7 《天上の青と共に》(2)
初対面の他人の顔をまともに見ない癖は、自分の弱点の一つかもしれないと夏美は思う。幼馴染の瑞季も含めてもう誰も覚えていないかもしれないけれど、自分は元々シャイな性格過ぎた。
小学生の頃、夏美の三つ編みの髪を男子が競うようにして引っ張りにくるので図書館に逃げ込んで本ばかり読んでいた。自分は全く他者に関心がないのに、背後からいきなり髪に触り、関わってこようとするのが気持ち悪くて嫌だった。
中学に入ってからは、明るく振る舞うことが鎧の代わりになると悟った。
つつかれたくないという意図を前面に出して防御するより、そんな意図を考えたこともなければ、相手がつつこうとしている悪意にも全く気づいていない振りをして、先に朗らかに別のムードを醸し出す。さらに悪意の無さそうな第三者も巻き込んでとにかく雰囲気をガヤガヤさせていき、自分の存在を薄めるという技を身につけた。
相手をまともに見ないでいる方が、上手く他人と距離をとれる気がする。
他人に気付かれずに透明のシールドを張って、自分の心の怯えを読ませないことが出来る。
今も心の動揺を押し隠そうとして、自分で計算した以上の、楽しそうな声が出た。
「あ、あー!ライ君、
というか、ライさんですね。
スーツ着てると別人ですね、びっくりしましたー!
うわぁ、凄く素敵です。凄く似合ってます」
「え?そうですか?」
いきなりハイテンション気味になった、夏美に少し驚いたのかもしれない。夏美の顔をマジマジと見る。
「ライさん本当に今日、とてもかっこいいですよ」
と遥も言う。
「ホント、先日よりずっとかっこいいです、スーツを着ると大人の風格ですね!」
と夏美は照れ隠しもあり、朗らかモードをMaxに振る。
ラインハルトは、穏やかに
「第一印象が悪過ぎたので、今日は逆にすごく褒めてくれるんですね、夏美さん」
と笑顔を向けてくる。
「ごめんなさい、この間は驚きすぎて。私、ちょっと態度悪過ぎましたね、ごめんなさい♪」
なんか今日は会話のキャッチボールが上手くいきそうな予感がする。
そうだ、ライさんはやっぱり龍ヶ崎グループの大事な取引先の息子さんだったってことですよね、さっきから遥もビジネスの企画を売り込もうとしているVIPだったし。
ようし、もうこうなったら遥の援護射撃第一スナイパー夏美になっちゃおう♪
えーと、先日TVで母が見て受け売りで教えてくれた、基本のさしすせその『ぶりっ子ワード』、脳内展開‼︎
さ=さすがぁ♪
し=知らなかったぁ♪
す=すっごぉ〜い♪
せ=センスあるぅ〜♪
そ=そ〜なんだぁ〜♪
こういう相づちを要所要所で挿れると、合コンで上手くいくらしい。
ので、夏美は今後頑張ってこのワードをたくさん盛り込んでみるつもりになる。
長いものには巻かれろ、VIPにはイエスマンの態度でやり過ごすのがいいかもしれない。
結局、流れでラインハルトさんにご馳走になることになって、オードブルが運ばれて来た。サイドボードの上に飲み物もたくさんセットされていて好きなものをウェイターが運んでくれる。ビジネスランチなので、ソフトドリンクで乾杯した。
「夏美さん、あ、夏美って呼んでもいい?」
と、ライさんがフランクに話しかけてくる。
「もちろんですよー。さっきから遥のことも遥って言ってましたもんね」
「遥とは仕事の関係ですぐに友達になれた気がする。
先日は、夏美に嫌われているのだろうなと気になっていたから、今日会えてすごく嬉しいよ。この部屋に招待しても『本当は会いたくなかったのに』と言われたらどうしようかと思っていたんだ。
夏美、僕も君の友達の一人として考えてくれる?」
夏美は愛想良く即答する。
「この間は知らない人だったけど、遥が信頼している友達なら安心して私も友達になれそう。これからもよろしくね、ライさん♪」
困った。会話は続くんだけど、なかなか{さしすせそ}キーワードの出番が来ない。でも、『友達』って言葉にすごく嬉しそうな顔になってくれたから、きっと掴みはオーケーだ。のはずだ。
先日は、何故かとてもイライラしてしまっていたけど、今日は斎藤さんとライさんの立ち居振舞いが心地よい。食事も美味しい。そうか、美味しいものを食べているから、自分は機嫌がいいのか、なんと単純な私♪
そして、食事を美味しくしてくれる会話もお二方ともにお上手だ。こちらが無理に話題を考えなくても済むので助かる。
冷製のごぼう入りのポタージュスープを食べながら、
「最初にこの根っこを食べようとチャレンジしたヤツは偉いと思うな。
でも、先日かき揚げ食べてから、僕もごぼうが大好きになったよ」
「だいたい男は、野菜の優先順位低いですからねー」
「うん、なんだろうね、子供の頃から取り立てて食べたくもないのに食べさせられてる感じ?」
「えー?女子はみんなサラダ大好きですよ!」
遥と夏美は、チョップドサラダにはまっているので2人の前には小さな丼くらいのサイズのサラダが届いている。
「そんなの食べてたら、メインの肉と魚が入らないじゃないか(笑)」
と、ホスト役のラインハルトが言う。
「私は魚だけにしてもらってもいい?」と遥が言うのに便乗して夏美もそうしてもらった。
「あー、女の子ってみんなこう?ここのステーキは絶品なんだよ?
信じられないな」
「私もステーキは外せないと思いますがね。
それを抜いてでもデザートはたくさん食べたいっておっしゃるんですよね?」
「その通りよ。私達実はケーキバイキング狙いだったんですもの。
夏美と2人で全種制覇しようねって約束してたので、ね、夏美?」
「それはそれで凄いな」
「テーブルに並べて記念写真でも撮りましょうかね」
と斎藤さんが言う。
「久しぶりにとても楽しいランチになったよね?夏美」
「今日は好きなものをたくさん食べられて幸せです♪」
「それは良かった」
「ラインハルト様もなかなか自由に好きな物を食べに行けませんからね」
「そうなんですか?」
「元々、スローフード派の家でね。基本的には家の料理人が作ってくれる物しか食べてはならないと言われてるから。安全性も厳しくチェックされてるし、日本では唯一この『Azurite』でなら、何を食べてもいいらしいから、たまにシェフがジャンクフードっぽい物を作ってくれないかなぁと思うよ(笑)」
「そんなに厳しいのですか?」
「うん。子供の頃は今よりやんちゃで反抗心旺盛だったから、弟と一緒に家をこっそり抜け出して地元の村のお祭りに行って屋台みたいな店で買い食いしようとして大騒ぎになってしまったんだ」
斎藤さんが驚いた。
「何と!
弟さまを連れて許可なくお屋敷を抜けだされたのですか?
とても厳しい決まりがあると聞いておりましたけれど?」
ラインハルトが、少しドヤ顔になる。
「うん。悪い子だろう?
家訓で厳しく禁じられているのはもちろん知っていたけど、罰則の重さまでは知らなかったんだ。後から気づいたんだ。罰則の重さをきちんと調べてから、決行するかどうするか決めれば良かったなって」
遥が笑った。
「ライさんは、もっとすくすく良い子に育ってきたと思ってましたよー。
それって『罰則が軽ければ、悪いことだってやっちゃうぞ』ってことになりません?」
「そうだよ、まさしくその通り。
もちろん、今となっては、どうしてそんな規則が作られたのかまで教えられなくても推察できるようになったから、『お祭り行きたい』とか、『大人を出し抜いてからかいたい』なんて欲望を自制することも出来ると思うよ。
でも、あのとき僕はまだ11歳だった。
要領だけ良くて基礎的な勉強どころか応用段階もほぼ学び終わってたこともあって頭がいい子だともてはやされている時だった。それだってかなり周囲のお世辞が入っていたのにも気付かずに自信満々で正直かなり嫌なヤツだった。自分の望みなら多少の無理も聞いてもらえていい気になってた。
何をしても成功してたから。なんでも自分の思い通りになるような気がしてた。なんでも自由に自分が決めたり選びとったりできる気がしてたし。
一応、カンパニーの代表者の長男だし、まるで王子様のように扱われていい気になってたから、何だろう、出てはいけないという場所から抜けられそうな穴を発見して大人をきりきり舞いさせてみたくなってたし。まぁ、浅知恵でね、自分なりに攻略作戦考えてた。自分が調べて把握したことを下敷きに。
失敗することもちらっと考えてはいたけど、いざとなったら子供ということでこう、なんだっけ、甘やかして罪を軽くしてもらえるみたいな…」
「情状酌量、でございますか?」
「あ、それだ。ちょっとそこに賭けたんだけど。ダメだったなぁ(笑)」
「どうなったんですか?」
「ああ(笑)。
レディばかりなのとお食事の席だから詳しくは言わないけど。
食品の合成着色料や合成甘味料で死ぬ前に、この精鋭部隊?に殺されちゃうよ⁈って思った。
父が最も親しくしてる部下の人とか警備担当の人に手加減無用で連れ戻して来いと命じてたんだ。で、僕はその人達の顔を知らなかったし、さんざん人さらいの昔話ばかり聞いて育ってたからね、人さらいかと誤解して抵抗しちゃったんだ。弟は連れ戻される途中で熱を出して医者に怒られて入院したと聞いた。
僕は、家にある北の塔に閉じ込められたんだ、罰として」
「鞭で打たれはしなかったんですね?」
「あー、良く知ってるね、遥。
大丈夫、捕まった時も打たれてたし、帰宅した時は今さら鞭で打つ必要がないくらいにボコボコにされてたんで、鞭打ちは免除になったよ。
塔に閉じ込められてても、ちゃんと治療してもらえたけどね」
「そんな、ひどい…。痛かったし、怖かったでしょう?」
と遥が言った。
ラインハルトは、淡々としている。
「うん。あと、絶望感が凄かった。圧倒的な力の前には、自分なんてちっぽけな存在で選択肢なんてないんだなって思った」
「選択肢?」
「逃げるとか戦うとかの選択肢がなくて、出来ることと言えば降参してひたすら許しを得るしかないみたいな」
選択という考え方につい反応して夏美は思わず聞いてしまった。
「落ち込みましたか?
あの、選択を失敗して後悔して立ち直れないとか、ずいぶん昔の失敗を思い出したり、夢でみたりすると辛いので…。
『もう怖くて何も選べない、もう何も選びたくない、自分に選択権なんていらない!』みたいな臆病な気持ちになったりします?」
ラインハルトがまっすぐ夏美を見つめたので、夏美はドキッとした。
「うん。それはね。…かなり落ち込んだ。
…そんな感じの、選択の失敗が自分だけでは受け止めきれないくらいの結果をもたらすことがもちろん他の時にもあったから。
そうだね、今夏美が言った言葉を全て考えたと思う。上手く口に出して言えなかったけど。
お祭りの時のその失敗ではね。初めて感じた、とても惨めな気持ちを持て余してた。変にプライドが高い時期だったので、いっそ!って気持ちになりかけた。
『今まで僕のことを大切にしてるとか言ってたけど、こんな目にあわせるなんて!
僕がいなくなって、みんなでおいおい泣けばいいだろー!』ってね。
ま、拗ねた子供だったんだね(笑)。
逆ギレっていうのかな、周囲への反発心もあったし、
ちょうど僕が将来への大事な選択をした時期だったんだけど。
それすらも、何となくわざと仕組まれてたのではないかと考えたりした。
大事な選択を僕がまだ幼くて判断材料少ないうちにさせたのではないかって思った。
でも、かっこつけてる風に聞こえるかもしれないけど。
…うん、そうだね、やはり僕は傲慢なのかもしれないけど。
勝負出来るとかチャレンジ出来るとかのチャンスがあれば、トライしてみたい。という気持ちは消えなかったんだ。
だから、失敗と負けの方が断然多い気がするけど臆病にはなりたくない!
あの時、僕は、とても敵わないものに選択肢を狭められてしまうということを学んだ。あとさっきも言ったけど、状況の全ての情報を掴んでいたなら、予測が正しく出来ていたなら、失敗に繋がる選択肢を先に自分できちんと潰していたに違いないと思う。というか、その選択肢をきちんと潰しておける人間になれる努力をしたい。
自分で出来ることは全てやっておいて、自分の関われない外的要因は運というか神頼み、かな」
「そうなんですか。あ、つまりあれですね。
人事を尽くして天命を待つって感じですね」
「うん、それに近い感覚かな、そういう風になりたいなと思って」
「そう、ライさんが日本の文化を学びに来たのも、考え方や選択の幅を広げたいということですもんね」
と遥が言った。
「うん、どうしても自分の物差し?尺度?で何かを判断する時に西洋的に片寄ってしまっているんじゃないかなと思ってね。良いものは取り入れてこそ、また選択肢を増やすことにつながるかと。
あ、ごめん、長々と子供の頃の失敗話をしてしまったね。
そろそろ僕の最近の失敗の話をさせてもらった方がいいんじゃないかな?、遥」
「そうですね、せっかく夏美がいることですし」
と遥とラインハルトが意味ありげに頷きあう。
「……?
せっかくって?」
「ライさんがただいまピンチに陥っている現状の説明と、そのピンチを救う、龍ヶ崎遥の作成した起死回生プランと、どっちの話を夏美は先に聞きたいですか?
これも1つの選択、ですね♪」
「おお〜♪、上手く繋げたね、遥」
「さすが、遥様♪」
「ありがとう♪」
なんか3人がワクワクと自分を見るので、笑えてきてしまう。
「私が選ぶのね?」
「そうそう♪」
遥がとてもご機嫌で、夏美も楽しい気分になる。
「それは、ええとまずは、現状把握じゃない?」
と夏美。
「はい、じゃライさん、手短かにどうぞ〜♪」
「やっぱりそう来たか。じゃ、夏美以外の2人には知らせた情報を1つ。
仕事の傍ら僕は留学してたんだけど、けがや病気で入院したりして意思表示をしなかったので家族が僕の代わりに留学辞退?の手続きを完了させてしまってた。まぁ、学校のことは仕方ないにしても、それで国に帰って来いと言うんだけど。僕はもう少し日本にいたい。
夏美なら、どーする?」
「あの、あのねライさん、とりあえずパスポートやビザの変更のことは私、わからなくて、ですね」
「いや、そこじゃなくて(笑)」
「あ、えーと留学がダメになったことについては、元気出してくださいね、ライさん。勉強がお好きなようだから、別の大学に行く選択肢もありですけど。
うーん、私だったらですか?
私は勉強嫌いだから必要がない場合は、もう大学は諦めてビジネスを頑張る方向で家族を説得するかなぁ。
そうだ、どうして日本にいたいんですか?
どうしてもい続けたい理由に説得力があれば少しは猶予をもらえるかもしれないですよ?」
「当初の目的は日本文化、とくに日本の魔法生物、河童とか天狗のことを調べたくて来たんだけど…。ま、すぐにどうこうするもんじゃないしね。
そしてとうとう、祖父が秋に日本へ来ると言い出したんだ。
僕の様子を見に来ると言ってたけど連れ戻したいのかもしれない」
夏美は言った。
「あ、そうなんですね、でも前向きに考えると、とりあえず秋までは日本にいられるじゃないですか。
あと、せっかく来たお祖父様を安心させてあげればいいと思うんですよ。
『さすが、ワシの孫じゃ♪』と言わせれば成功だと思いますよ」
遥がいきなりハイタッチをしてきたのに夏美は驚く。
「でしょ、でしょう?夏美と私は意見が一致すると思ってたよー。
というわけで、お祖父様を接待するパーティを開いて、ライさんの会社のスタッフだけでなく、ライさんの友達がヨイショしてお祖父様を安心させる予定なわけです。で、私が今パーティの企画を作っているので瑞季や夏美にも参加して欲しいの」
「夏美は、子供の頃にソシアルダンスの競技会でメダル取ったって聞いたよ?」
「さすがですね、夏美様」
夏美は顔を赤くした。
「あ、瑞季が言ったんでしょう、もう。
ダンスは昔、ちょっとだけ頼まれて…。きちんと習っていたのじゃなくて。
ラテンのジュニアの大会で《パソドブレ》の振付けが先にあったんだけど、おてんばの私にピンチヒッターの依頼がきて、だから、ワルツとか普通に踊れるわけではないのよ」
「あ、じゃ、夏美も皆と最初から基礎を習うことにして、と。
確か金曜なら夏美も確かお休みだから、金曜に…」
遥の携帯が鳴った。電話がかかってきたらしい。
「ちょっと、ごめんなさい、あれ?大学の助手の方からだわ!」
遥がスマホを持って慌て部屋の外に飛び出して行った。
もうすぐデザートが出てくるのに、大丈夫かな?
5分も経たないうちに戻って来て
「ごめんなさい、皆さま。私、一度帰宅します。そこから大学に行くか、再度データ送信で済ませられるかやってみるけど。2時間後って、まだライさん、ここにいらっしゃいますか?」
ライさんはにっこり笑顔で書類の山を指した。
「ああ、あの山もゆうに3時間は僕を縛り付けておいてくれると思うよ。
もし良かったら、また戻って来てくれ」
「夏美は、どうする?パティシエがもう用意してたから、食べてから帰る?」
「僕と一緒に、遥を待つ?」
「い、いえ、じゃ、ごめんなさい。
遥を待たないで、デザートだけ先に食べて帰ります」
「お嬢様、お車どうされますか?」
「タクシーで回るわ」
「いや、それは…」
「斎藤さん、遥を優先してくれていいよ。龍ヶ崎家の執事室の人間がいるのに、わざわざタクシーなんて呼ばなくていいじゃないか」
「かしこまりました。
ついでに他に書類がないか、確認して戻ってきます」
「いや、もういいよ、書類は(笑)」
♣︎♣︎♣︎♣︎♣︎
「夏美、そんなに慌てて食べようとしなくても(笑)」
「はいー(汗)」
「喉、詰めないでね(笑)。
でも、本当に美味しいよね、ここのケーキ」
にこにことラインハルトが言うが、マナー違反でもさっさと食べて帰りたい。
遥と斎藤が出て行ってすぐ、ラインハルトが
「僕達2人で、まるでデートしてるみたいだね」
と、とても素敵な笑顔で言ったので、夏美は落ち着かないのだ。
あとちょっと!
「僕が紅茶を淹れてあげよう♪」
とラインハルトが席を立つ。
そ、そんな、私がやりますって言いたいけど、口の中のケーキが言わせてくれない。ここはお言葉に甘えて、デザートをクリアすることにする。
ラインハルトが少しワイシャツの腕をまくったので、手首の腕時計が見えた。
あ、今日は普通の男物の時計をしているんだわ。
突然、夏美は先日のブレスレットのことを思い出した。
今なら本人に聞けるかも。このケーキを飲み込んだらね。ちょっと緊張するけど。
「あの、私、一つ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「この間、あの、女性用のきれいなブレスレットか時計をつけていましたよね?」
「ええ、そうだったね」
「あれって、ライさんの物なのですか?」
ラインハルトが、振り返った。
「あ、あれか。
あれは大切な僕のお守りですよ。
あれがどうかしましたか?」
「あ…。あの、実は似たような物を見たことがあるんです」
「見たことがある?
いつ、どこで見たのかわかる?
何か覚えている?」
きれいな瞳で夏美を見つめるので、ドギマギする。
「今、ここにあるから見せてもいいけど…」
と言ってラインハルトがポケットから取り出した。
ブレスレットの珠が光っている。
でも先日の青白い光り方ではない、少しほのかに赤くみえる。
「…!」
ラインハルトも、それを見て戸惑っているように感じた。
夏美は、まるで吸い寄せられるように席を立つ。身体が前に出た。
「私の…それは…私の」
自分が何かを口走っているのを感じるのだが、口を自分で塞ぐことも出来なかった。
「わ、夏美⁈
いったい何を…?」
ラインハルトが、夏美の動作に驚いて、身を引いてブレスレットを守ろうとするのが見える。
自分でもどうしてそんなに速く動けるのかわからなかった。
手を伸ばしてブレスレットに掴みかかる自分。
私、変だ。
あの夢から覚めた時の必死の想い。
それが、自分の身体を突き動かしている。
何か感じる。ちぎれた心のかけらの一つ一つが誰かを助けてと叫んでいる。
あの時はただ泣くだけだった。
誰かを助けたい、そう、心と身体の全てを切り刻まれたとしても、その誰かを助けたい必死の想い。
でも、今は自分の目の前にあの宝珠がある。
あの宝珠があれば!
ラインハルトが素早くブレスレットをポケットに納めた。
「私の…!きゃ、あ!」
「危ないから!…暴れないで!ほら君は!転ぶじゃないか!」
とラインハルトが言った。
夏美の身体は、カップボードを背にしたラインハルトの身体にまっすぐぶつかっていった。
ブレスレットの宝珠を奪い取ろうとするかのように掴みかかった夏美の右手首は、ラインハルトに掴まれていた。
自分でコントロールできないくらいの速さで突進しようとして、その次の瞬間、いきなり全身が麻痺してしまったかのようになり、無様につんのめった夏美の身体を彼はそのまま抱きとめてくれたのだ。
2つの身体がぶつかる衝撃を、ラインハルトが瞬時に胸板を引くようにして和らげてくれたのはなんとなく意識下でわかっていた。今、ラインハルトの右手はゆったりと夏美の背中を支えている。それもわかっている、でも、身体が動かない!
宝珠を目にした瞬間に、その光を目にした瞬間に、自分の身体なのに勝手に動いてあっという間にラインハルトに飛びかかり、今度は全く動かせない。意識はあるけど、混乱していた。
これは現実?これは夢の中?
…現実だ…自分の身体は動けないものの、ラインハルトの息遣いをそばで感じている。
私、遥の大事なVIPに狼藉を働いて、泥棒みたいな真似をした。
私、このまま、国際的な警察とかに連れていかれてしまわない?
夏美は、謝らなければと焦るのだが、声も出せない。
「夏美?大丈夫?…呼吸出来てる?
気道を確保した方がいいのかな…」
心配そうにラインハルトがつぶやいた。
まるで壊れ物を扱うかのように夏美のあごの下を持ち上げて夏美の顔を覗き込む。
問いに答えようとして必死に夏美は見上げているが、やはり金縛りのようになったままだ。
ラインハルトのきれいな青い瞳が先日のように、自分の瞳の奥まで覗くかのようで怖かった。
「やはり、君なんだね」
…?
ライさんの瞳の中の湖にさざ波が立っている。
ライさん、もしかして泣いているの?
何故なんですか?
私、何も…わからない。見覚えがあるのは、あの不思議な宝珠と。
あなたの瞳だけ…!瞳…?
あの湖はどこにあるというの?
ラインハルトの顔が近づいてくるのに、夏美は目を閉じることも出来ない。
怖い…助けて、ライさん。お願いです。
私を湖に閉じ込めないで…
※ 誤字修正 (2019年1月20日) 文中エピソードでのラインハルトの年齢を間違えて記載していたので、修正しました(正 11歳←誤13歳)。