34.守りたい人
――その日、雨の日だったことは、今でも覚えている。
知らない場所、知らない人。誰かが声を掛けてくれるわけでもない。
少女には目的がなかった。
ただ、言われるがままに生きてきたからだ。
「……」
地面に座り込んで、空を見上げる。降り注ぐ雨粒を数える――まるで意味のない行為だ。
そんな時、すぐ近くでパシャリと足音が鳴った。
少女が視線を移す。
そこに立っていたのは、ブロンドの長い髪の女性と、その女性にそっくりな少女。
「こんなところでどうしたの?大丈夫?」
「……」
女性が心配そうに声を掛けたが、少女は答えない。
その時、ブロンド髪の少女が駆け寄ってくる。
自分が濡れるのも構わず、ブロンド髪の少女は傘を差し出して、
「私はイリス。あなたは?」
優しげに微笑み、問いかけてきた。
それが、かつて見た微笑みによく似ていて、少女は思わず口を開く。
「……わたしは、ノートリア」
少女――ノートリアは答える。
それが、まだアリアという名を持たぬ少女と、イリスの出会いだった。
***
アリアは短刀を交差するように構える。イリスを狙う敵である《剣客衆》はアリアにとっても敵だ。
そんなアリアの姿を見て、アディルが笑う。
「ふっ、《暗殺者》か。我々に対してその言葉を口にするとはな」
「あなた達を殺せばそれでおしまい、だよね?」
「さて、どうでしょう。私達以外にも《剣聖姫》を狙う者は――」
「ここにはいない。あなた達だけ」
アリアがフィスの言葉を遮る。
すでに周辺の確認はできている――イリスを狙っているのは、ここにいる二人だけだ。
「なるほど。索敵能力に優れている――まさに暗殺者だな」
「感心している場合ですか?」
気付かれたというのに、焦る様子のない二人。
少なくとも、完全に気配を消しきった状態でアリアの攻撃は防がれた。
アディルとフィスの強さがアルタに近しいことは分かる。
(……でも、関係ない)
二人を見据える。
アディルの方は構えていない。
アリアの攻撃を防いだのはフィスの方だ。
フィスが手に持っているのは剣。鞘と柄はあるが、先ほど抜き去った剣には刀身がなかった。
その正体についても、アリアは聞いている。問題は――それが見えるかどうかだ。
「仕方ありませんね。あなたを殺すのは無益ですが……残しておくと有害です。ゆえに、死んでもらいましょう」
フィスが剣を抜いた。
アリアは目を見開く。周囲を走るように伸びる糸を見るために。
太陽光に反射して、わずかな輝きがアリアの目に入る。
本命はそれではない――アリアはその場から跳躍して距離を取る。
「!」
フィスが少し驚いた表情を見せる。
アリアが回避したことに驚いているのだろう。
糸状の刀身――見るだけではなく感知する必要はあるが、アリアにとっては得意な分野だ。
先ほどまでアリアが立っていた屋上の一部が、突如崩れ去る。糸状の刃が切り刻んだのだろう。
アリアは動きを止めない。追いかけるように糸が動く。短刀を投擲したところで、防がれるのは目に見えている。
(それなら……)
建物の陰に隠れたところで、アリアは足元へと短刀を投げた。
そこに現れたのは真っ黒な穴。短刀が中に入ると、今度はフィスの足元に穴が出現する。
「っ!」
次の瞬間、アリアは驚きの表情を見せる。
まるで死角からの攻撃が分かっているかのように、フィスが一歩後ろに下がった。
二本の短刀はフィスの前を通り抜ける。空中に黒い穴が再び出現し、アリアが短刀を回収し、距離を置く。
(反応が早い。まるで未来でも見ているような――)
「逃がしませんよ」
考える暇も与えてはくれない。
アリアに対して再び、四方から糸が迫る。
すぐに地面を蹴ってすり抜ける――だが、
「逃がさん。ここで時間をかけるつもりはないでな」
「……!」
駆け出した先に、アディルが立ちはだかる。
フィスの攻撃を避けるのに集中して反応が遅れた。
(避けられ、ない――)
振り下ろされようとする大剣を防ごうと、アリアが短刀を構える。防ぎきれなければ確実に死ぬ。
だが、アリアの短刀は守りに適していない。
切り払うか、あるいはイチかバチか二本の短刀で受け切るか。どのみち、選択肢は限られた。
「終わりだ――!」
瞬間、二人の間を雷撃が走る。
アディルがすぐに反応し、後方に下がった。
その魔法が誰のものか、アリアにはすぐ理解できた。アリアの前に降り立ったのは、ブロンドの髪の少女。
アリアが守ろうとしていた――イリス本人だった。
「イリス――」
「どうしてこんな危ない真似するのよ!」
名を呼ぶと、イリスがそれを遮って声を荒げる。
ビクリとアリアの身体が震える。イリスの声で怒っているのが分かったからだ。
けれど、イリスがすぐに息を大きく吐いて、
「……ごめんね。私が巻き込んだから」
「……違う。わたしが、イリスを守りたくて」
「分かってる。アリアの気持ちは……だから、無理はさせたくなかったのよ。でも、もう大丈夫」
イリスの表情に迷いはない。今朝からずっと、アリアは感じ取っていた。
いつも一緒にいるから分かる微妙な変化――どうやら、アルタと話して調子を取り戻したようだ。
後方からもアルタがやってくるのが分かる。
一人でも戦えると思っていた。けれど、どこか安堵していることに、アリアは気付く。
「――フィス、アルタ・シュヴァイツの相手は任せた。俺はこいつらを殺る」
「承知しました。御武運を」
「祈るな、俺には不要だ」
二人の剣客衆がそれぞれ動き出す。
フィスがアルタの方へと向かい、アディルがイリスとアリアの前に立ちはだかる。
短刀を構えるアリアに対し、イリスがそれを制する。
「アリア、一度下がって先生と――」
「久しいな、イリス・ラインフェル」
「……え?」
アディルの言葉を聞いて、イリスが動きを止める。
何を言っているのか、すぐに理解できていないようだった。
アリアにも、その言葉の真意は分からない。言葉だけで言えば、以前あったことがあるような言い方だった。
アディルの方に視線を向けたイリスは、やがて何かに気付いたように口を開く。
「その声、は……」
「イリス……? どうしたの?」
アリアの問いかけに、イリスは答えない。
「《剣聖姫》と呼ばれるほどになったのなら、父を超えることはできたか?」
にやりと笑うアディル。
イリスの表情が――怒りに満ちたものに変化していくのが、アリアにも分かった。