68 《劔を鍛えよ》 (1)
ひどい顔をしているな、夏美は思った。
...わかっていたことだったけど。
歯磨きをするために、見たくもない鏡を見る羽目になっている。このあと、少し世間の平均水準的な顔になれるように修正をする(化粧をする)ので、また鏡を見ることになる。
どうせいつも、ろくろくまじめに鏡なんて見ない、というか自分の顔なんて見たくもないし、極力見ないようにしているのだけれど。ただ、適当に塗った口紅がはみ出てしまうのはもっと嫌だった。
身体は疲れていないと思うけど、歯を食いしばっていたみたいで肩の凝りと顔の表情が最悪だった。
今世紀最大の夢見の悪さだったかもしれない。
夢の途中で目を覚まし、すぐにでも夢の中へ戻りたいと思ったことは、もちろん今日が初めてでは、ない。
そして、以前は素直に泣けた。子供だったから、ろくろく内容を覚えていなくても、素直に泣けた。
自分が何度も失敗をして、その失敗のまま、夢全体に弾かれている気がしていたのだ。
現実も楽しくないというのに、夢にまで拒絶される自分。
寝ている時の夢まで楽しくないなんて、死にそうだった。
死にたいと思いつつ、矛盾してるけどどこかで死ぬのはいやだという気持ちがあったから、自分で考えた作戦で、キャラチェンジをした。明るく愛想の良い子は、先生にもクラスメートにも受けが良さそうだった。演技なら、少しは出来る気がしていたから、頑張れたと思う。
それからというものは、『ダンスが上手いね』、『明るい夏美ちゃん、大好き』、『よく笑うようになったね』という自分の欲しかった肯定的な評価がもらえて、キャラチェンジは大成功のようだったし、自分の努力に対して胸を張りたいくらいの気持ちで、ますます明るくなれた。
そうして、小学生時代のちょっと何かあると図書室に逃げ込んでしまう松本夏美はいつか、消えてしまっていた。いつのまにか取って代わっていたのだ、明るく愛想の良い松本夏美が。
夢のことも、いつしか忘れてしまっていた。
つい最近、思い出したことの方が奇跡でびっくりなことかもしれない。
...思い出すきっかけは、ライさんだった。
ライさんが責任を感じて申し訳なさそうに謝ってくれていたけど、彼がそうやって、自分の宝珠を持って近づいてきてからだった。
夢のことも、不思議なご本家のお婆さまのことも、小学生時代のニワトリをめぐっての争いも、それで一時、ご飯が食べられなくて激やせしたことも、すべて忘れてしまうことが出来ていた。
いつしか忘れていたのに、そして、どちらかというと《心の平安》のためには、忘れていた方がずっと良かったと思うのに。愛想の良さを武器にして、念願だった本屋さんに就職できたことは、現実の社会で生きていかなければならない自分にとっての成功なのだから。
それでもたぶん、心の奥に封じ込めてはいたけれど、たまに、小さな童話を思い出してはいたのだ。
今の自分にとって、もっとも怖い童話。それが、心をひっかくのだ。
どこまでも、どんなに逃げても、どこかに本当の自分が残っているんだよって言われているような話。
嫌われ者のカラスがなんとか人気者になりたくて、ある日、作戦を一生懸命に考えたのだ。
そうだ、自分が黒いからいけないのだ、とカラスは思った。自分を変えよう。努力しよう。
そして、きれいな他の鳥の羽を1本づつ拝借して、頑張って全部差してまとってみた。
すると、鳥たちがみんな、ほめそやしてくれるようになった。
きれいな、様々な羽を持った鳥として。みんなが優しい。友達になってくれる。
だけど、カラスの、そんな幸せな日々なんて続かなかった。
そして、結局バレてしまうのだ。
褒めそやしてくれていた鳥たちが、自分の羽に似た羽をそれぞれが引き抜いていった結果、元の黒いカラスに戻ってしまう、そして、ひとりぼっちに戻るお話なのだ。
まがいものはね、結局ダメなんですよ、という教訓のためのお話なんだろうか。
教訓は教訓として、必要なのかもしれない。
だが、作者は、その黒いカラスの身を心配してくれていたのだろうか。ちっぽけな努力だったかもしれない、でも無い知恵を絞って考えた作戦が失敗してひとり泣いているカラスのことを考えてくれただろうか。
誰か一人でも黒いカラスの友達になってくれればと思ったけど、たしか嘘つき呼ばわりされて終わっていた話だ。エンディングが怖くて途中からろくろく読んでないので、覚えていないのだけど。
出かける支度をしつつ、あまりにぐずぐずしているので、母が出かけるついでに駅まで送ってくれた。今日の夜は、店から直接に友達の家に行くと話してあったので、運転しないことを覚えていてくれていたみたいだ。
そして、たぶん母のことだから、自分に元気が無さそうなのを見抜いて、黙って笑ってサポートしてくれている。私は自分のことで手一杯なのに、母はずっとそうしてくれていたのだと思う。黙ってサポートしてくれているから、ネタバレなんかしないでしらばっくれて、でもいつもよりもちゃんと
「ありがとう、すごく助かった~」
と言った。降りて母に背を向けて歩きながら、泣きそうになった。
大丈夫、今日も社会人ぽく頑張れる、ありがとう、お母さん。
駅前スーパーの駐車場から降りて駅に向かおうとしたら、真凛さんに声をかけられる。
「夏美?、ああ、夏美、今から出勤?どうしたの、車は?お稽古用のトートバッグまで持っているのに」
「真凛さんこそ、歩いているじゃないですか~」
と、ほら、私はもう、いつもの松本夏美っぽくなっているじゃない。大丈夫、みたい。
「私は、今パン屋さんで今日のお昼を買ってきたところ、ほら」
と、袋をアピールしてくれる。
「え?すごい量ですね~。真凛さん、いつもそんなに食べないのに」
「ここのパン屋さんの焼きたてメロンパンとクロワッサン、人気でしょう?私が買っていくと、みんなが欲しがるから、欲しい人には定価でわけてあげることにしてるの。余っても冷凍できるし」
「それ、いいですね~」
「夏美にも幾つか売ってあげようか、って。それよりどう?
私の車に一緒に乗ってかない? それとも電車に乗りたかった?」
「あ~、電車が好きとかそういうわけじゃ、でも申し訳ないですし。いつもいつも」
「やだ、そんなに言わないで。あ、忘れてた。この間、夏美のおかげでボスが豪華なランチをおごってくれたよ」
「もう、ライさんたら」
つい、本音を言ってしまった。真凛さんは笑う。
「『本当は、夏美にストーカー扱いされて怒られても、自分が送り迎えしてあげたい』って、力説していたわよ。あ、だなんて、そんな話をしていたら、遅刻しちゃうわね。乗って、乗って。
私たち、どうせ近くのビルに出勤するんだから。夏美は、私の車、好きって、でしょう?」
「好きです!いつもありがとうございます。」
「私も、練習日には夏美が隣に乗ってくれて、いろんな話をしながら運転するのが、最近楽しくて。だから、本当に遠慮しないで。自分で運転したくない時とか、通り道なんだし、呼んでくれていいからね」
「ありがとうございます」
母と真凛さんにリレーで送ってもらった結果、いつもよりも、快適に早く店に到着。真凛さんに定価で分けてもらったお昼ご飯にするつもりのパンを少しちぎって食べてみる。
幸せだ~!
とりあえずくよくよ考えるのは、お昼休憩までお預けにしよう。集中、集中。
夏休みの時期は、おじいちゃんおばあちゃんとお孫さんのセットで本屋さんに来てくれたりする。
読書感想文のためだったり。私の持ち場は基本的に文房具売り場なんだけど、低学年用の絵本売り場もそばにあるので、途中で質問をたくさん受ける。
私は、絵本とか童話が一番好きだったので、それは大歓迎なのだ。お客様の質問に答えている時は、店長にもサボっていると思われなくて済む。
「にほんの昔話は、どのへんですかな?」
「あ、はい、ご案内しますね。こちらです」
「おじいちゃん、えみり、おひめさまの出てくるご本がいいの~」
「うん、にほんにもたくさん、おひめさまがいるからね」
「ドレス、着てる~?」
「ドレスというか、おひなさまみたいな。まぁ、絵を見てみようか」
「『かぐや姫』とか、ええと、『しらゆきひめ』は、こちらですね」
双方のニーズにこたえる、賢い書店員なのだ。もし、よろしかったら2冊ともお買い求めくださいませ。
「わあい♪」
と、えみりちゃんが平積みしている『シンデレラ』のイラストに飛びついているのに、おじいちゃまは、
「おお、懐かしい」
と、『あんちんときよひめ』に手を伸ばす。たしかににほんの昔話だけど。そのチョイスはちょっと~。
「これは、ぐっとくるやつですなぁ。あ、えみり、丁寧にご本を扱いなさい」
「あ、ありがとうございます。大丈夫ですよ、えみりちゃん、中にも絵がたくさんあるので、見てくださいね」
「はあい」
「店員さんは、『あんちんときよひめ』というか、《娘道成寺》なんてご存じないでしょうが...」
「あ、はい、そうですね。実際には見たことがありません。あの有名な玉三郎さんのを写真でしか」
「おお、そうですね。美しくて切ないけど、」
「ちょっと、えみりさまには難しいかと」
「それに、最後、蛇の化身だからねぇ。ヘビーすぎ、なんちゃって」
とおっしゃるので、とりあえず手を叩いて笑顔を見せておいた。
「あはは、そうですね。では、ごゆっくりと楽しんで選んでくださいませ」
「ありがとう~」
と、おじいちゃまは満足のようだ。あ、歌舞伎系の美しい写真集も在庫があったらお買い求めくださいませ。