73 《劔を鍛えよ》 (6)
「そんな...そんなことはないと思うな。ライさんのお母様は、きっと今のライさんのことも、昔のライさんのことと同じくらい好きなんじゃない?
だって、絵の中のテオドール君も、目の前のラインハルトさんも、どっちも素敵に見えるわよ。
私がライさんのお母さんだったら、もうどっちも好きだから」
と、絵を熱心に見つめていた夏美が振り返る。
ラインハルトは、笑顔になった。
「うん、そうだね、ありがとう、夏美。
でも、夏美が今しげしげと見ているのは、絵の方の僕だよね、すごい説得力のなさ(笑)」
答えてから、また絵の方を向き直って見ていた夏美が振り返って、照れくさそうに笑う。
「あ、でもね、美術館でも絵を見るのが好きだから、ごめんなさい。それにね、聞いてくれる?
私、この絵に見覚えがあるの」
「うん、そうなんだね」
「ええと、これはね、ごめんなさい、あ、もう少し待ってね」
「うん、大丈夫」
夏美は、また1歩近づいて、絵を見上げて眺める。
それは、あまり大きくないサイズの絵だった。
柔らかなタッチで、中央にフルートのような笛を一心不乱に吹いている栗色の髪の小さな男の子。白い夏物のシャツ。裾をまくり上げるようにして履いているグレーのズボンは、膝から下がむき出しで裸足だった。彼は、小さな湖に少し突き出た縁の部分に腰かけて、片方の足を座っている草地に放り出してもう片方の足はぶらぶら水面に下ろして、小さな波をちゃぷんと立てているところだった。
少し明るめの緑の草原と傍らの木々の濃い緑、湖面での水の深い青の部分と光に照らされて鏡のように白く輝いている部分の対比がとても丁寧で美しい。小さく鳥や馬のようなものが描きこまれているが、少年を引き立てたいのかそれらは不鮮明に、あいまいに描かれている。
「あのね、まずはこの子は、ここに一人じゃないの、光もまるでこの子に集まっているように描かれているのね」
フルートの銀色よりも、少年全体が光って見えるような描き方。
「まぁ、うん。よく小さい何かが描きこまれているってわかるね。普通に見たら、僕一人が笛の練習をしているところにしか見えないはずなんだけど」
「夢でね。見たのよ。いつも、夜寝る前にね、子供の頃から願い事をしていたの。一つは、夢の中でお姫さまをどうしても助けたかったから、夢の続きか、出来ればお姫さまが閉じ込められる前の夢に行かせてくださいっていう願いと。
もう一つは、夢なんか忘れてぐっすり眠りたいっていう願い」
「うん、わかる。夏美はずいぶん、夢の中で戦ったり活躍しているんだもんね、疲れてしまうよね」
「ライさんも、不思議な夢を見て頑張ってきたりしていたじゃない」
「まぁ、たまにね。でも、僕は、あまり願い事とかはしなかったけどな」
「そうなのね。それでね、私は最近眠る前に、宝珠さんにお願いしたりしていたの」
「どっちの願いを?」
「う~ん、それがね。最近、ざっくりしてきちゃって。宝珠さんにお任せしていたの。なんだかどっちも私にとって必要なのかもしれないって思って」
「選択権の放棄?」
「あ、そうね、そうかもしれない。自分で選ばない方が良い気がしてきてしまったの。何か偶然の素敵なものが降ってくるのを待ちたい気持ちもあったりして。
もちろん、今までのようにイライラしていることもあるけれどね。解らないことだらけで、『真実が知りたい~!』って、寝ながら叫んだこともあるんだけど。
でもね、ちょっと気持ちが変わってきたんです。
『あ~、もうどっちでもいいから、よろしく』って開き直りの気持ちも出てきて。図太くなったのかもしれない」
「へえ~、セレンディピティ♪、の精神だね」
「セレンデ...?」
「セレンディピティ、だよ。偶然になにか素敵なものが、そういうのに出会うってことさ」
夏美は、目を輝かせた。
「そう、そう言ってくれると気持ちが軽くなりそうね。いい言葉だわ♪」
「うん、そうだよ。開き直りっていうより、明るい感じがするよね。
確かに、選択権は大事だけどさ、例えばメニューを全部見て、『これを食べたい』って決めるならともかく、僕らの前に全てのメニューが、情報がカタログみたいに提示されていなければ、最終的に選択をきちんと出来ているとは限らないからね」
「そうですよね。明らかにされていない方に、私たちが気づいていない方に、最も良い結果をもたらすことが残っていたら、選択はきちんと出来ていないことになる、そう思うと怖くなるわ。大切なことほど、勇気が出なくて1歩が踏み出せないし。
結局ね、あまり考え過ぎるのをやめようと思ってベッドに入ると、宝珠さんが私を寝かしつけてくれようとしているのか、この湖の光景に似たものを繰り返して見せてくれるの。ちょっとずつわかりやすくなったりして、男の子がいるなんて最初、気づかなかったのに、見えてきたのよ」
「最高のサービスだね、それは。そういうのがいいのになぁ。
僕なんか最近、宝珠に優しくしてもらえていなかったもの。
爆睡している時にいきなり、炎系攻撃で火傷を負わせてくれるイメージしかないよ」
「もう、そんなことが起きないことを祈るわ。とにかくね、この絵そっくりのイメージなの」
「うん、聞きたいな。この絵を見ないでも説明できる?」
夏美は笑って、絵に背を向けてラインハルトに向き直った。
「全然、大丈夫よ。見なくても説明ができる自信があるわ。これは、ぜんぜん妄想じゃないの。
穏やかな湖の上を吹き渡る風にのって、フルートのような楽器の音が聞こえてくるの。
それは、まるで子守唄みたいな、穏やかな調べなの。私も、まるで風に乗っているかのように空中を漂って、その音がする方に、そうっと近づくとね。最近、わかったの。
湖のふちに腰かけて足をぶらぶらと投げ出している小さな男の子が、丁寧に笛を吹いているの。たまに、ちゃぷん♪と音が入るのは、男の子が、自分の足先で湖の水面を蹴っている音なんだとわかった。とてもリラックスして、遠景にユニコーンとかフォーンとかが見えたような気がする、それと木の妖精もいるわ、小鳥を肩に載せたまま、その子守唄のような調べをね、一緒に聞いているのよ」
「ねぇ、じゃ、そのユニコーンは、僕に攻撃しないの?だって、よく言うじゃない、ユニコーンはね、乙女にしか姿を見せないから、男嫌いなんだよね?」
「あ、そんなことないわよ、攻撃なんてしないわ。ふざけて後ろから長い顔を使って、もちろん、角が刺さらないようにして、トンと背中を押して、小さな男の子を湖に落としたことはあるかもね?」
ラインハルトは、ひと呼吸おいた。
「...そうだね、僕はあまり良く覚えていないけど...。そんなことだったに違いない。
すごいね、夏美はまるでそこにいたみたいだよ」
「そうお?でもね、宝珠さんがしょっちゅう見せてくれるのよ。とても安らげる光景なの。子守唄っぽいし。宝珠さんとライさんのおかげかもしれないって思っていたんだけど」
「そうかい?僕は、大して役立ってないじゃないか」
「そんなことないわよ、もしかしたら、ライさん、宝珠さんに私が良く眠れるように願ってくれていたのかもしれないでしょう?」
「うん、それはそうだよ。毎晩、祈っていたよ。夏美がどうしているかわからないから、怖い夢を見ないでよく眠って欲しいって」
「きっと、そんなライさんの願いを聞いてくれたんだわ」
「じゃ、ついでに『大きくなったボクも可愛いんで、火傷をさせないでくだちゃい』って一緒に願っておけば良かったのかな」
と、ラインハルトがふざけて言ったが、夏美は真顔でうなづいた。
「そうかもしれない。今度からそう願ってみて。
でも、私はこのおかげで、宝珠さんの悪いイメージは完全に消えたんだけど」
と、夏美は言った。
2人はそのまま廊下に出て、夏美は案内されたパウダールームに入った。
しゃれたアールヌーヴォー調のランプ、淡いピンクグレーに白い鳳仙花と、白い羽が散りばめてある美しい壁紙が印象的な部屋。そう、まさにトイレというより、小さな部屋みたいだ。手を洗うだけでなく、着替えたりできる場所や、化粧台、椅子、小さなデスクまである。
大きな鏡だとどうしようか、怖いかもと思っていたけれど、小さめの楕円形の、金縁の普通の鏡だったので少し安心する。
化粧直しをしなくてはならないから、それほど見たくもない顔を覗き込む。
また、髪が伸びている、気がする。
そう、自分と弟の隼人の写真を、母が先日、親戚のおばたちに見せたと言っていた。
『そっくりなんですってよ、親戚の...え~、ナントカさんにそっくり』
と母が言うので、
『ナントカさんって誰?』
と聞き返したのだけれど、名前を聞いても結局誰のことだか良くわからなかった。
『いいじゃない、とにかく、とてもいい人で素敵なひとだったってよ』
と母に適当にあしらわれた。
たまに親戚にいくと、誰かに似てるとか言われて、勝手に盛り上がられるのだ。もう慣れっこにはなっている。
鏡を怖がっても仕方ないわね。
『もしも、鏡が怖かったら、叫んで僕を呼んでくれていいからね』
廊下で待ってくれているライさんが言っていたけど、どうやら大丈夫。
鏡は真実を映す、本当にそうなのかな。いつも、そう思っていた。
ひとりぼっちの時間に、鏡に向かって話しかけて、でも、その遊びを誰かがやめたほうがいいって教えてくれたんだけど、その人が今、目の前の鏡の中にいる気がしてしまう。
♣♣♣♣♣
夕食を食べる部屋は、内装がこげ茶が基調のシックな部屋で、柱状の大きな置時計が立っていたり、とても豪華な部屋だった。まず気がつくのは、敷かれた濃紺のじゅうたんの厚みだ。バタバタ走っても、絶対に足音が響く気がしない。まるで、足を受け止めてもらっている感じだ。
逆に、カーテンは、絹の光沢が見事なローズピンクで、縁のフリルはレース模様で、少し軽やかさを足してくれている。
ろうそくをモチーフとしたシャンデリアが輝いていた。ところどころにろうそくと花瓶が置かれたテーブルには、クリスタルのグラス、そしてディナーセットのナイフとフォーク、リネン類がきちんとセットされていた。
「大勢で囲むより、おふたりでごゆっくり召し上がっていただいた方がいいと思って、僕たちは遠慮しようと考えてもみたのですが、せっかくの良い機会に巡り合えたチャンスを大切にしなければね」
と、それでも嬉しそうに笑顔を浮かべた、イタリア人だというマルコに紹介される。
「光栄です、日本の美しいお嬢様」
と、夏美の手を取って、お辞儀をして手にキスまでされたので、夏美は棒立ちのまま真っ赤になった。
「マルコさま、夕食前にラインハルトさまに敵対するのはおやめくださいませ。生きて館から出られなくても、わたくしは知りませんからね」
と、姫野がたしなめる。
「いや、これくらい、ただの挨拶だよ。許してくれるさ。イタリア人が本気で口説きにかかるとこんなものでは終わらないよ」
「イタリア人が本気でって、何?」
と言いつつ、先ほどまで夏美の傍らにいたはずのラインハルトは、少し離れた場所で忙しそうだ。
マルセルにペットの猫を追い出すように言われたのだが、ほとんど一緒に遊び始めてしまっているようにしか見えない。
「ラインハルト様、私が代わりましょうか?」
と、マルセルが呆れて口を出している。
「あ、大丈夫、マルセルがやったら、よけい修羅場になりかねないもの。メル、ほら、その子は別にメルの敵じゃないんだから、君が構わなくていいんだよ」
メルと呼ばれた、とても大柄の猫は、毛を逆立ててはいないものの、一体のロボットにぷりぷり腹を立てていた。
ラインハルトが近づいて来たので、後ろ盾にしようとしているのか、ラインハルトの足元にうずくまるようにしてから、ロボットを見つめ、今にも飛びかかろうとしている体勢だ。
そのロボットは約1.5メートルの、猫が立ったような猫人間型であり、ほぼ金属というより陶器製に見えるぐらいつやつやしているが、明らかにいつもの敵である、大嫌いな掃除機よりも嫌いなものだと認識したらしい。
ロボットは、当然のことながらメルを一つの生体と感知して判断したようで、愛想よくキラキラした目を向けている。