36.《鋼糸剣》
イリスとアリアが、アディルと交戦を開始した。
僕は僕で、目の前にいる女性――フィスと向き合う。
「良いのですか?」
フィスが不意に問いかけてきた。
「何のことかな」
「一つしかないでしょう。《剣聖姫》とあの女の子、死にますよ」
まさか、フィスの方からそう言ってくるとは思わなかった。
彼女もまた、《剣客衆》の一人だ。敵であることは間違いない。
――フィスが、二人を心配してそう言っているわけではないことも、僕は理解している。
「護衛の身としては、イリスさんのことを守るのが本来の役目だね」
「それならば向かうべきでしょう。結界も斬ることができると言うのならば」
「そうだね。でも、『《剣聖姫》として』、彼女がそう言ったから」
イリスが自身の強さについて悩んでいたことは知っている。人々がその言葉に期待することは、あまりに大きすぎた。
貴族としても有名な彼女はやがて《王》になることも期待され、イリスは誰よりも強い存在で、普通の女の子とは違うのだとそう思われている。
けれど、実際には変わらない。悩みに悩んで、それでも周囲の期待に応えようとする努力家だ。
そのイリスが自らのことを《剣聖姫》と呼び、戦いに臨む。
「僕は騎士である前に剣士なもので。戦う覚悟を決めた者を、止めるようなことはしない」
「非情、ですね」
「もちろん、無謀な戦いに挑ませるようなこともしない。少なくとも、イリスさんの実力はこの場に立てるレベルにはあるから。だから僕の役目は、あなたを倒すことだ。その上で、イリスさんとアリアさんのところに向かわせてもらうよ」
「悠長なことを……私と戦ってから、それで間に合わなかったらどうするのです?」
「間に合わせるさ。そのために、あなたとの戦いに時間をかけるつもりはない」
「なるほど、そうですか――隙を見せてくださるかと期待しましたが」
スッと、フィスが剣を持ち上げる。
彼女は初めから僕を殺すことにしか、主眼を置いていない。あちらの戦いにも、まるで興味を示していないからだ。
イリスとアリアを心配するような言葉も、僕に対して揺さぶりをかけるため。
この場において、誰よりも非情なのはきっとフィスなのだろう。
一瞬の静寂の後、フィスが動いた。
「では――死合いましょうか」
『刀身のない剣』を抜き去る。
同時に、糸が周辺を動き始めたのが見えた。レミィルからの前情報ですでに分かっている。
彼女の使う糸は、普通の糸ではない――一本一本が刃のようになっている。
僕は身を低くして走り出す。遠距離からの攻撃は、以前に戦った剣客衆のフォルトに近いものだ。
フィスを中心にして、周囲へと広がるように糸が舞う。糸が壁を掠めれば、そぎ落とすように粉塵が飛ぶ。
近づくことは容易ではない――となれば、まずは様子見だ。
「――」
「っ!」
右手を振るって放ったのは《インビジブル》。目に見えない風の刃をフィスへと繰り出した。
糸を束ねるか、あるいは糸に強く魔力を通して防ぐか、そのどちらかだと予想はしていた。
だが――フィスはそのどちらとも違う動きをする。
僕が攻撃する瞬間とほぼ同時に身体を動かして、迫る刃を回避したのだ。
(常人の域は軽く超えてるね……確かめてみるか)
二撃目。糸を掻い潜りながら、わずかに距離を詰めて放つ。
だが、結果は同じ。
フィスはまるで予知でもしているかのように身体を動かして、攻撃を回避する。
後方へと跳び、一度距離を置く。
「その反応速度――とても人間とは思えないね。まるで未来予知だ」
「ふふっ、失礼なことを言いますね。未来予知などと……私が神や悪魔にでも見えますか?」
「いや、人間であることには違いないよ。ただ、普通の人とは違うところは――何も見ていない、というところかな。いや、正確に言えば見えていない、というべきか」
「……気付きますか。さすが、アズマさんとフォルトさんを殺しただけはありますね」
フィスが笑みを浮かべる。
目を細めているのではなく、彼女はずっと目を瞑っている。
それは見ていないのではなく、何も見えていない――フィスは失明しているのだ。
「視覚の情報に頼ることももちろん必要ですが、あなたのレベルであれば分かるでしょう。何より必要なことは気配を感じ取ること。私はそれが、人より何倍も優れているに過ぎません」
《第六感》――僕がイリスに対して期待したことだ。
フィスは目が見えないかわりに、その感覚が常人を軽く凌駕している。
「音、それに肌の感覚さえあれば目など必要ありません。むしろこの方が、下手なものを見なくて済むのでとても気持ちよく過ごせますよ」
「……自ら潰したのか」
「いえ、それも違います。かつて……ふふっ、《聖女》と呼ばれていた頃のことですよ。その時に少し拷問を受けまして、それ以来目が見えないんです」
フィスは簡単にそんなことを言ってのける。
フィス・メーデン――この一週間で少し情報は入ってきた。
元々は小さな村の出身である彼女が、聖女と呼ばれる役目を負わされたということ。
その役割は魔物除けだったが、フィスがいても魔物の数は減るどころか増える一方だった。
それはそうだ――彼女は決して聖女と呼ばれる才能があったわけではない。一部の村人がそう仕立て上げ、普通の少女にその役目を担わせただけなのだから。
「《剣聖姫》も民衆から期待されるだけの役割に過ぎないこと。そんなものを背負わされて、彼女もさぞつらいことでしょう。私にできることは、その役目から解放して差し上げることくらいですが」
「殺すことが解放になるとでも?」
「……人は誰しも、根底では争いを望んでいるのです。私はその手助けをするだけ。争いを望む人間は戦場へ、それを私が掃除すれば――ふふっ、いつかは争いもなくなるかもしれませんね」
「やっぱり、あなた達は狂ってるね」
剣客衆はそういう人間の集まりだ。
イリスの言う通り、野放しにしていればこれからも被害は増えていくのだろう。
「私は正常な部類ですよ。正常で真っ当に、物事を判断して殺すだけですから」
再びフィスが動き出す。
糸はフィスの意思のままに、僕の下へと迫って来る。離れたところからの攻撃は効かない。この糸も、全てが彼女の刀身から伸びているわけではない。
フィスは純粋な剣士ではなく、糸を使う魔導師のタイプだ。剣客衆はあくまで殺し屋集団――それがよく分かる。
再び離れて、僕は動きを止めた。
「ふふっ、そんなに離れて私を倒すなど――!」
フィスが何かに気付いたような仕草を見せる。
周囲を窺うように糸を繰り出すが、それは僕のすぐ真横を逸れていく。
ただ立っているだけにも拘わらず、フィスは僕のことを見失っていた。
「素晴らしいですね。そこまで気配を消せるとは」
フィスの言葉に答えない。
呼吸もしない。殺気も出さない。今、必要なことはフィスとの距離を詰めること。
幾重にも波打つような糸の攻撃を掻い潜って、僕の間合いまで動く。
簡単なことではないが、できないことではない。
身体の動きは最小限に。わずかに糸に触れるだけでも、フィスは僕のいる場所に気付くだろう。
「……」
フィスの表情に焦りはなかった。
無作為に糸を振るうのではなく、周囲に糸を垂らすことで僕がやってくることを待っている。
聞こえてくるのはイリスとアリア、そしてアディルが戦う音。
きっとフィスは、その音には耳を傾けていない。
視覚以外のすべての感覚を使って、僕のいる場所を把握しようとしている。
時間にしてほんの数秒――その時はやってきた。
「本当に、驚きました。先ほどの彼女も気配を消すことには長けていましたが、あなたはそれ以上です。一体、何者なんですか?」
「ただの騎士だよ。それ以上でもそれ以下でもない」
フィスの言葉に答える。
距離にして数メートルもない、僕の攻撃が確実に当たる間合いまでやってきた。
「ふふっ、そこからなら私の糸よりあなたの剣の方が速い、と?」
「そうだね。剣速にはそれなりに自信があるんだ」
「そうですか。私も糸を操ることには自信があるんです。試してみますか?」
「ああ、そうしよう」
ほぼ、同時に動き出した。
僕は右手を振るい、《インビジブル》を繰り出す。
初撃は陽動――彼女はこの距離でもかわせるだけの反射速度はあるだろう。
本命は二撃目。一撃目を放った瞬間に放つ、隠された刃。
わずかにフィスの左側を狙うことで、右に避けるだろう彼女を狙う。
「――か、はっ」
「!」
だが、フィスは初撃を回避しなかった。
わざと避けなかったのだ。避けてからカウンターを仕掛けてくることは予測していたが、その分僕の方も攻撃を避けやすくなる。
そのわずかな隙も与えないために、フィスはわざと攻撃を受けて、自らの攻撃に転じることにしたのだ。
僕の攻撃を受けながらも、にやりと笑みを浮かべて手を振るう。
周囲を覆い尽くすように、糸が迫ってきた。
「私の《鋼糸剣》――ここからならば、避けることはできないでしょう……!」
「いや、避ける必要はないさ」
左手で腰に下げた《碧甲剣》を抜き取る。
一閃――迫りくる糸の壁と僕の剣がぶつかり合う。金属の擦れる音が周囲に響き渡り、火花が散った。
さらに一歩、前に踏み出す。迫りくる糸に対しても臆することはない。
バツンッ、と大きな音が周辺に響き渡る。
ひらひらと周囲に糸が舞った。時間にしてほぼ一瞬の出来事。
斬れた糸が勢いのままに周囲を切り刻む。頬かすめるだけで、出血するほどの威力があった。
それと同時に、周囲にフィスの鮮血が飛び散る。
「最初に、言っていましたね。私の糸の壁も、簡単に斬れる、と」
「簡単ではないよ。結構魔力を使ったからね」
僕の使う碧甲剣は硬い素材を使っているが、それでも刃こぼれをしないわけではない。
魔力も上乗せして、ようやく斬れる程度には硬度があった。
「先ほどあなたは、私に狂っていると仰いましたが……それはあなたも同じ、でしょう。子供の身でありながら、あそこで一歩を踏み出すことなど、できるはず、も、ない」
そこまで言ったところで、フィスがその場に倒れ伏す。
乱戦になれば、確かに彼女の力はもっと脅威になる可能性があった。
イリスもそれが分かっていて、僕に彼女との戦いを願ったのだろう。
「……まあ、命を懸けることには慣れてるけどね。さて、あと一人か」
残る剣客衆はアディル・グラッツただ一人――倒れたフィスを置いて、僕は駆け出した。