れた動きで人混みの中を駆け出した。
(! 泥棒……)
アリアもすぐに動き出した。
男が気付く前に、アリアも人並み外れた動きで人混みの中を抜けていく。
その後――後方から男の声が響く。
「ど、泥棒だ! 誰か捕まえてくれーっ!」
男には、おそらくケースを盗み出した青年がどこに向かったかもよく分かっていないのだろう。
だから、一先ずケースがないことに気付き叫んだ。
だが、青年はすでに男のところから随分と離れている。
(でも、逃がさない)
青年にいち早く気付いたのはアリアだ。
俊敏な動きで、アリアは人混みの中を駆け抜ける。
大きなカバンを背負っている大男の股下を抜け、子連れの三人組を飛び越えるように移動する。
途中、通りがかった馬車に飛び乗ると、それを利用して出店の屋根を伝って、さらに建物の屋根へと伝う。
ケースを盗んだ青年の動きを、目で追い続ける。
青年も気付いているのか――しきりにアリアの方を見るような仕草を見せる。
(向こうもそれなりに慣れてるのかな。でも、わたしからは逃げられない。だって――)
アリアが目を見開く。
どれだけ離れていても、アリアは決して青年を見逃すことはない。
ここからなら――短刀を投擲すれば青年を仕留めることもできる。
(……っ、違う。わたしは、そんなことはしない)
すぐに、その考えを否定する。
油断すると沸き上がってしまう感情を押し殺して、アリアは青年を追う。
――逃げる青年の先に、一人の少女の姿があった。
(……! ぶつかる――)
青年も気付くのが遅れたのだろう。
少女の方もまた、避けるつもりはないらしい。
むしろ、青年を止める気でもあるかのように、
「ふっ、どこでもコソ泥というのはいるものだな。この私が――」
「危ないですよ、こんなところにいたら」
「――」
青年とぶつかる瞬間、少女を助け出したのはアルタだった。
どうやら先ほどの声を聞いていたらしい。先回りして捕まえるつもりだったのかもしれないが、少女のことを優先したのだろう。
だが、アリアもすぐにアルタの視線に気付く。
アリアが追いかけていることを知って託したのだ。
(わたしのことは、信頼してるってこと? ……いいよ、その信頼には応えてあげる)
真剣な表情で、アリアは再び駆け出す。
屋根から屋根へと伝い、徐々に加速していく。
やがて、路地裏の方に逃げて行った青年の上を取るように、アリアは飛び降りた。
「なっ――」
青年が驚きの声を上げる。
それはそうだろう――年端もいかない少女であるアリアが、迷わず屋根を伝って青年まで追い付いてきたのだから。
途中で落ちれば怪我では済まない。アリアだからこそ、迷わずにそんな動きができたと言える。
ピタリ、と青年の首元に短刀を当てて、宣言する。
「荷物は置いて。逃げようとしても無駄」
「ひっ、な、何なんだよ……!」
怯えた様子で青年が問いかけてくる。
アリアはふっ、と笑みを浮かべて、
「わたし? わたしは――」
「ノートリア、だ。久しぶりだね」
「っ!?」
背後から声が聞こえて、アリアは振り返る。
その声も、その姿にも見覚えがあった。
先ほど、ケースを盗まれて声を上げた男が、ここにいるのだ。
この状況が、すでにアリアにとって異常だと理解するには十分だった。
「そのケースは私のだよ。いやぁ、本当に君は優秀だな。ノートリア」
「……あなた、誰?」
「誰、誰……か。ふむ、私の顔に見覚えはないかな? まあ、世話をしていたのは私ではなく君の兄や姉だからね」
「――」
アリアは目を見開いた。
まるで以前の記憶を呼び起こすかのように、アリアは呟く。
「先、生……?」
アリアの言葉を聞いて、男はにやりと笑みを浮かべた。