86 《劔を鍛えよ》 (19)
「さて、と。
夏美は、今までご先祖様にゆかりのある神社の名称を聞かされてたりはしていなかったのかな?
善蔵は、以前僕が話していた龍ヶ崎神社の宮司さん、善之助さんの孫にあたられる人なんだよ。
僕と知り合ってからはずっと僕と友達でいてくれて、そのままうちの一族の《協力者》という、特別な関係者になってくれていて、日本にいる時は、善蔵頼みなんだよ、僕は」
「いえいえ、こちらこそラインハルト様のご一族のおかげで、良質な自然素材の化粧品などを扱わせていただいております」
夏美は、うなづいた。
確かに、龍ヶ崎グループは、ホテル事業だけでなく、化粧品や宝石なども扱っていると聞いたことがある。
「夏美さまには、もう色々とお話になられておられるのでしょうか?」
「ああ、だけど僕と夏美は、ついつい話がごちゃまぜになるんだよ。
本当はもっとたくさんのことを系統立てて話しておけば良かったと思うけれどね。
まぁ、善蔵、安心して。
NGなことは何もないと思って、僕に遠慮せずに、夏美に話してあげて欲しいんだ。
夏美にも《協力者》となってもらうと頼んではあるから、大丈夫。ね、」
「はい。私たちは、一応お互いに《協力者》なんです、そういう約束をしました」
善蔵は嬉しそうに、タイミング良く顔を合わせた夏美とラインハルトを見やる。
「それはそれは。よろしゅうございました。
ラインハルト様のご一族には、色々と秘密があるので、どこからお話すれば良いのかと思っておりましたが」
「大丈夫、いざとなったら最終的には、僕が責任を取るからね。
それにこのAzuriteルームは、ある意味一族の《結界》の中なんだ。
だから善蔵は安心して、どこまででも話してくれて良いからね。例えば、」
とラインハルトが突然、いたずらっ子のような目をして
「夏美、ちょうど良かったよ。
善蔵と僕とは、実はほぼ同い年なんだ。僕の本当の年齢と姿がイメージ出来たかい?」
善蔵はあわてて手を振って、困ったような顔で苦笑した。
「いえいえ、突然に、何をおっしゃるのでしょう。
ラインハルト様は、相変わらずでございますね。
こんなおじいさんと一緒だなんておっしゃったら、夏美様ががっかりなさるかもしれませんのに」
夏美は笑った。
「いえ、それは大丈夫です。善蔵さまは善蔵さまで、ライさんはライさんだと思いますから。
それに善蔵さまは、素敵ですよ!
未だにシニアテニスでご活躍なさってるって私、知っていますもの。全然、おじいさんじゃないですし。それに、いい子ぶっているわけでもなんでもなくて、私、年齢とか外見とかの、自分の好みがわからないんです。とりあえず、話がしやすくて本の好きな人なら誰でも私、好きな人なのかもしれません。
ライさんもライさんで。たまに大人っぽく見えたり、子供っぽく思える時もありますし、、。
ライさんのことは、どう考えていいかまだ良くわからないんです。だって、昨夜、私にはライさんは、こう説明したんですよ。
『自分は冷凍たこ焼きみたいなもので、たまに解凍されたり、冷凍されたりの人間だ』って、...」
冷凍たこ焼きのくだりで、老紳士の善蔵が安心したかのように、ラインハルトに向けてまるで少年のように笑い声をたてて爆笑したので、夏美もつい笑ってしまった。
「本当に、あなたという方は、ちっともお変わりになってらっしゃらない、」
「そうかなぁ、寝てばかりいるみたいだけど、僕もかなり成長したんだよ、」
「もちろん、そうですとも。
ご立派になられたのは間違いありません。でも、会話しているとわかります。
以前よりももっと、そうですね、自由な若々しい感じがして、私も巻き込まれてあっという間に懐かしい頃に戻れるような気持ちです」
といったん言葉を切って、夏美に向きなおった。
「夏美さま、私も最初は、今の夏美さまのお気持ちに近かったと思います。
美津姫様のご縁で、祖父や私ともご縁が出来まして、ずいぶんと熱心にご一族の仲間になるように誘ってくださったことも感謝しています。優秀な者の多くがラインハルト様のおそばで働きたいと、ご一族に混ぜていただいたことも事実です。
その折に、ちゃんと説明には聞いたのですけれど、最初はまったく信じることが出来ていませんでした。
私は日本に残り、ただの《協力者》という立場を選びました。
私にはですね、昔は冷凍たこ焼きはなかったものですから、ネムリユスリカの話をしてくださいました」
「ああ、そうだったよね、楽しかったなぁ」
ラインハルトは、善蔵が向けてくる子供のようなまっすぐの尊敬のまなざしに照れたような笑みをかえす。
「あの、ネムリユスリカって何ですか?」
と、ついつい夏美が口をはさむ。
「ああ、そのお話はなさっていなかったですか?」
「いや、あれも面白い話だから、僕が手短に解説するよ、でも話が飛ぶなあ」
「ライさん、でも、私も聞きたいです。それに、話が飛ぶのは、いつものことじゃないですか?」
「うん(笑)。
よし、自分史上最高スピードで解説するよ。良くわからなかったら、後でスマホで検索して」
「便利な良い時代になりましたね」
「うん、以前は泣くようにして頭の中にたくさんの知識を叩きこまれたというのにね、でも僕なら検索結果より早く解説を終えるから(笑)。
夏美は、干からびて死んだようになっている虫が、水分を与えると水を吸収して、ドライフードのように戻る、つまり水でふやけて蘇生するってこと、信じるかい?」
「まさか、そんなことがあるんですか?」
「嘘じゃない、ちゃんと現実にあるんだよ」
「わかりました、虫を検索するのは嫌だから、信じます」
「ネムリユスリカの幼虫なんだけど、乾燥した状態で{眠り}続ける。ほぼ、生体反応がないような状態でね。
そして次の雨が降ると、吸水してあっという間に蘇生するんだ。 cryptobiosisって言うらしいんだよ。
ほとんど死体のような状態で乾季をやり過ごしているんだ。つまり、来るべき時に活躍するために、乾燥した死体で時を飛び越えることができるように、最初から特別にその機能が準備されている虫なんだよ」
「私も、とても興味を持ちました。不思議な夢か、魔法のような話です。でも、その虫の話も現実で、そしてラインハルト様の話も現実でした。
実は、私は最後の最後のぎりぎりまで悩みました。ただ長生きしたいというだけでなく、とても魅力的な話で、自分の身体を使って確かめたくも思いました。祖父や父よりも、西洋の神秘に憧れを持っていましたので。
その時にラインハルト様がおっしゃっていたのですが、まるでファンタジー世界と現実世界の狭間に生きている、と。その話にも興味を覚えたものですから、現実世界に残ったままで積極的にラインハルト様に関わりたいし、お手伝いが出来ればと思ったのです。そこで、日本にいてサポートをすることも大切かなと思い直しました。その立場に立つ人間は少ないですからね。
それに、その頃私は一人の女性に恋をし始めていました。日本で彼女と普通に年を取っていきたい、一緒の墓に入りたいと思いましたのでね、...妻のことですが」
善蔵は、少し微笑んだ。
「素敵なお話ですね。
でも、そんな不思議な虫が本当に存在しているのね、初めて聞いたわ。
もしかして、常識ですか?...だったら、私、ちょっとお恥ずかしいです」
「いえいえ、興味のないことはわざわざ調べたり、図書館でそのような本を手に取らないでしょう、虫がお嫌いなら、なおのこと。
それだけのことですよ」
「ありがとうございます。
本当に、私には、知らないことがまだまだたくさんあるんですね」
「それは、僕もだし、善蔵だって、そうだよね?
いや、まだ、人間はまだ全部見終わっていないし、まだ解説が回ってきていないこともたくさんあると思わなくてはいけないよ。きっと、まだ出会えていない生き物とか、不思議なことが、ね。
知らないことは、別に恥ずかしいことじゃない。
ただね、良くいるでしょう?
『自分の知らないことは、存在していないことと同じようなもんだ。
だから存在を信じない!
話も聞きたくもない』みたいな頑固な人。
それがもしも権力者だとすると、本当に始末に負えないよね。
だって、その権力者が判断する時に、不足している要素があるのに見ない可能性が高いんだ。自分の状況把握が素晴らしいと思い込んだまま、突き進んでいくんだよ。本人は気持ちが良いだろうが、たまったもんじゃないよね?
そういう人間が自分で学んで自分で反省してくれる可能性が残っていることを期待するしかない」
「本当に、そうですね。
ああ、だからソクラテスが『無知の知』って最初に言ったんですね」
ラインハルトが目を輝かせた。
「すごいね!、夏美、その通りだよ。
夏美は、ソクラテスのことを学んでいるのかい?
僕はそういう話が大好物なんだ、」
夏美は慌てて、手を振って遮った。
「あ、いえいえ、ちょうど今、頭の隅をちょっとよぎっただけです。浅い知識なんです。
先日、弟の教科書がリビングに置いたままにしてあって、ただ懐かしくて手に取ったんです。
だいたい教科書で最初に出てくるので、その言葉が印象深いというか」
「日本の学校では、ソクラテスの哲学を学ぶんだね♪、日本はすごいな、博物館も素晴らしかったし。
ああ、僕はきちんと学校に行ったことがないから、本当に羨ましいな」
ラインハルトが、目を輝かせている、まるで子供のようだ。
「ええと...」
善蔵が、にこにこして制止する。
「ラインハルト様、いよいよ、話がさらに脱線し始めましたよ」
「ああ、ごめんごめん。
夏美に大切な選択をしてもらうために、なるべくたくさんの情報を夏美に渡そうと思って、わざわざ夏美にも善蔵にもこのAzuriteルームに来てもらったというのにね、」
夏美はうなづいた。
「そうね、大事な選択なら、本当に色々知って、色々理解をしないといけないわね。
『無知の知』って、{私は、自分が知らないということを知っている}ってことでしょう。
それで、許されない場合もあるわよね?
わかったつもりでいて、間違った選択をしたら、と思うととても怖くなるわ。
だって、逆から考えると、{私は、自分が知っていると思い込んでいて、知らなかったという現象そのものを知らなかった}、みたいな」
「うん、それはある。僕も、全部説明するって言っておいて、知らないこと、わからないことはまだあるような気がしてる。
だから一応全部、わかっていることは説明するつもり。としか言えないな、厳密に考えればね。
僕もしょっちゅう、間違えるし、間違えるのは怖い。だから夏美の気持ちもわかる。
だが、ここでとりあえず、現段階でわかっていることをベースにして、推論をしたりしてみたい。夏美の選択した答えを聞きたいんだ」
夏美の顔は曇る。
「もしも今日は、まだ何も選べないわ、ということになったら?
私、迷いすぎて結論をだせないかも」
「それは、もちろんありだと思う」
「そうなの?」
と、夏美は少しほっとした。
「うん、カード理論の時も、保留ありだっただろう?
慎重に考えるためには、保留も迷いも大切だと思う。
でも、せめて仮の結論というか、筋道はつけたい。
夏美もこのまま、この状態がずっと続くと思う?」
夏美は、息を吐いた。
「そうね、私も何か不思議な夢を見ているだけじゃなくなってきたの。私、今まで私が夢を見ていると思っていたのに、たまに誰かが私の中で夢を見ている気がするのよ。私自身が見ていないこともある、私の夢」
「ん?」
ラインハルトが聞き返してくるので、夏美はあせった。
「うまく言えないわね。
つまり、夢を見たと思っているのに全く再現できない夢があったりするの。なんとなく夢を見てたってことだけがわかっているのに、内容がさっぱりな時ってない?
それからね、空を飛んでいるような夢を見ていたな、って覚えていたりしても。
起きると、そうね、その空を飛んでいる主人公が自分だったような気がしない、みたいな感じなの。
ほら、古い話を誰かにしてもらって、その映像を見ていたり想像したりしているような。
他に、勇者の視点と蠅の視点がほぼ同時に存在していたみたいに、私が誰かと一緒に私の中で夢を見ているような気がする時があるの。
不思議ね、誰かの記憶が一緒にあるみたいな、ええ、昨日の話に戻っちゃうわね。堂々めぐりでごめんなさい。
答えを知りたいって焦る気持ちの方が本音だし、ライさんに手伝ってもらって、確かに筋道はつけたい。でも、取り返しのつかないことを決めるのは、ちょっと」
「うん、わかる。だから、無理強いはしたくない。
ただ、それでも僕は。正直に言わせてもらう。
これは夏美のご一族には関係ない理由で、僕の都合で、一つの答えは出してもらいたいと思っている。僕が次のところに行くためにも、必要なことなのでね。
そう、夏美にお願いしたいのは、以前も少し言ったけれども。
僕は、僕たちの一族は、東洋の力をお貸し願いたいと青龍王さまにお願いした経緯があってね。
それで白蛇竜の縁者の方たちの問題を片づけたら、という条件でお札を頂いていたんだ。
もしも、夏美のご一族が宝を全部返してしまうのだったら、それをお手伝いして、そのまま譲り受けたいと思っているんだ。元の権利者としてね、それを承諾するか拒絶するかを選択してもらいたいんだ。異論があってごたごたが起きたら、たぶん、龍神様の宝はもう使わせていただけないだろうから。
でも、僕ばかりが夏美に状況説明をしていると、言いくるめているみたいになってしまったら困るから。僕は僕でどうしても、自分たち側の利益を考えなくてはいけないし、正々堂々と振る舞いたいし、の板挟みなんだ。
それで調整役兼見届け人として、善蔵に来てもらった。最大限、夏美のサポートをしてもらいたいと思ってね」
「はい、わかりました。
私もね、ライさんが何かをしなくてはいけないと決意していて、役立ちたいと思った以上、私の決断が遅くて足を引っ張りたくはない気持ちがあるわ。それと、、、、。
ライさんが公平な立場を守ろうとしてくれるのは、とてもありがたいと思います」
ラインハルトが笑顔を見せる。
「じゃ、今から僕がプレゼンするから、良く聞いて欲しい。もちろん、途中で質問も受け付けるから、いつでも手を挙げて」
「普通に、ビジネスランチみたいね、」
「うん、ファンタジー成分ゼロだね、」
「私はサポート役ですから、なるべくラインハルト様にお話していただきましょう。どうしても訂正せねばならない時は、遠慮は致しませんが、ご指名のあった時だけ発言することに致します」
「ありがとう、善蔵。補足説明を頼む時は、ちゃんと言うから。
あと、夏美のためにも、とにかく龍ヶ崎家の末裔として、夏美が損をしないように心を配ってほしい。
じゃ、まずは夏美のご一族の望みの確認を一緒にしてみることにするね」
「はい、」
「龍ヶ崎神社はもう無くなってしまっていることは事実で、今は小さな祠だけになっているんだ。
それから、夏美のご一族は、長らく龍神様の宝を全部お返ししたいというご希望でおられた。
以前、そう善之助様には聞いていたのだけれど、そういう認識で合っているのだろうか、他に何か言い伝えはない?」
夏美は一瞬考えたが、やはりわからなかった。
「ごめんなさい、良くわからないわ、
あのね、とてもがっかりさせてしまうかもしれないけれど、私の母もほとんど知らされていなかったみたいなの。神社のことは全く馴染みがなくて、以前ライさんに話を聞いただけ、の気がするわ。奈良のご本家のことも、私は全然知らないの。今は、親戚と言っても、そんなに交流しないのかなと思っていたの。
ご本家に行った時もね、私はまだ幼くて、そこで不思議な言葉も聞いたのだけど、その話はあとでしますね、話が飛びそうだし」
「うん、よろしく。
まずは、やはり善蔵が知っている神社のことを話してくれた方がいいのかもね。
夏美は、そもそも最初のことからきちんと聞きたいだろう」
「はい、神社のこととか何も知らないんですもの。ぜひ、お聞きしたいです」
善蔵は、うなづいた。
「はい、かしこまりました。夏美さまのお役に立ちたいので、私の知っていることをお話いたしましょう。ただ、私もさすがに奈良のご本家のことまでもをすべてわかっているわけではないのですが、まずはN県の龍ヶ崎神社の話をすることにいたしましょう」
善蔵は、紅茶のカップをソーサーに戻すと、居ずまいを正した。