93 《劔を鍛えよ》 (26)
夏美が目を見開いて、水晶玉をじーっと眺めている。
水晶玉の中の、小さな針状の何かに集中しているだろうことが、ラインハルトにはわかった。いつもの目、眼差しとは全く違う。
夏美の佇まいを見ると、ただ静かだ。まるで神を降ろした巫女のように落ち着いて座ったままでいるのを見て、ラインハルトは、ほっと小さく息を吐いた。
「いよいよ、みたいだ。どうやら夏美は、大丈夫そうだね。
善蔵、お願いだから、その椅子から動いてはいけないよ?
気をつけて。
僕が必ず守るから」
「かしこまりました。心得ております」
善蔵は、落ち着いてそう答えると、静かに目を閉じる。
能力がない凡人は、ある意味幸いなのかもしれない。
自分には全く何も見えないのだ。ただ、なんとなく気配は、空気感は変わったことだけは感じる。
ただ、ご無事を祈ることしか今の自分は出来ないのだ。
夏美の目が光っているようにラインハルトは感じるが、もはやそれは夏美の瞳の色ではなかった。それは、ただ水晶玉とラインハルトを見つめている。夏美の瞳の奥に、まれによぎる竜人族とおぼしき少女の瞳。
ラインハルトは、心話で呼び掛けてみる。
《君、なんだね。 ようやく会えた》
直接の答え、反応は得られなかった。
再度、何かを試みてみようかとラインハルトは考えた、が。
夏美の唇が、無音で何かを言おうとしている。
ラインハルトは、読み取る。
まねて、共に静かに呟いた。
神様と約束された、古い、古い言葉。
「《gnōthi seauton》...」(汝自身を知れ)
やはりそうか、自分にだけではなく己のことも常に問いただしているのだろう。龍や蛇の目を蛇の目と言い、鏡という言葉の語源になっていったのは、他者に課すだけではないのか。さすが、高潔な魔法生物だと感嘆する。
自分のことをも《審判者》の目として見定めよ、ということにも通ずるのか。
ラインハルトは、ひたすら考える。
{自分自身を知る、理解する}、か。
自分自身を知り、証を立てよというのならば、すでにその覚悟は出来ている。
自分の身が破滅しようとも、だ。
神の定めた法を越えた一族の末裔で、光と闇の狭間にある者。そして、まだ何もなしえ得ていない者。
そうだ、それこそ幻影水晶とも、僕は似ていると思う。一度成長が止まって、そこから結晶化を繰り返して、理想の勇者に似せて作られていく、つぎはぎだらけのまがい物。
それが自分だ。
今は、もう瞳だけではない。心が落ち着いたからか、感応出来てきた。夢にまで見た懐かしい姿が見える。
ラインハルトは、夏美に重なって、まるで二重写しのように見える少女の姿を眺めた。狩りか戦闘に行くような勇ましい姿で髪を一括りにしている、きつい眼差しの少女だ。
お札をいただくための試練の時も、龍体に重なるように、ぼんやりとこの少女の姿が見えたのだ。
眼差しは鋭いが、敵意はないような気がする、少女の姿。
正義を見定めようと、善と悪を切り分けようと厳しい目で自分を見つめてきた少女は、やはり龍神のゆかりの者なのか。
夏美に宿る者は、水晶玉の中心をひたと見つつ、それでもラインハルトの存在を気にしている気配がする。
マルセルのやるような厳しい”見透かし”方ではなく、ラインハルトの気持ち・資質を推し量るかのように静かに、そこにいる。
身に着けているお札と宝珠もどうやら認識しているのだろう、そう思った。
心話で話しかけてしばらく待ってはみたのだが、少女からの答えは全く聞こえてこない。時だけが虚しく流れる、気がする。
何をすればいいのか。
自分は正しいのか。
間違っているのか。
以前もそうだったと、ラインハルトは悲しく思う。
龍と意思疎通をしたいと試行錯誤してきたので、いろいろと試してみたが、無駄のようだった。
人間の努力の量など、やはり神様から見たレベルから見れば、1ミリサイズの虫の微かな吐息みたいなものなのだろうと思うけれど、、報われたいと期待してきた自分に苦笑するしかない。
《やはり、僕では君に通じないみたいだね、言葉が》
《僕の声が聞こえる?僕を認識してくれている、、、のかな?》
まるで...独り相撲だ。
《覚えているかい?
僕は、あの時、龍の君に負けたんだ、あっけなく突き落とされて、それでも、、、お札をいただいた》
《でも、そういうことじゃない。僕はあの時、迷ったんだ。闇属性の強い僕に君は敵意を持っていて、僕は自分の正当性を自分でも信じ切れなかったし。ああ、言い訳なんてこの際、どうでもいい。
僕が迷わなければ。僕があの時、君に勝ちきれていれば、あの子は死ななくて済んだのかもしれない》
自分の失策を責められているのかもしれない。僕は、やはり前に進めないのか。
《君は巫女を遣わせてくれたというのに、僕はあの子を助けてあげることは出来なかった》
そう言うと、ラインハルトはポケットから白蛇竜の宝珠を取り出して、お盆の上にことんと置いた。
《君の宝珠だよ、君の巫女が命がけで僕に渡してくれたんだ。ずっと守ってくれていてありがとう。
夏美と夏美のご一族は、君を裏切ったりしていない。保証するよ、鏡も、いつでもお返し出来るようにしてある》
夏美、いや、少女の目は、今度はじっと宝珠を眺めている。少し懸念もしていたが、今回は夏美の姿のまま飛びかかってそれを奪おうともせずに、ただ眺めている、ように見える。
《......》
《もし、差しさわりがあるなら、宝珠もお札も返す。
僕の願いは、一つだけ。青龍王様にお願いしてきたのは、劔、それだけだ。
狭間の地に行くのに、どうしても《正義の劔》が必要なんだ。
あの時は、わからなかった。
君こそは、スボシ様なんだろう?
女神さまだけが、最後まで人間族に情けをかけてくださった。それは君も良く知っているだろう?
そのためにも僕が行く。
この世界は、崩壊寸前だろう?神さまに許しを乞い、またこの世界の生き物全てを愛してくださるように頼まないといけない。
でも、君に僕の資格を認めてもらえないとしても、今は、まがいものの僕しかいないんだ。
僕以外の人間には、もっと危険な旅になると思う。
僕に君の劔を授けてほしい、》
答えは、ない。胸の奥がツーンとした。
やはり、僕は認めてもらえないのだろうか。
僕には、...資格が無いのか。
《僕ではなく、他の誰かがふさわしいなら探してくる。
まさか夏美に資格があるってこと?
でも僕は、それでも夏美に危険な目に遭って欲しくない、劔を渡したくないんだ。
いや、それ以前の問題だ。愛する者をもう失いたくない、それが本音だ》
龍の中の少女は、自分の中の欺瞞、矛盾、弱さを見透かしているのだろう。
《僕は、誓いを立てた。我欲も捨てるつもりだった。だが、未だに欲も捨てきれない。
真剣に考えた。でも、僕は夏美を諦めきれないと思う。
美津姫を失った時も耐えきれないと思った。耐えきれたわけじゃない。
僕が死のうが何をしようが、彼女の再生をもたらさないことはわかっている。だから必死で諦めたさ。
今度は違う。夏美は生きている。しかも、普通の女性として。
僕は、この子を巻き込みたくないし、闘いたくない。だが、一方で夏美の継いだ宝も欲しいし、愛も欲しいと望んでしまった。夏美のためならば、僕が負けてもいいのだけれど、夏美を守り切れる者が他にいなければ、それも虚しい。がんじがらめなんだよ》
ふと、母のことも思い浮かんだ。
そうだ、『3』という数字は自分にとってタロットカードの3枚目『女帝』をも意味する。母の属性においては、自分の闇の部分は、禍々しい敵のようなもの。それなのに母を恋しいと思う気持ち、それからひね曲がったように疎ましいと思う気持ちも同時に存在するのだ。矛盾だけど。
それが、僕の矛盾、僕の欺瞞だ。
そうだ、僕はただの自分勝手な人間でしかない。どれだけの証を立てられるかと言うと、それは未だにお粗末なものだ。
僕は、離れていなければならない母を恋しいと思う、美津姫を愛しいと思い、また夏美にも愛しさを感じ、夏美からも愛し返してもらいたいと思う。
そして、僕はただの純粋な愛ではなく、欲をも持つ。
自分の禍々しさに毒されないのであれば、母だってそばにいてほしい、美津姫や夏美にも僕自身の寂しさを埋めて欲しいと思う。ずっと願うだろう。
その実、僕はしがらみなどなく、ただ独り自由でいたいと思うのだ。
愛や母性や、優しさなどにからめとられることなく、独りでいたい、冒険に行きたいとも思うのだ。誓いのためには、どこかで野垂れ死にしてもいいくらいだ。人間関係など考慮せずに、自分のやりたいことだけを貫きたい。孤独と達成感に飢えている。
あまりに自分勝手だ。
自分としてはふらっと飛び立ちたい、と願うのに、同時に自分が愛する対象には、ふらっと飛び立って僕を置いていくなんてことは、しないでくれと願ってしまう。
美しく飛び回る蝶を、憧れの気持ちを持って眺めるその蝶をさえ、飛ばないように行かないように閉じ込めてしまいたいとさえ、思う。
その生を閉じる前などではなく、美しいまま、蝶の絶頂期でピンを刺してその瞬間を永遠にとどめたいと望むくらい、自分勝手に。
少女が、宝珠や水晶玉を見据える目が、自分の弱さをどんどん引き出して、ラインハルトはその弱さに直面をしているように思う。
いや、この少女のせいじゃない。
僕は望んで僕が直面し、僕が自分で自分の心をひっかいている。血がにじむのが気にならないくらい、ズタズタになってしまえば、いっそいいのかもしれない。
《君となら、闘える。今度こそ。
もし再度、闘いに挑めというのなら、僕はそうするよ。
君が、神だろうと正々堂々と戦う。
今度こそ全力を尽くして君に勝つことを考える。
でも僕は、あの時、君と友達になりたかったんだ。し合わねばいけないのに、そう思ってしまったんだ。
本当は今でもそう思う。だからこそ、こんな手段を取っている。なぜなら。
Azimech、君が守られていないものだから、僕は》
《 !...》
少女が、ラインハルトを一瞬見つめた気がする。先ほどから少し反応が変わっている気がしていたのだが、今、明らかに言葉を聞いてくれているのだと理解できた。
《Azimechっていう言葉には反応してくれるんだね、じゃ、君は本当にスボシ様なんだね?》
龍の少女の?眼差しが不意に優しくなった気がする。
自分にも何かを伝えようと思ってくれているのだろうか。一歩くらい近づけて親しくなれるきっかけになるだろうか。
ラインハルトは、希望を見出したように思った。
僕たちは闘わないで、理解し合えるだろうか?
僕の足りない所を教えてくれれば、さらに届くように努力していく気持ちを伝えられるだろうか?
闇の部分、悪い部分も持ち合わせているが、どこか良い部分を認めてくれるだろうか?
《君の名前だよ、Azimechというのは、ね、あのお方の麦の穂でもあることは僕も知っているし、あ、でも西洋では違う名前を呼ぶんだけどね、ああ、そうだ。名前を呼んだら、魔法が解けたり、返事をしてくれるといいんだけど、》
スボシ様の西洋での名前をドイツ語や英語で発音しようとするラインハルトの真顔の試みを幻影の少女がくすくす笑いをし始めたような気がして、はっとして見直そうとした矢先、ふいに幻影は消え去ってしまった。
ああ、また僕は、...失敗してしまったのだろうか。
「ライさん、大丈夫?」
と、夏美がいつものように自分に呼びかけているのに気づくのに一瞬、遅れた。今、つかめそうでまた、自分は大切なものを逃してしまったのだろうか。
気づけば、つい唇から血がにじむほど噛みしめていた。
だが、そんなことよりも夏美の普段通りの姿、表情が嬉しくもある。
予測された危難は起こらなかった、のだ。
審判も、されなかった、ということかもしれないが。
別室で待機しているマルセルの緊張度も、少しレベルが下がったように感じる。
ラインハルトは、慌てて笑顔を浮かべた。...夏美を、気遣ってあげなければ。
「夏美?、ああ、良かった。...夏美こそ、大丈夫?
無理をさせてごめんね、気分はどうかな?金縛りみたいになっていたのかな。
僕のせいだよ、本当にごめん。巫女のようなことをさせてごめん。
予測はしていたんだけど、夏美にしか出来ないことだったから。
夏美が怖い思いをしたとしたら、全部僕のせいだから、」
さっきから、僕は。
論理もへったくれもないな。頭に浮かんだことをただただ、矢継ぎ早に並べているだけだ。
いったい、どうしたんだ、もう少し論理的だっただろう、僕は。
夏美は、屈託なく笑っている。暖かいものを感じさせる笑顔だった。
「ライさん、気にしないで。
私なら、全然大丈夫よ、逆に、いつもより気分爽快!
そして、私の中の誰かさんも、たぶん大丈夫♪」
「それは良かった、で、」
2人は、似たようなタイミングで善蔵をちらりと見た。
目をつぶって行儀よく椅子の上に眠っているような姿に見えた。どちらからともなく、安堵のため息をついた。
「ああ、...良かった、とにかくみんな、無事というわけだ。大事にならなくて良かった。ただ、、。
無理に付き合わせておいて、なのに。
あまり、進展はなさそうだけど、」
と、少しまだ落胆を隠せないラインハルトに向かって、夏美が口を開く。
「そんなことないわよ、少しは、前進したんじゃないの?
だってライさんがなにか話していたでしょう?
私、今回も金縛りみたいになっていたけれど、身体はとても快適でいたのよ。それに。
私が何か通訳をするまでもなく、ライさんが私の中のお札さんとお話が出来るなんて」
「いや、ほとんど一方的に僕が話していただけだよ、意思疎通なんて、まったく程遠いな。しかも、考えていたことの半分も言えず、論理もない、プレゼンすら出来てないんだ」
と、ラインハルトは仏頂面に近い。
「あら、そうなの?」
「え?
あれ?夏美は、何かわかったの?」
「ええ、ちょっとだけ。
ごめんなさいね、立ち聞きしているわけじゃないのよ。
でも、あのね、伝わってきたのよ、いつものようにイメージみたいに。
あれは、あの姿は、勇者の女の子みたいね、闘うことの出来る少女、という感じ。
その子がね、ライさんに伝えようとしていたのよ、でも、ライさんに伝えられなかったのね、イメージみたいにいつものように考えているのにね、」
「そうか、夏美は、以前からも微かな声が聞こえたり、イメージを伝えてもらえていたんだよね。
その話を聞かせてくれない?
僕にも教えて欲しいな、良かったら」
「もちろんよ、ライさんにも気持ちを伝えたがっていたみたいだったからね。
私が間違って通訳したら困るけど、イメージ通りのことを言うわね。
あれ、私のお札さんの本当の姿なのかな、なんとなく見覚えがあるのが不思議。きっと、私が夢見ていた勇者さんは、あのイメージなのね。あの子はね、あ、龍神様かもしれないのに、失礼かしら、でもね、とても親しみやすい感じの朗らかな元気いっぱいの子みたいなの。
それにね、ずっと以前からライさんのことを知っているみたいなの。お札としてそばにいたからかしら。
本当にずいぶん前から、子供の頃のライさんを知っているみたいだわ」
少しくすぐったそうな顔をして、ラインハルトが言う。
「僕はね、実は、青龍王の使者の方に招かれた時に、あの姿を見たんだ。それはもう、僕は子供も子供だったよ。
不確かなイメージだったけど、龍の姿の中に少女の姿が二重写しに見えて混乱した。御前試合のように引き合わせてもらっていたはずだった、本当は正々堂々と戦うって誓っていたのに、頭から色々とすっ飛んじゃって。想像以上だったからね。ワクワクし過ぎていたのかもしれない。とてもきれいな龍で大きくて強そうだったんだけど。その中に見えたんだよ、そんなこと体験したことがなかったし。本当の姿はどっちなんだろう、と思ってみとれていたりしたんだ。
ただ、僕が、、、高く飛ぶために黒い大蝙蝠の翼を広げたのが悪かったのか、龍の方の機嫌が悪くて唸ったんだ。すぐに戦いになったけれど、僕は少女の姿も気になるし、迷いっぱなしで防戦一方で、全くいい所なんてなかった。あっという間に滝壺に落とされちゃったんだ、ま、僕の着地が失敗したせいもあるけど」
「そうだったの、でも、認めてくれたんでしょ?
しっかりお札をくれたんだもの。日本で訪れなければならないところも教えてくれたわけだし。
着地を失敗したのは鳥の巣があって、それをライさんがよけようとしたからなんじゃない?」
「え?あ、あれ、色々筒抜けなんだね(笑)。叔父さんにもばれなかったというのに。
まぁ、そうなんだけどね。あの龍にもそれは伝わっていたのかな?
僕がちょっとためらったのが、判断ミスで。何かあると迷うのが、僕の悪い癖みたいなんだ。でも、たかが自分の体勢を整えるだけのことに、鳥の巣を壊すわけにいかないだろう?」
と、ちょっと困ったような表情で言った。
「とりあえず、ライさんに親近感は持っていたように見えたけれど」
「そう?僕にはそんな風に見えなかったけど、、、夏美がちょっと羨ましいな、」
「あのね、私ね、ライさんにはまだ言っていなかったことがあるの」