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理解不能の、弱い蒼  作者: 倉木 碧
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6 《天上の青と共に》(1)

 

 ティールーム《Azurite》は、そろそろ空いてくる時間帯だった。

 グルメ雑誌に常に取り上げられているランチのサービスタイムが終わって、少し落ち着く時間なのだ。それでも、まだ少しドレスアップした奥様達が多く、笑いさざめいていた。

 遥が、景色の良い半個室風の窓際の席をお願いしておいてくれていたらしい。そこはかなり人気の席だった。

 航海中のヨットの中にいるような気持ちが味わえる部屋で、素敵な白いテーブルが雑誌でも取り上げられたばかりだった。だが、本当は他にも意匠を凝らした席がたくさんある。森の中のパーゴラの下にいるような気持ちがするテーブル、逆に一人で食事に来た人が安心して座れる、周囲の人に煩わされないで済むような一画など工夫がみられる。奥にはパーティや貸切で使用される個室まである。かなり広いので、ビュッフェコーナーが二ヶ所もあり、しかもオーダーすると目の前で手早く焼いてくれるオムレツは、評判が良い。


 遥と夏美が到着すると、支配人が困ったように頭を下げた。

「申し訳ございません、もう少しだけお待ちいただいてもよろしいですか?

 前のお客様がまだいらっしゃいますので。もう少しごゆっくりなさってくださいと申し上げてしまった所です。

 本日はかなり立て込んでおりましたので、皆様にご迷惑をお掛けしております」

「あ、じゃあ、もう少し待ってもいいし、あ、でも他の席は空いているみたいね?

 今日は2人だけだし、普通の席にいっちゃう?

 夏美、どうしようか?待つ?」

「私、どちらかというと、お腹優先かもしれない(笑)」

「じゃ、素敵なお席はまた今度でもいいわ、どこでもいいからお願いね」


「まことに申し訳ございません、お席以外で精一杯サービスさせていただきます。

 では、こちらへ」

 と案内されかけた時に

「遥様⁈」と声をかけてきたスーツの男性がいた。

 書類ケースを持った会社員みたいだ。歳の頃、30代後半くらいか。浅黒く日焼けして筋肉質な、快活ないわゆるスポーツ大好き人間に見える。副業でサッカーコーチもやってるんですよとでも言いそうな感じの人だ。


「あら、まぁこんにちは、珍しいわね、ここで会うなんて」

「今日はこちらに仕事で呼ばれまして。遥様は今日はお休みのようですね。最近忙しいと言って大学ばかりお出かけでしたのに。あ!論文が一段落したのでございますね」

「そう。ほっとしたわ。

 あ、紹介するわね、こちらはテニス部で私のペアだった、夏美さん。」

「おお、松本夏美様ですね。お噂はかねがね、承っております。私は龍ヶ崎家に勤めております、斎藤と申します。

 お二人で、こちらでお食事でございますか?」

「ええ。たまにはちょっと贅沢な気分でランチをと思って、今来たところよ」

「さようでございますか。それは何よりでございます。

 ではまた後ほどご挨拶に伺いますので」

「ええ、またね」

「失礼いたします、松本様、遥様」

 斎藤は何か少し支配人と話してから、奥の方へ入っていった。


 遥と夏美が案内されたテーブルは、とても可愛いピンクと白のテーブルクロスが掛かっている窓際の席だった。夏の陽射しをやわらげている、クリーム色のボイルカーテン。テーブルの上にセットされているのは、ルクセンブルクの窯で焼かれた、フォルムが丸く柔らかい感じの陶磁器のセット。クリームベージュの地に小さな花やハーブが散らされている。

「癒されるね」

「夏の海の爽快感よりも、この穏やかな感じが嬉しいかも♪」

 2人は満足して座った。


「何にしよう?」

 メニューを見るだけでウキウキする。

 水を運んできたウェイトレスの女性は遥と顔見知りだったらしく、席を用意出来なかったことを詫び、支配人からランチのサービスタイムと同料金でお好きなものをオーダーしてくださいませとのことですと告げた。

「得しちゃったかもね?」

「わぁい、どれも食べたいと思うけど、お腹とお財布がダメになりそう」

 キッシュやプチトマトのクリスタルジュレの冷製や鴨テリーヌを小さく可愛く仕上げたオードブル写真を見ているだけで幸せだ。


 斎藤が少し急ぎ足で再び近づいてきた。

「松本様、遥様、『Azurite』ルームでお食事をいかがですか?

 遥様と松本様がいらしてると今、お伝えしたところ、お客様がぜひにと」

「え?あのスペシャルルーム?

 今日は、あのお部屋を使っているの?

 久し振りにあの蒼い天井のお部屋に入れるなんて。なかなか入れていただけないと言うのに。

 いったい何年ぶりでしょう!」


 遥が嬉しそうに言うのに驚いた。

 このホテルのオーナー一族のお嬢様にも、許していただけないことがあるのか。


「はい、普段はなかなか拝見出来ないクラシカルなお部屋でございますから、よろしければこの機会に一緒にご覧になったらいかがかとおっしゃっておられます。

 ちょうどお食事をご用意する所でして、お一人で食事をするのも味気ないからと、書類を運んでいるだけの私などにご相伴をとおっしゃるので、正直私も落ち着かない気持ちでおりまして。

 それに。

 遥様達に良いお席をご用意出来なかったと支配人が先ほどから心配しておられるようですので」

「いえ、私達は、このお席がとても素敵だと思うから気を遣ってくれなくていいのだけれど、でも、『Azurite』ルームのご招待を受けないなんて、一生の不覚ね」

「そんな、特別なお部屋なの?」

 2人に頷かれて、夏美はちょっと気後れする。どうしよう、少しはお洒落してきたつもりだけど…。他方、遥はかなり嬉しそうだ。


「『Azurite』を使うなんて、もしかして、まさか?

 今日ここにいらしてるの?…あの方が」

「遥様、そうでございます。お祖父様のご許可が降りるのは特別なお客様だけですから。お仕事の書類を整理しておられて、ちょうどお食事を取られる予定でございます」

「うわぁ、ちょうど良かった。あのあとお電話でのやりとりだけでしたもの。一度ご挨拶だけでも行かなくてはね。

 私の企画書、大丈夫かな?見積もり、ちょっと詰めが甘かったかもしれない」

「大丈夫でございますよ。ご挨拶だけでもおいでくださいませ。

 あれは素晴らしいプランでございますから、きっと…」


 2人が、ビジネスの話で盛り上がってるのを、夏美はにこにこして聞いている。

 遥がイキイキしているのを見るのは、友人としてとても嬉しい。

 仕事を楽しみながら、一生懸命に取り組んでいるのだろう。自分は、ただこき使われてる感が強くて、サボりたい、休みたいと言うのが先立ってしまうけど、ワークライフバランスと言うからには、仕事も普段の生活も後ろ向きでは良くない。

 そんなこと、わかっているんだけどなー、どうしても面倒なことから逃げたい本能が先に立ってしまうんだよね。



「夏美、ちょっとだけ付き合ってくれる?

 このチャンスは逃せないの、一生のお願い!」

「うん、わかった、わかったけど、私が失礼なことしちゃったらどうする?

 それに、スペシャルルームなんて、ご飯が喉を通らなくなりそうじゃない?」

 ウキウキしてる遥には申し訳ないが、遥の仕事に協力したい気持ちはあるけど、さっきから話を聞いていると、よほどのお得意様のようで緊張する。


「じゃ、そちらでご飯頂くかどうかは後で決めるとして、一度お部屋と天井を見せていただきましょうよ。私、ずいぶん前に入っただけでうろ覚えだけど、絶対目の保養になるわよ?夏美は博物館とか好きだから、ぜひ見て欲しいの。

 ビジネス上のご挨拶とお話は、私の用事なので、私だけがするから、ね?」


 遥がかなりご機嫌になったので、近づいてきた支配人もウェイトレスも嬉しそうだ。

「かしこまりました。こちらのお席はこのままキープしておきますので、どうか最も美しい貴重なお部屋をご覧になっていらしてくださいませ」



 ♣︎♣︎♣︎♣︎♣︎



 斎藤が先にたって、部屋に入った。

「お連れしました」

「こんにちは!」

「お邪魔します」


 それは、きれいな青い洞窟を連想させる部屋だった。お辞儀をして顔をあげるとそのまま、夏美の視線は、天井に釘づけになってしまった。天井の青い色が空気までも清涼にしていくようだ。

 大きなテーブルの奥に書類の山に囲まれている人が仕事をしていたが、ちらっと顔を上げたようだった。逆光で顔の表情がわからない。が、どうやら若い男の人のようだ。夏美は、お金持ちで偉い人だと思って勝手に太った紳士をイメージしていたので、驚いた。少し栗色がかったウエーブのかかった髪をお行儀良くセットした、薄いグレーのスーツを着た人だ。


「どうぞ。招待を受けてくれてありがとう。書き物の途中なので、座ったまま、失礼します。

 斎藤さんが詳しく解説してくれるから、楽しんでくださいね」

 と行儀良く言ったあと、親しげに遥を手招きして続けた。


「あー遥、ほんとうに今日ここで会えるなんて嬉しいよ。

 君の企画書がちょうど届いたところだよ、君と今日お会い出来ると思ってなかったから、今慌てて読んでるんだけど。

 なんか論文抱えてたらしいのに悪かったね、終わってからで良かったのに」

「いえ、祖父から任されたのが嬉しくって。論文より仕事の方が楽しいって実感しました!」


 二人の仕事の会話を邪魔しないように、夏美は斎藤に促されるまま、ぐるりと部屋を見て回ることにした。テーブルの上だけ天井が奥まってみえる。ドーム状に作られている訳でもないのに、中心が、そのまま宇宙に繋がっているように見えるのだ。このまま、誘い込まれていきそうな蒼。夏美は息をのんで濃い紺色の天井を見上げている。


 ビジネスの話は、どうやら好感触のようだ。遥が書類の説明を始めて、たまに嬉しそうに

「そう、その点を工夫したのですけど、はい、ありがとうございます」と言っているのが聞こえてくる。


 夏美は、ドアから数歩進んだまま、ただ見惚れている。

 古いお城の一室に迷い込んでしまったような気がしてきた。遥とVIP?の会話が聞こえていなければ、もうそのまま、一人で妄想の世界に行って戻って来られない気がする。


 後ろから遠慮がちに斎藤が促す。

「ご遠慮なさらずに、どうぞ奥の方にお進みくださってご覧くださいませ」


「あ、はい。ごめんなさい、見惚れてしまいますね。

 あの、私、博物館などに行くと、とても時間がかかってしまう人なのです」

 斎藤は鷹揚に頷いた。

「じっくりとご鑑賞くださる方にご覧になっていただければ、このお部屋も喜ぶと思いますよ。日頃、このお部屋は非公開ですので。

 今日、松本様と遥様がいらっしゃって本当にありがたいことと思います」

 そう言いながら、斎藤は夏美の背後に控えて、鑑賞する夏美の視界に入らないようにしている。そんな気遣いに感謝して、心ゆくまで鑑賞させてもらうことにした。


 明治時代に出来た洋館の一室のような、西洋と日本の伝統の良さを融合させた貴族の応接間といったしつらえである。

 ずしっと一歩一歩を受け止める絨毯、重そうな黒に近い紅の天鵞絨のカーテン、サイドボードも鈍く焦げ茶色に静かに光り、手入れの行き届いた銀食器はさらにまばゆいばかりで、自ら光を放っているかのようだ。シャンデリアはどちらかというと小ぶりだが、水晶の透明度がそうさせるのか白く煌めいていた。


 だが最も美しいのは、天井の深い青い色だった。

 地球が最も美しい姿でゆっくり回転して息づいているのを思い起こさせる。

 夏美は、宇宙の中にいて自分は大きな天体になってしまい、遠くの地球を覗き込んでいるような、リラックスした気分を味わっていた。


 焦げ茶色の大きなサイドボードまで歩いてくると、並べてある銀器に天井の紺色が映りこんでいて、先ほどまでの白銀の煌めきの中にそれぞれが青い宝玉を嵌め込んだ首飾りのように違うお洒落な姿に変身したかの様子に見えた。

「私を見て」

「いや、僕を褒めてよ」

 と銀器の妖精が競うようにして囁きかけてくる。


 夏美は、思わずふうっと溜め息をついて呟いた。

「綺麗ですね、宝石のラピスラズリみたい」

「これは、Azuriteというパワーストーンですよ。このティールームの名称の由来になったものです」

「お守りにしたいくらいの素敵な石ですね」

「お守りですか。

 硬度が低いのと、この石は変質してしまうので、純粋なAzuriteのアクセサリーやお守りはあまりお見かけしませんね。

 どちらかというと、弱い蒼の石です。硬度も低く、衝撃、紫外線、汗、水分、塩分に弱いデリケートな石で取り扱いが難しいのです。

 ラピスラズリと同じように砕いた末に、中世の絵画の絵の具、顔料にされたようです。

 アクセサリーならば、そうですね。

 やはり硬度の高いダイアモンドなら、永遠に劣化することのない価値があるのですが」

「…変質してしまうのですか?どんな風に?」

「マラカイト、一般的に孔雀石と呼ばれる緑がかった石になるそうです。ですから、純粋なAzuriteの本質を保とうとするには大変なのです。特別な『天上の青』と言う呼ばれ方もある位です。マラカイトの10倍の値段で取引された歴史もあるのだそうですよ。

 こちらのお部屋もAzuriteを変質させない為に、保存にはとても気をつかっております。それで、大切なお客様にしかお披露目出来ないのでございます」

「そうですか、勿体ないですね。少しずつ変質して緑色が混ざってきたとしても、とても綺麗で良い味わいになるかもしれないですのに。

 純粋なものばかり珍重するのではなくて、変質しても何か混ざってしまったとしても、元のそのままの価値を大事にして認めて欲しいと思います。

 私はさっき、宇宙からとても綺麗な地球を見守っているような、壮大な気持ちになってしまったんです、勝手に。

 だから、少しくらい弱くて変質しても、マラカイトになった部分を含めて、Azuriteが大好きになりました」

「おお!それはそれは。

 まさしくAzuriteへの最高の賛辞ですね。

 このお部屋がお気に召しましたようでなによりでございます。

 さ、そろそろお掛けくださいませ、松本様」

 と、斎藤さんが椅子を引いてくれる。

 遥達の方を見ると、紳士と遥が立って書類の山から移動してきていた。優雅に遥のために椅子を引いて待っているのは、意外に若い外国の方のようだ。


 スラリとした方がグレーのスーツを着こなしているととてもかっこいい。

 遥とその紳士が連れ立って歩いただけなのに、まるで美しい一幅の絵か映画のようで、なんだか現実じゃないみたいに思えてくる。

 斎藤さんも日に焼けたがっちりした感じの爽やかな体育会系の方で、なかなかのイケメンぶりだけど、外国の紳士はさらにスマートな感じだ。櫛で撫でつけた栗茶色の髪の額にかかる一部が仕事し過ぎてなのか、少し乱れてはらりと落ちかけてるところもかっこいい。スーツの会社の若社長がモデルも兼ねていますという感じだ。


「さ、お腹が空いてしまいましたね」と斎藤さんがベルを鳴らす。

 ウェイターが来る前に紳士が口を開いた。

「今日は良い機会ですから、先日のお詫びの意味も込めてお二人におもてなしさせていただけますか?」

 遥は嬉しそうに夏美を振り返った。

「え?どうする、夏美?」

「はい?私?あの、嬉しいですけど初めてお会いした方にそんなこと。

 ごめんなさい、私、自己紹介もまだでした。改めまして私は遥さんの友人の松本夏美と申します。はじめまして」


「ええ?夏美さん?」

 ちょっとオーバーに両手を広げて戸惑いのポーズを取り、笑顔を浮かべた紳士は、さらに年若く見えた。


「やっぱりねー。

 さっきから夏美がよそ行きの態度だと思ったわ」

 と遥が言った。

「あ、すみません、つい笑ってしまいました。僕からもやっぱりと申し上げてもいいですよね」

 と紳士に言われた。ちょっと声が笑っている。

 夏美は、その紳士に見覚えがないので、さらに戸惑う。


「あの、すみません、どこかでお会いしてます?」

 男性イケメン外国人モデルさんの知り合いなんて、自分にはいないし。


「僕、そんなに印象薄いですか、夏美さん」

「もう良く見てあげてよ。それともまたヒラヒラワンピを着てもらう?」


 え?紳士の顔を見た。

 戸惑う夏美に、にこりと笑いかけ、紳士は言った。

「こんにちは。改めまして。

 ラインハルト・フォン・ホーエンハイムです。

 とりあえず、ヒラヒラワンピはもう勘弁して欲しいですけどね。

 よろしく、夏美さん」



[2019年3月28日 一部修正]

《 硬度が低いのと、この石は変質してしまうので、純粋なAzuriteのアクセサリーやお守りは作り難いようであまりお見かけしませんね。

 どちらかというと、弱い蒼の石です。》

となっていた部分を見直し、現状の通りに修正しました。

筆者は、パワーストーンを扱っているお店などで事前にリサーチして書いておりましたのですが、ネットや文献等も調べたところ、『作り難い』訳ではなく、『取り扱いに注意を払う必要がある』ようです。汗に弱いということですが、ブレスレット等、日本でも販売されています。マラカイトと混ざっている《アズロマラカイト》という物もあるそうです。誤った表現をしていたことをお詫びします。


なお、Azuriteアズライトは、《天界と現実世界を繋ぐ霊性の強い石である》という謂れは、ほぼ多数説のようで安心しました。

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