101.イリスの選択
「僕と勝負、ですか」
「はい」
僕の言葉に、イリスは迷うことなく頷く。彼女の表情は本気だ。
握り締めているのは模擬剣だが、向けられた刃には確かな決意が込められている。……初めて、イリスに勝負を挑まれたとき以上のものだ。
「イリス、何を言ってるの? 今はそんなことしてる場合じゃない」
そんなイリスに対し、アリアが咎めるように口を開く。
ちらりとアリアに視線を送ると、その表情はやや怒っているように見えた。状況を考えれば、イリスの発言はアリアにも看過できないものだったのだろう。
――このタイミングで、僕と戦うことにどういう意味があるのか、と。
「今だから、必要なことなのよ」
「何を言って――!」
イリスとアリアが言い争いになりそうになったところで、僕は手で合図するようにアリアを制止する。今、彼女達が争う必要はない。
イリスが僕に求めていることの真意を、確かめる必要がある。
「アルタ先生……?」
「すみませんが、少し下がっていてください」
「!」
アリアが驚いた表情を見せる。
しばしの沈黙の後、僕の言葉に従うようにして、アリアが後方へと下がる。
僕はイリスに応じるように、僕も懐から模擬剣を取り出す。魔力を込めて作り出したのは直剣――僕の使う《碧甲剣》と同じだ。
「戦って、くれるんですか?」
「以前なら、確かに断っていたかもしれませんね。今も、本来であれば受けるべきではないのかもしれません。ですが、君が今、求めていることに『戦うこと』が必要なら……それくらいは受けますよ」
「……ありがとうございます」
イリスは一度構えを解いて、頭を下げる。
あくまでお互いに持つのは模擬剣だ。本気の殺し合いというわけではない――だが、イリスから感じられるのは、それに近しい気迫。
思えば、イリスがルイノに会ったという時から、どこか様子がおかしかった。ルイノに何か言われたのか……それは分からない。少なくとも彼女との間に何かがあったのだろう。
イリスの師匠として、僕はそれを見定める必要があった。
「シュヴァイツ先生、手合わせ――よろしくお願いします」
イリスが再び剣を握り締めて、構える。その構えは美しく、真っすぐで、正しいものだ。
一目見れば、ある程度実力のある者ならば理解できるだろう。イリスは強く、すでに完成に近い強さを持っているということに。
だが……その強さでは、まだ僕には勝つことはできないだろう。
イリスもそれは理解しているはずだ。それでも彼女が僕と戦いたいと言うのならば――僕も剣を構えて、初めて本気でイリスの前に立つ。
「いつでもいいですよ」
「分かりました――参ります」
イリスが地面を踏み締めて、駆け出す。瞬時に僕との距離を詰めて、模擬剣を振るう。
まずは一撃目。わずかに後方に下がり、それをかわす。
イリスの動きに一切の迷いはなく――さらに一歩踏み出して、一閃。今度の一撃は受け止める。
力強い一振りに、僕も力を込めて受けた。……そのつもりだったが、わずかに僕の方が押される。
「!」
少し驚いた表情で、イリスを見る。
お互いに身体を魔力で強化している――条件は変わらないはずだが、イリスにはひたすらに『斬る』という、気迫が感じられた。
イリスはさらに、僕を押し切るようにして剣を振るう。
「ふっ!」
呼吸を吐き出し、さらに一撃。僕の模擬剣を弾いて、振り下ろすような斬撃。
だが、それよりも早く僕は攻勢に出る。イリスもすぐにそれに気付いて、防御の構えへと移った。
続け様に五連撃。初めの頃は、イリスは四撃目にはバランスを崩し、受け切ることはできなかった。
だが、今のイリスは違う。
僕との剣の修行の成果と、今までの戦いの経験――少なくとも実戦を経たイリスは、今までとは違う強さを手に入れている。
完全に僕の連撃を防ぎ切り、鍔迫り合い。僕とイリスの視線が交差し、お互いの力は均衡した。
イリスは両手で剣を握り、僕から距離を取ろうとしない。下がった瞬間の、僕の追撃を警戒しているのだろう。
イリスの戦いのセンスはそれこそ、剣士としては群を抜いて高い。
ここで距離を取れば、僕の攻撃を防ぎ切れない可能性を理解していたのだろう。
実際、僕はここでイリスが後ろに下がれば、さらに速い連撃を繰り出して終わらせるつもりでいた。
「一筋縄ではいかなくなりましたか」
「……先生の、おかげです」
「いいですね。僕も――少し楽しくなってきました」
思わず笑みを浮かべてしまうくらいには、イリスとの戦いを楽しんでいる。
弟子である彼女の成長を純粋に喜んでいるのか……あるいは、彼女が僕に並び立つだけの強さを手に入れることを予感しているのか――だが、そこで僕も一つの事実に気付く。
今のイリスは、どこか『紙一重』だ。
僕と並び立つだけの『強さ』を手に入れるために、『何か』を犠牲にしようとしている――強くはなっているのだが、今のイリスから感じられるのは迷いだった。
「イリスさん。君が何故、僕と本気で戦いたいと言ったのか――それは僕には分かりません。君が何かを得られるのならば、僕は協力するつもりでいます。ですが、今の君から感じられるのは、以前のものと同じです。何を迷っているんですか?」
「……」
僕の問いかけに、イリスは答えない。
しばらくの間、僕とイリスの力は拮抗していたが――やがて僕の方からその均衡を崩す。
イリスの剣を弾くと、僕はイリスとの距離を取った。
距離を開けまいと動こうとするイリスに対し、左手から放つのは目に見えない刃――《インビジブル》。彼女の頬をかすめるようにして、風の刃は夜の闇へと消えていく。
イリスが目を見開いて、動きを止めた。
「僕がもっとも得意とする攻撃です。これを防げないようであれば――」
「私に勝ち目はない、ですよね」
イリスはため息をつくようにして、構えを解く。
「もう少し模擬剣で斬り合ってもよかったんですけどね」
「……いえ、本気で、とお願いしたのは私です。ごめんなさい、手間を取らせてしまって」
「構いませんよ。それで、君は何を迷っているんですか?」
僕は再び問いかける。
僕の問いかけに、イリスは迷った表情を見せて、視線を逸らす。どう話すか、考えているようだった。
僕はイリスを急かすようなことはしない。しばらくすると、イリスは呟くように話し始める。
「例えば、例えばですよ。先生は、私が先生を本気で斬ろうとしたら、どうしますか?」
「イリスさんが、僕を? 確かに、先ほどは鬼気迫るものを感じましたが……まさか」
「た、例え話です! 先生を本気で斬ろうとは――思ってないと言えば、嘘になりますけど……」
歯切れ悪く、イリスが言う。やはり、先ほどは模擬剣であっても、僕を『斬る』という覚悟を以て剣を振るっていたようだ。
「斬ることに迷いがある、と?」
「……そんな迷い、私にはないと思っていました。だって、父の仇を取ろうとしていたときの私は、確かに《剣客衆》を斬ろうとしていましたから。アリアを助けようとしたときだって、そうです」
イリスがちらりとアリアの方に視線を向けて、言う。
「アリアを助けるためなら、私は『斬れる』と思っていました。でも、今回は……分からないんです」
「分からない、ですか」
「……ルイノ・トムラは、先生のことを『殺す』って、言っていました」
「!」
イリスがルイノの口から聞いた言葉は、僕を狙っているという明確な宣言。
それは、僕もイリスとアリアに説明するつもりであったことだ。
ルイノ・トムラは――僕のことを殺すつもりでいる。
その前に王国の脅威となる剣客衆を打ち倒すという契約の下、ルイノは騎士団と手を組んでいるのだ。
『僕とルイノの決闘』こそが、ルイノと騎士団の協力関係の真実である。
王国の危機を乗り越えるために選んだ、レミィルの苦渋の選択だったと言えるだろう。
「私は、ルイノを止めようとしました。でも、彼女が望むのは『殺し合い』だけなんです。彼女を止めるには、殺すしかないんだって――私は一瞬でも、思ってしまったんです」
イリスが拳を強く、握り締める。彼女が目指すのは、『王国最強の騎士』という存在。
当然、騎士であれば――相手を斬り殺すことも必要になるだろう。
だが、イリスはまだ十五歳の少女だ。剣を握り、ずっと自分より大きな相手を倒すことはできても、実際に人を殺した経験はないのだろう。
イリスが迷っていることは、僕にも理解できる。
剣客衆のアディル・グラッツや、アリアの父であるクフィリオ・ノートリアは、いずれもイリスの大切な人が関わっていることだ。
『誰かを守るための剣』を振るうイリスならば、当然迷うことなく剣を握れただろう。
だが、ルイノはどうだろうか。彼女はまだ――剣客衆を殺し、騎士団と協力関係にある少女だ。
『僕を殺す』と口にしたとしても、明確に行動に移しているわけではない。
イリスからすれば、止めるべき相手であることに違いはないのだが――戦いになれば、殺すしかないことを予感させる相手だったのだろう。
今までにその経験がないからこそ、今のイリスには迷いの気持ちが生まれている。
「ルイノは先生のことを狙っています……だから、私はルイノと戦うつもりでした。でも、ほんの少しだけ――先生がルイノと戦えば、殺さずに止められるのかもしれないっていう気持ちが、私にはあったんです。私が戦えば、殺し合いにしかならないかもしれなのに。だから、私は迷って、迷ったまま……逃げようとしました。先生を狙う相手なら、『殺してしまってもいいんじゃないか』って、考えてしまいました」
イリスにとって、僕に任せることは『逃げ』であり、僕を守るという理由でルイノと戦うことも、『逃げ』となってしまっているのだ。
僕に任せれば、ルイノを殺さずに済む。逆に、『僕を守る』という理由で、ルイノを殺すこともできる――イリスとルイノの強さが拮抗しているからこそ、選択肢に浮かび出るのは殺すという選択なのだろう。……まだ学生の身分でしかない彼女が選ぶには、あまりに重い選択であった。
「君は、人を斬りたくはないですか?」
「……ルイノにも、似たようなことを聞かれました」
「それで、何と答えたんです?」
「必要があれば斬る、と。私も騎士を目指す身ですから……それくらいの覚悟はしているつもりです。でも、殺すためだけに、戦うつもりは、なくて……。私にもっと力があれば、ルイノを止められるかもしれないのに。でも、先生が狙われていることが分かっていて、任せるだけなんて……!」
「――なるほど。君は相変わらず、子供らしくないことで悩みますね」
「……え?」
イリスがきょとんとした表情で、僕を見る。
イリスの悩みはどうしていつも、生徒らしからぬものばかりなのだろうか。思わず、ため息が出てしまいそうになる。
「君は僕がルイノと戦えば、止められると思っているんですよね?」
「そ、それは……今、改めて戦って分かりました。先生は、私なんかよりずっと強いですから」
「では、ルイノは僕に任せればいいんですよ」
「……っ、それじゃあ、先生が狙われていると分かっているのに無視することに――」
「それはできない、と。実に難儀な話です。そうなると……今の君にできることは何だと思いますか?」
「私にできること、ですか?」
「はい。一つだけ助言をするとすれば――今の君に足りないものは、自信というところですかね」
「自信……」
「こればかりは、僕の言葉でどうにかなるものではないと思いますが。ただ、君は君が思っているほど、弱くはない。僕が本気を出してもいいと思えるだけの存在なんです」
「私が、ですか……?」
「そうでなければ、僕がこうしてしっかりと剣を教えるようなことはしませんよ。君はルイノの雰囲気や言葉に飲まれているんです。前にも教えましたが、強くなるためには選ぶことが必要になります。君は……『ルイノをただ殺す強さ』がほしいですか? それとも、『殺さずに勝てるだけの強さ』がほしいですか?」
「そ、そんなの――そんなの、決まっています」
イリスは一瞬、戸惑った表情を見せたが、すぐにはっきりと答える。
元より、彼女の求める強さは闇雲に人を斬るための剣などではない。『誰かを守るための剣』――それならば、初めから選択は決まっているだろう。
「それがまだできないのであれば、僕を頼ってください。もしも君ができると思ったのなら――僕は君に任せますよ」
「……先生、ありがとうございます。先生と話すと、本当に子供と話しているとは思えないです」
「あはは、僕も正直同じ気持ちですけどね。こういう進路相談、多くないですか?」
「イリスは何でも抱えすぎだよ。迷ったならわたしを頼ればいいのに」
アリアがようやく、話の間に入る隙を見つけたように割り込んでくる。
ずっと僕とイリスの戦いを黙って見守っていた――イリスが迷っていることは、アリアもきっと分かっていたのだろう。
「アリアまで……でも、ありがとう。それから、時間を取らせてごめんね」
「いいよ、デザート奢りで」
イリスの言葉にアリアがそう答えて、お互いにくすりと笑みを浮かべる。
イリスの悩みも吹っ切れたようでよかった――あとの問題は、実際に迫っている敵をどうするか、だ。
剣客衆だけでなく、ルイノもまた……最終的には敵対することになる。それは、ここにいる全員が理解していることであった。