135.間違い
落ち着いた雰囲気のある廊下。けれど、装飾品を見れば高価なものが並べられているのが分かる。
イリスは貴族として生まれたが故に、見ればその価値もある程度分かる。
けれど、イリスにとってはあまり興味のないものであった。
まだ、ここまで来る途中で飾られていた歴戦の兵士が使っていたであろう大斧の方が興味が出るというものである。
イリスは思わず、小さくため息を漏らす。
「ふぅ……」
「お嬢様、ため息を吐くのはここまでに」
イリスの心臓がドキリと高鳴る。どうやら、後ろに控える人物には聞こえていたようだ。
「分かっているわ、ウェルマン」
「ならばよろしい。ラインフェル家を代表するお嬢様が粗相をしてはいけませんからな」
眼鏡をかけた老人――ウェルマン・ダリルトン。
白髪を後ろに流し、すでに齢六十を超えているというのに、立ち居振る舞いはイリスが幼い頃から変わらない。
「そんなことはしないわよ」
「でしたら、先ほどから確かめるようにお召し物を引くのはおやめください」
「だって、これ少し派手すぎじゃない……?」
イリスは眉を顰め、ウェルマンに問いかけた。
イリスが着ているのは、真紅のドレスだった。
貴族同士が正式な場で顔を合わせるともなれば、服装についてももちろん気にしなければならないことは分かっている。このドレスも、ウェルマンが用意してきたものだ。
「何を仰られますか。よくお似合いでございますよ」
「似合っているかどうかではなくて、もっと地味な色のもので――」
「それこそ、何を仰られるのです、と。お嬢様の晴れ舞台……最高に着飾らずとてどうするというのです」
ウェルマンが自信満々に言い放つ。
それを聞くと、イリスは少しだけ気が重くなる。――ウェルマンは、イリスが今回の婚約話を断るつもりであることを知らない。
もしかしたら、イリスの婚約が成功するように……そんな願いを込めて、勝負服を用意してくれたのかもしれない。
(……ごめんなさい、ウェルマン。私の心は、初めから決まっているから)
心の中で謝罪をする。
イリスは――婚約話など受けるつもりはない。婚約話を受けてしまえば、騎士になれない可能性も十分にあり得ることは、イリス自身がよく理解していることだった。
決して、王位継承の話から目を逸らしてきたわけではない。
この婚約には、この国の未来を決める可能性があることも、イリスは分かっていた。
イリスの母は、少なくともこの婚約の話については理解し、了承しているはずだ。
その判断をイリスに任せたということは、ラインフェル家の今後をイリスに託した――そう言っても過言ではないだろう。
ただ、イリスは『騎士になるため』に断ってはならない。
それが余計な混乱を招くということは、イリスも分かっている。
ここに来る前に、アルタからも忠告されたことであった。
(ただ毅然と、私らしく話せばいいのよね)
イリスはそう心に決めて、目的の場所へと辿り着く。大きな扉の前に、一人のメイドが待機していた。
ラーンベルク家に仕えるメイドだろう。付き人がここで待っているということは、ウェルマンも入口で待機することになるだろう。
ラインフェル家とラーンベルク家の代表として――お互いに邪魔が入らないように話し合いたい、ということだろう。
「お待ちしておりました、イリス・ラインフェル様。カシェル様は中でお待ちです」
「分かったわ。ありがとう」
イリスが笑顔で答えると、メイドが扉に手をかけて、開く。
ウェルマンは無言のまま扉の前で待機し、イリスは部屋の中へと入った。
広い部屋の中――奥のソファに腰かける一人の青年がいた。
長い銀髪を後ろで束ね、金色の瞳でイリスを見据える。
イリスが傍まで近づくと、青年が口を開いた。
「やあ。久しぶりだね、イリス」
自信に満ちたその声は、イリスの知る人物とは少し――否、かなり異なった。
「……カシェル?」
「ああ、そうだとも。ボクのことは覚えているかな」
「何度かパーティで顔を合わせたものね」
「あはは、そうだね。その時は少し気弱な姿ばかり見せてしまったかもしれないが……今日は違う。イリス――君をボクのモノにするために、ここにいるんだ」
カシェルがはっきりと宣言する。
イリスはその強い言葉に、思わず拳を握りしめた。
けれど、イリスとて押し負けるほど――軟な性格はしていない。
「私も……はっきりと言っておきたいことがあるわ」
「ボクとは婚約できない――その話だろう?」
「!」
イリスは驚いて、目を見開く。切り出す前にカシェル自ら言い出したのだから、無理もないだろう。分かっていて、イリスに婚約話を持ち掛けたのか。
「……ええ、その通りよ」
「貴族と貴族。ましてや、四大貴族の婚約ともなれば、簡単に決められる話ではないよ。けれど、ボクと君――ラーンベルクとラインフェル家は少なくとも、こうしてお近づきになれたわけだ」
「それはつまり、初めから婚約が目的ではないってこと?」
「ふふっ、逸るなよ。君が婚約を望まないことは分かっていたよ。ボクとしては、君が婚約を受け入れてくれることが一番楽なのだけれど……さて、問題となるのは次の話だ。何故、ボクとの婚約話が受けられない?」
「それは――」
カシェルの迷いのない問いに、イリスはわずかに言葉を詰まらせる。
……断り方は様々だ。『好みのタイプじゃない』とか、『決めるにはまだ早い』とか。
けれど、それらの断り方では、カシェルの言うようにラーンベルクとラインフェル家の繋がりは消えない。
何故なら、そう答えれば『これから知ればいい』と言われてしまうからだ。
簡単に断ることができないからこそ、特に大貴族の婚約話は気軽にできるものではない。
「……もしかして、噂に聞く話が本当なのかな? 君が《騎士》を目指していて、《王》になるつもりもないっていうこと」
「私自身が王になるかどうか、それを決める立場にあるわけではないわ」
「けれど、君が拒否をすればそれも可能となる――だろう?」
やはり、カシェルはそれを確かめるために来たのだろうか。
イリスの知るカシェルの雰囲気とはかけ離れていて、少しばかり気圧されてしまう。
けれど、イリスは小さく深呼吸をすると、真っ直ぐカシェルを見据えた。
「……今は、それを拒否するつもりはないわ。けれど、私とあなたは同じ立場にある、でしょう?」
「つまり、まだ王になるつもりはある――だから、ボクとは婚約できない、と」
「そういうこと」
「なるほど。はぐらかすだけのようにも聞こえるが、確かに君に王になる気があるというのなら、確かに婚約はできないだろうね。……けれど、その答えでいいのかな?」
「どういうこと?」
「だって、そうだろう。その言葉で、他の貴族達は納得すると思うか? ボクは『王になる』つもりだ。君と違って、強く宣言することができる。けれど、君は『分からない』から僕との婚約を断るのかい? そんな気持ちなら、ボクと婚約してしまった方がいいんじゃないか? 騎士になりたいのなら、その望みを叶えてあげることができるよ」
「……あなたに叶えてもらうことなんてないわ。揺さぶろうとしても無駄よ。それが私の答えだもの」
王になるつもりはない――王の候補として最有力であるイリスは外れることになる。レミィルから話を聞いたわけではないが、今のイリスにもそれを明言してはならない状況であることくらいは分かっている。
王になるべき人物が誰か……それは、イリスにも分からない。
けれど、ゼイルのような人物が王になることは、決して許されない。
イリスが王になる可能性を、捨て去るわけにはいかないのだ。
だから、王にならないわけではない――そんな曖昧な返答でも、イリスの立場は保障される。
嘘を吐くことは心苦しいが、ラインフェル家の代表としても。それはできないのだ。
「そうか。ボクはてっきり、もう少しシンプルに断られるのかと思ったよ」
「……?」
「あはは、簡単だよ。ボクとの婚約ができないのは、他に『好きな人』がいる――とかさ」
「……な、何を馬鹿なことを!?」
イリスは顔を赤くして、思わず声を荒げてしまう。
『好きな人』と言われ、すぐに思い浮かんだ人がいたからこそ、イリスは強く否定してしまった。
それが、間違いであるということには気付かずに。
おかげさまで三巻の発売が決定致しました。
コミカライズの準備も順調となっております。
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