81 《劔を鍛えよ》 (14)
別れ際の、ラインハルトの蒼い瞳は本当にきれいに思えた。
少し思い詰めたような疲れた表情を隠すかのように、つとめて笑顔にして夏美の瞳をのぞきこんでいたようだった。
その印象のせいで夏美は、なにか後ろ髪を引かれるような思いがしている。少し、不安なのだ。
いっそ勧められた招待を素直に受け取り、あの館に泊まってライさんのそばにいた方が良かったかもしれないと思ってしまったほどだ。でも、自分でも帰宅を望んでいたわけだし、ライさんがもしも何か無理をしていたとしても、たぶん自分のために良いことだと判断して、わざわざ家まで送り届けてくれたのだろう。それを信じよう。
それに。たぶん、大丈夫。
いきなり、いなくなったりしないと約束してくれたのだから。
どうしてもライさんのことを知りたくて、我慢できなくて、問い詰めるようなことをしてしまったけど、拒絶されたりしなかったのが嬉しかった...。私のテンションが変に乱高下しても、怒らずに付き合ってくれたライさん。
自分を信じてくれた上での、ちょっと信じがたい打ち明け話。
そんなことがあるのだろうかと思う反面、あの浮世離れしているライさんと周囲の人たちなら、なんかありえそうだと、納得してしまっている自分がいる。
ライさんは気にしてたけど、私は本当に気味が悪いと思わなかった...。
逆に初めて会った時に受けた、あの嫌な感じ、悪い印象を受けたことをすっかり忘れてしまっていたなと懐かしく思ったくらいだ。
そうだ、あの時の私、どうしてあんなにトゲトゲした態度を取っていたのだろう?
ライさんが宝珠を初めて見せてくれた時も、そうだ。
ほとんど唸るような声をあげて飛びかかってしまっていた。あの敵意に近い衝動みたいなものは何だったのだろう?
そう、今にして思えば、あの時の自分なんて、気味が悪いなんていう程度の生易しいものではなかった。何かに突き動かされて、いきなり化け物になりそうな感じだったのだ。そう、何かの要素が足りないから、力が抑えられていただけで、もしも条件が揃いさえすれば・・・私は。
え?...?
今、何か変な考えが私の頭を通り過ぎていったみたいな感じ。
何かが足りないわけでなかったら、私、どうするつもりだったの?
そうだ、無理やりにでも宝珠を奪おう、じゃない、取り返そうとしていたのだ。
あの時に、ライさんが本来の持ち主ではないと私はどうして知っていたのだろう?
あやしい感じがする。
私にも、何か秘密がある。
自分自身ですら、まだ良く理解できていないことが、確かにあるのだ。
思い出せていない何かが、ある。
そしてやはり、いつかどこかで私はライさんを見ている、そういう気がするのだ。
ちゃんと会ったのかどうかが良くわからないけれど。
ライさんに似た子供が塔の中のらせん階段を登っているのを見た、あの感じ。
過去の私だったというつもりなのか、自分の中に刻まれた記憶か元型のせいなのか、何かが深い水の底から浮かんできて、夢として形を取ろうと顕在化してきているような、漠然とした不安。
『もしかして僕たちが対立するとしたら、正々堂々とやりあおう』
私たち、本当は対立したりするのだろうか?
まさか、過去に対立して戦っていたとか、そんなことないよね?
ううん、いっそ未来に戦う予定があるよりいいか、既に終わってしまっていたのなら、もう戦わなくても済むかもしれないのだから。
ライさんに似た騎士をとても大きな龍になったまま、はたき落とした夢は?
夢だよね?
『竜殺し』から逃げなくてはいけないっていう、あれはいったい何だったんだろう?
ふたりの間に何か不思議な絆みたいなものが出来つつあって、
それが嬉しい反面、それはあまりに細い絆で、
そして、どこかで自分たちは同質ではないのだ、
やはり相いれない異質なものを抱えているのだ、
そういうことを確定的に私は感じていて、もどかしくて不安なのだ。
でも、なんとなく自分だけでなく、ライさんも不安そうな表情を浮かべていたことが、ちょっとほっこりする。
ライさんも、コンプレックスなんてあったのね。
ちょっと親近感が増したよね、ねぇ、ソフィー。
・・・泣いちゃいそうだよ、理由なんてないのに。
明日、azuriteルームで、会えるというのに。
もしも、ライさんが、そして私が大切な選択を間違えたとしたら...?
いやもう、変なことをかんがえるのはやめよう。
宝珠さん、お札さん、ライさんを守って。お願い。
♣♣♣♣♣
母から愛用のタロット本を借りてきたので、夏美はそれを抱えて自室のベッドに寝転がった。
さっきまでのドキドキが嘘のように静まっている。母と日常の平凡な会話を交わしたことで、ふだんの気持ちに一瞬で戻れた。
自分がこういう単純な性格をしていて、本当に良かったかもしれない。
『THE STAR(星)』というカードは、目次で確かめてみると確かに17枚目のカードであった。ローマ数字の{XVⅡ}がカードの上についている。
先ほど車の中で、2人で『THE STAR(星)』というカードについて話していた時に、ライさんが『17条の憲法』の話を持ち出したのだ。
「数字が一緒だよね、その符合に気づいていた?だから、聖徳太子の言葉が夢の中で出てきたんだって僕は考えたんだ、」
と得意そうに言っていたのだ。
ライさんの一族は、特に《東洋と西洋の良い所を混ぜ合わせて平和を目指す》という家訓を大切にしているらしいので、その関連性、同質性が親和感を高めてくれるよね、と笑顔で解説をしてくれていた。
そういえば、ライさんは今夜いったい、何をしたかったのだろう?
無理やり私を館に連れていったのは、もともとライさんだったのに。
私の意識まで操って。
ライさんを支えている人も、一生懸命に自分を引き止めにかかっていた。
そうよ、もしかしたら、怖いおとぎ話のように、この館から出られないのかしら?ともちょっと思ったけど。でも、顔なじみになった今、マルセルさんや姫野さんが悪い人には思えなかった。
私が、ライさんの婚約者とか花嫁になることで、何か意味があるのかしら?
本気で私をライさんの生贄みたいにする気だったとか?
『魔法使いの力、パワーアップ!!』
みたいな?(笑)
じゃじゃ馬のパワーが、そんなに欲しかったのかしら。
ファンタジーRPGだと、そんなところなのかな?
本のだいたいのところに指をおき、当てずっぽうにエイ!と本を開いてみると、17番目の箇所ではなく、その隣の『THE TOWER(塔)』という16番目のカードをうっかりと見てしまい、いやな胸騒ぎをしつつ、17番目の『THE STAR(星)』まで慌ててページをめくった。
素人のうろ覚えだが、『THE TOWER(塔)』が全てのタロットカードの中で、一番悪い意味の大凶を示すカードだということは覚えている。
バベルの塔の場面をモチーフにしたとも言われる、塔から2人の聖職者が転落している絵柄。
絶望や、災厄を表しているのだと思う。
タロットカードの構成としては、そのすぐ後の17枚目に希望を象徴する『THE STAR(星)』のカードが続くことになっている。
『星』のカードの女神さまは、絶望を払うためにお仕事をしているのかもしれないわね。
母による細い字の書き込みがある。愛読者によるオリジナルの追加の説明が読めるのは、ただの新刊本にはない醍醐味だ。
~~ 女神さまが、闇夜に湖に降りてきて、生命の水を大地と湖に注ぎます。すると、満天の星が照らします。星は遠いのですが、かつての旅人たちは、星を目指せば迷うことなく目的地にたどりついたことから、このカードは{希望}という意味を持ちます。 ~~
ああ、そういう絵柄だわ、片膝をついて生命の水を果てしなく永遠に大地と湖に注ぎ続ける女神さまは、闇夜に黎明をもたらす存在。
それから、その脇に小さく、~~ 14と17の呼応について ~~ という走り書きメモを発見した。
14番目のカードとのことに違いない。これは母も自分も大好きなカードなので、すぐわかる。
『TEMPERANCE(節制)』だ。
そういえば、ライさんも『THE STAR(星)』と対のような関係がある、と言っていた。これは、何かの意味があるのね?
そちらもついでに見ておくことにして、14番目のカードまで遡ってページをめくる。
だって私は、あの夢を見ていた時に、星のカードに出てくる女神さまには会えなかったけれど、節制の天使さまから17条憲法の中に出てくる『鐶の端っこが無い話』をしてもらっていたのだから。
『XⅣ TEMPERANCE(節制)』のページにも母の書き込みがあった。
~~ 大天使ミカエルが、湖でふたつの壺の間に水を行き来させながら、見定めています。生命の水を見てコントロールしているというモチーフの絵です。このカードのテーマは、{物事を一定の状態に保つ}ということです。 ~~
ライさんが僕を象徴するカードだと言って自慢していたのを思い出した。ライさんには、全然似ていないと思うのだけれど(笑)。でも、13枚目の『死神』と15枚目の『悪魔』の間にあるカードだから、とても力のある大天使さまでないと、務まらないカードなのかもしれないわね。
ついつい、本文よりも母の書き込みを探す。
~~ {ちょっとづつお互いの心が通じ合う}、{バランスが取れた良い関係}という意味。 ~~
誰かに恋占いをしてあげていた時の書き込みかしらね、と夏美は微笑ましく思った。それから、ついライさんを思い浮かべている自分に気がついて、独りで少し赤くなった。
なんだか結局、すべてライさんに繋げていってない?、私。
いけない、本来の目的に戻らなくては・・・。《呼応するところは、何?》ってことよ。
どうして、『XⅣ TEMPERANCE(節制)』と『XVⅡ THE STAR(星)』を呼応したペアみたいなカードだなんて言えるのかしら?
その2つのカードを見比べても、すぐに呼応している点には、気づけなかった。
大天使ミカエルさまは、簡素な白い衣装をまとっているが、『光乙女』さまは裸だ。いくら、しがらみのない精神性を表すというにしても、絵の中で永遠に裸なんて、罰ゲームみたい。
そうね、やはり、おふたりとも両手にひとつづつ{生命の水}の入った杯、壺を持っているところがそっくりなのと・・・。
あ、わかった!
顔と体の向きが違うけれど、おふたりとも足の立っている位置が似通っている、同じ表現のやり方で描かれているのだ。
右足は水の中。左足は土の上。本当にお揃いなのだ。
ただ、手の動きは全く違っている。
大天使ミカエルさまは、生命の水を見改めているだけで、どちらかというと{水をこぼさない}ようにしているのに対して、『光乙女』さまは右の壺の水は、湖の中、左の壺の水は大地の上に、どんどん注ぎ込むことを続けているようだ。やはり永遠に?
飽くこともなく、サボることもなく、ずっと・・・?
きっと、この足の立ち位置が呼応している描き方には何か意味があるのだと思うけど、全く解らないわ。
そういえばタロットカードの小アルカナカードはトランプの元となった4元素をモチーフにしていて、『水』や『土』にも、象徴する意味を配しているのだった。
自分の双子座は、『風』であり、剣だと覚えてはいるけれど、他は、いったいなんの象徴なんだったっけ?
たしか、4元素の意味、象徴をまとめたページもあったのよね?
そう思いながらも、もう眠くて手からぶ厚い本がずり落ちそうにする。『星』のページを再度眺めて、もう寝てしまおう。
目の端に『光乙女』さまに関する記述が浮かび上がる。
『光乙女』さまは、女神の化身と書かれているけど、お名前は・・・?
正義の女神アストレイアさま・・・ああ、そうだったんだ。
聞いたことがある。アストレイアさまは、ギリシャでは別の名で呼ばれていた。
正義の女神ディケーさま。女神テーミスさまの娘。だったよね?...本には書いていないけれど。
『水』はご自身の愛情、感情・・・。
女神さまは{希望}を無くすことなく、今なお注ぎ込んでいるのだと書いてある。
最後まで人間を心配して、この世界にとどまろうとした女神様。
夏美は、ほぼ眠りかかりながらも、必死で記憶を呼び起こそうとした。
そうだ、私は知っている。あの女神さまはずっと人間を愛し続けておられるのだ。
そして、今もなお・・・水を・・・。
水の中だけでなく、なぜ土の上にも水を注ぐのかと言えば、...。
ああ、そうだ、その答えを自分はなぜか良く知っているみたいだ。
『土』が何を象徴しているのか知らぬままに。
『お願い、私の代わりに 私の祈りを果たして』
滑り落ちそうな本をきちんと閉じたかどうかよくわからないまま、夏美は深い眠りに落ちていく。
♣♣♣♣♣
気がつけばまた、空を飛んでいた。
少しふらついたのは、食べていなかったせいでもある。
女神さまと何かを約束した龍は、ずっと飛んでいた。
食べなくては。食べて、食べた分だけ役に立たねば。
たくさんの人が争い、たくさんの人、馬、様々な生き物が無駄に命を落とした。
自分がふだん食べるよりも、もっともっと多くの数であった。
幼い頃に、生き物を殺して生き続ける自分の業を、龍は悲しんだ。
湖の藻を食べたり、淵に生えている草を食べてみたものの、全くエネルギーには足らず、しかもそれらもまた、生きているものだと教えられた。
死ぬ時に辛がって悲鳴をあげる生き物なのかどうかの違いくらいしかないと聞いた。
地の果てまで探してみたけれど、命を持たないものを食べて自分の命を保つことはできなかった。
そして役目を果たすためにも、自分の命を絶つことなどは出来なかった。禁忌なのである。
他者の命を奪い、自分の命を繋ぎ続けていくしかない。
『役に立つように努めればいいのよ。生命は、繋がっていくのよ、それが定め』
定めと言われても、その定めを受け入れがたい気持ちがあった。
誰かが死んで会えなくなることも辛くてならないのに、自分は当たり前のように、自分の命を保つために、日々他の生物の命を奪っていくのだ。
この定め、この業から逃れられないなんていやだ、自分は完璧な、良いものになりたかった。
いや、その定め、業を背負っていることに気づく前は、紛れもなく自分は良いものだ、正当な、正義のものという自負があったのに、それは全く真実、真理などではなかったのかもしれない。
『私の助けになってくれたら、嬉しいわ。お願いよ』
必ず、とお誓いしたはずだった。
正義の女神様のお役に立てるのならば、自分は紛れもなく正当性を持つものだ。
自らの尾に隠されている正義の劔を・・・伝説の勇者と共に。
そして、今度こそ神の御心にかなう、この地の平和をもたらすことが出来たなら。
自分が、自分こそが重要な役割を果たすのならば、自分のために命を落としていったものたちに少しでも報いることができるかもしれない。
ギリシャの神さまたちよりもっと古い時代の伝説があった。
光のかけらの異名を持つ勇者があらわれて、この世界を救うとあった。
どこにその者は現れるというのか、探し疲れると龍は、湖に潜って身を休めた。
始まりは終わり、終わりは始まり、天使様が言ったのかもしれない。
『運命の輪』は、円環で継ぎ目や端などなかった。
『運命の輪』は、果てしなく螺旋を描き、輪廻だった。
龍は老いても死ぬことはなく、幼体の水蛇に戻った。
天使様の訪れる湖で、光乙女の訪れる湖で
くるくると水をかきまぜ、風を喚んでは飛ぶのだった。
ああ、その光景を湖の底の煌めく鏡の中に見ていたのだ。
あの塔の中に、光と闇を両方まとう者がいる、
影を持つからこそ、さらに光が際立つのかもしれない。
確かに美しい光がかけらになって煌めくのだ。
その者はまだ幼くて力が足らずに、塔の中を真っ逆さまに落下していく。
いつもそうだ。何度も何度も。手を伸ばしても届かない。
いつも、真理に近づけないもどかしさ。
果てしなく螺旋を描く、輪廻の運命の渦の中に
AはすぐにZへと続く・・・守られていない者(Azimech)が!
龍は自分が叫んだのかもしれないと思う、
相反する二律の制御を保つ大天使の加護を
龍の言葉を解する者がかろうじて書き留めたという。
祈りの言葉、祈りの詩。時は立ち、詩は朽ち果てて忘れ去られた。
伝えられた古語は、わずかであった。
Azurite(天上の青)、...。
Azimech(守られていない)、...。
AZoth…(二律制御の杖)、...。