82 《劔を鍛えよ》 (15)
なんだかずいぶんと後ろが静まりかえっているご様子だが、お二人共に寝てしまわれたのだろうか?
小さくラジオをかけながらリラックスして運転していた山本は、到着まで一度も声をかけられないことを珍しいなと思った。
秘密の打ち合わせをすることは多々あるものの、いつもはそれが終わると仕切り窓を開けて、どちらからともなく労いの言葉などをかけてくるのが、ラインハルトとマルセルなのである。立場が下の者に対しても、品の良い振る舞いをつねに心掛けているのだろうと思う。
いや、しかし今日は特別な日だったのだから。
ラインハルト様の恋人がご訪問するということで、皆が一日中落ち着かなかったのだ。そろそろご婚約かという段階のようだし、さぞやお疲れになられていたのだろうなと山本は能天気に考えていた。
すでに車寄せには、きちんと執事の姫野が立って待ち構えていた。夜半をとっくに過ぎていたが、服装の乱れは一つもない。
「いつもながら、さすが真面目なお方だな」
と、つい山本は呟く。
正面の門から入ると同時に執事室にランプがつくのだが、やはりいつでも応じようとつとめて待機しているのだろう。マルセルを乗せて慌てて出発した際には、何か言いたげな心配顔ではあったものの、今は平静さを保っているような美しい立ち姿だった。
山本が降りて「到着いたしました」と後部座席のドアを開けて支えると、ゆらりとマルセルがラインハルトを抱いたまま車から降りてきた。小声で礼を言ってくれたので、小声で応じる。
目がほとんど見えないからと言ってつねにサングラスをしているのに、そのハンデを感じさせないどころか、稀に怖ろしいほどの頑強さを感じさせるところが、この方にはある。
いつもきれいに足を運ぶのも不思議でならなかったのだが、ある程度の身長と体重を持っているはずの若者を抱いたまま、音もたてずに車から降りたのには驚いた。
主人であるラインハルトは良く眠っているのか、長い手足がだらりと力なく垂れている。
いくら細身な若い主人とは言え、その重さをまったく感じさせないかのような、マルセルの腕の強さに感心してしまい、一瞬遅れた。
「お疲れ様です、マルセル様。後はわたくしが、」
と慌てて小声で手を差し出したが、マルセルは淡々と
「いや、良い。マスターは私が運ぼう、」
とだけ言った。
近づいてきた姫野が
「マルセル様、お手数をおかけして申し訳ありません、ラインハルト様のお世話はわたくしが、・・・・。
ああ、山本、こちらはいい。小野田と共に夜中までご苦労でしたね。
車を車庫に入れて、もう下がって休んでいいから」
と言ったが、その隙にマルセルはラインハルトをそのまま抱いて、平然と中へ入っていってしまう。
「は、はい」
山本は、運転席に戻ると、二人に軽く会釈をして、その場を離れた。
なんだか空気がピリリとしたようだが、ここは自分が立ち入るべきではないと知っている。
場を離れてしまうと、つい笑みがこぼれそうになる。
もう、あのお二人ときたら。完璧な立ち居振る舞いをしていても、気持ちが透けて見えそうだよ。
ラインハルト様をお好きなんだろうな。まるで傍から見ると、お世話を争って、取り合いをしているように感じてくるよ・・・
山本は、笑みを噛み殺した。あのまま修羅場になったら困るから逃げておくのが正解だ。
マルセル様は、本国ではあえて従者という立場におられたが、ずっとラインハルト様の家庭教師の集団のトップに立たれておられたとかいう。
姫野さんも、まぁマルセル様には一目置かれているようだから。色々とやりにくいのかもしれないな。
玄関内では、仏頂面のままのマルセルはいよいよ、姫野に背を向けて歩き出していた。姫野は、美しい眉をひそめてその後を追う。無人の廊下を両名が無言で歩いているように見える。実際のところは、心話をつかって言い合いになっていたのだが。
《ラインハルト様に何をなさったんです?》
《さぁ、何も。まだ始まってすらいなかった。
それよりもお前は、今までどうして何もしなかったんだ?》
《は? 私はずっと心を込めてお世話を...》
《お前は、やはり優し過ぎるのかもしれぬな。いざという時は甘えた考えを捨てなければ、》
姫野はムッとした。
《お返しください、わたくしの大切な主人でもあるのだぞ、
いったい何をした!さすがに見過ごせないぞ!》
《ふんっ!
あまりにおいたが過ぎたので、お仕置きをね、私は、まだマスターの師でもあるのでね》
《!...》
歪んでも美しい姫野の顔が、さらに険しくなった。日本人青年にメタモルフォーゼしているはずなのに、それが解けそうになっている。
《メフィスト、いや失礼、お前は姫野だったな、怒ってもその程度なのか?》
と、マルセルは全く躊躇も恐れもしない。
四肢をだらりと垂らしたままのラインハルトの顔は、青白く見える。
まるでマルセルが、若き主人の死体を抱いているように見えるのだが、メフィストとしての感覚は、ラインハルトが生きていることだけは伝わってきていた。だが、つい姫野として声を張ってしまう。
「マルセル様、わたくしがお世話をすると申し上げているのですから!」
小さなくすくす笑いが聞こえた。混乱中の姫野は心話で呼びかける。
《ラインハルト様、...大丈夫ですか?》
《...メフィ、大丈夫。いいんだ、よ、マルセルと話があるんだ。僕はただ疲れているだけだから、お前は、もうお休み》
微かに笑みを含んだような、ラインハルトの声が聞こえて、姫野はほっとして
《でも、あの、ずるいです、わたくしがお姫様抱っこをする役ですのに...》
と言ってしまった。
マルセルはあくまでも不機嫌な様子で叱りつけるように
《マスターは、お疲れなのだ、お前はしばらく独り占めしていたはずだろう、今日は譲れ》
と言ったので、とりあえず姫野は引き下がった。
《御用があれば、すぐにお呼びくださいませ》
そう両者に呼びかけつつも、姫野はマルセルの背中をじっと見つめ、考えている。
♣♣♣♣♣
「...で、これで...大丈夫ですか?
まったく・・・。なんでそんな、大切なものを忘れていくんですか。
久しぶりに正面からお説教をしようとした途端に、先に倒れられてはこちらが困ります」
と、プルーンエキスの凝縮されたカプセルと、どろりとした液体入りの哺乳瓶を渡し、マルセルはまだ不機嫌な顔で唸るように言った。
ラインハルトが自分で作った魔法薬だと説明したが、匂いはまだしも、その不気味な色の液体は、自分なら飲みたくないくらいの代物だった。
「ありがとう、...うっかりマルセルに殺されるところだった(笑)」
赤子のように哺乳瓶にむしゃぶりついている主人を正視したら、心配を通り越して笑いそうになる。だが、これもまた小賢しい小細工のような気持ちがしてきているので、マルセルは余計仏頂面になったままだ。
「馬鹿な。誰が本気で殺しますか。あえて挑発してきたのかと、つきあってみただけですよ。
しかし、自分で計画変更しておきながら、自分を危うい目に遭わせるとは。
生命力まで魔力に変えてしまったあげく、あそこで死んでたら、私はいったい、本国でなんて報告するんですか。
最後の言葉が『哺乳瓶、忘れてきた、』では、あんまりです。
お葬式をやろうにも、コメディモードですよ?
笑いをこらえるのが大変で、どれだけ最後まで迷惑をかけるのかと、皆に恨まれますからね、」
自分でも想像すると笑えるようで、ラインハルトはむせそうになっている。
「...ごめん、僕も慌てた。しかも、もう魔力が尽きてたし、マルセルが回復魔法をかけてくれなかったら、カプセル1個だけじゃ本当にヤバかったかも。
今からでも、僕のこの状態で良かったら、まじめにお説教を聞くよ。それとも全回復したら、思いっきり攻撃魔法をかけてくれてもいいよ? 小さい頃はほぼ毎日先生たちに体罰されてたよね」
マルセルは、ため息をついた。
「怒られるようなことをわざわざして回るからでしょう。
里帰りの時に久しぶりにお会いして、しかもかなり大活躍をしてくださってましたよね。
だいぶ成長なされてみえて、私は安心してましたよ。
...すっかり騙されてました。
立派な好青年になって、ほれぼれするくらいでしたが、」
とマルセルは一度言葉を切った。
が、ふと自分を嬉しそうに見上げているラインハルトの、その口元の哺乳瓶までつい眺めてしまい、マルセルは、思わず咳ばらいをした。
「...。(ごほん。)
情けなくて、馬鹿々々しくて、今さらあなたを手にかける気にもなれません。
逆にそれが、ラインハルト様の作戦で狙いだったのかもしれませんね」
「...。
メフィにも笑われるか、そのまま魂を喰われてしまうところだったな。無茶なフォローをさせてしまっていたみたいで、ごめん」
「水臭いくらい、あなたは一人で気を張っている時の方が、今まで多かったのに。準備でも失敗などありえませんでしたのに。
今さら、赤ちゃん返りですか?
もうずいぶん成長なさっているはずでしょう?
とにかく、外見は立派な青年なんですからね、それに合わせていただかないと」
「あのさ、セミのように地中で寝ているだけみたいな人生で。
きちんと活動している時間を足し合わせてみても、正味17歳くらいかもって、冷凍たこ焼き技師の人が言っていたんだよ?そういうデータもちゃんと取ってくれているらしい」
「...棺桶とか、冷凍たこ焼きとか言っていると、今にばちが当たりますからね、」
「ああ、でも本当に馬鹿だったよ。時間オーバーの時は、夏美の前で哺乳瓶を慌ててくわえなければならないから、嫌だな~ってちょっと思っていたのが、まずかったのかな?
『恋をすると、他のスペックが低下する』ってフィリップが言っていたけど、もしかしてマルセルも?」
「ノーコメントです。
話をすりかえないでください。大事なことですからね、
本気で惚れて、のぼせあがって失敗ばかりするほど、夏美様は大切なお方なのでしょう?
一族の秘密を打ち明けたあげく、そんな相手を簡単に結界の外に出してはならないという決まりを破っては困りますね。あなたは自分のせいだからいいでしょうが。
その方が、あなたと共に死罪になるような真似をなさっていいと思いましたか、」
「うん、ごめん...でも、一応言っておくと、今、夏美は、結界の外にいるわけじゃない」
「...やはり...そうですか、呆れましたね、おかげで私の”見透かし”が不調だったわけだ、」
「うん、夏美の周囲に見えない結界を張ってみた。あと、家もね、全体的に、それから、」
マルセルは一瞬、押し黙った。それから、もう何度目か忘れたくらいだが、またため息をついた。
「今、確かめました。
警備の者たちは、強力なシールドが張ってあるみたいで困惑していたらしいです。どんなにしても、剥がすのは無理だから、遠巻きにして警備を続けているようです」
「うん、破ったり、剥がしたりするのは無理だと思うな♪
自分でも上出来だと思うんだ♪」
と言った顔は、ふだんの表情、顔色に戻ってきている。
「いったいどの範囲まで、どんな無駄な魔法を使ったんですか?」
「無駄?無駄じゃないよ。
マルセルも今、言っていたじゃないか。
とにかく一族の掟で、僕と夏美が裁かれない程度のことを想定して、全部やっておいたよ。うろうろしていても、結界がびよ~~んと範囲が広がっていればいいわけでしょ?
法律には立法趣旨というものがあるそうだから、掟の定められた趣旨の解釈によって裁かれるか否かのぎりぎりのところまで、ちゃんと考慮したつもりだよ?」
「どうして、それで自分の魔力をぎりぎりいっぱい使ってしまえるんですか?!」
「ふふふ、最後の方は、あれだね、テンション上がり過ぎていたんだ。
お酒を飲んでいる人の、酔っ払っている感じ?
ユールにようやく成人と認められるから、リアルにお酒を飲むのが楽しみだよ」
「あなたは一生、哺乳瓶をくわえているのが似合うかもしれないですね、」
ようやく全部飲み切って、ラインハルトが笑顔を浮かべた。
「ふう、チャージ完了。
そうだろう?、似合うだろう?
こういう哺乳瓶の使い方は便利だよと、皆にプレゼンしているんだけどね。
誰も商品化に協力してくれないんだ」
皮肉が通じていないはずはないのだが、とマルセルは思う。
そしてまた、ため息をついた。
「大切なところに差し掛かっているのですよ、耳の痛い話もしなくてはなりません。
いっそ、テオドール様に戻りたいとご表明なされますか?
よほどストレスが溜まっておられるようですから。
資格もない者がふざけ半分にやって良いことなど、一つもありません」