67 《水の魂を共に抱き》 (10)
明日は、またライさんの家に行ける。家と言うか、博物館みたいな大豪邸だけど。
少し浮き浮きして明日の支度をしている自分に呆れながらも、持っていくものを整えている。店から直接、ライさん家の運転手さん(山本さんと言う人かな?)に連れて行っていただく予定なので、忘れ物をしてはまずいのだ。
ダンスシューズとか、ダンスの出来るフレアスカートと少しお洒落なトップス。
イヤリングもつけていこうかな。あ、耳が痛くなるから、退社時の着替えの時につければ良いかな。
アズライトのペンダントは、踊る時には外した方がいいかしら?鎖が少し長いので、踊る時にぶんぶん回しちゃいそうだし。
そう思って見ると、鎖の途中にも少し大きめの輪がいくつかあるのに気がついた。鎖の長短を変更できるようになっているみたい。丁寧な工夫がされている鎖だ。短めのチョーカータイプにして、鏡を覗き込む。
『きれいな石...』
思わず褒めた。
そういえば、一部かすかに緑色が出てきたような気がする。こんなに厳重に封印されていても、少し変質してしまったのかな?
でも、こういうところがやはり良いのにね。そう思う。
最初に神さまが作った形、色からすこしづつ変わったとしても、様々な光や熱、風などによる変化なんだから、すべてが均質化しているよりも、ずっと健全な個性化だと思うな。
トートバッグに全部詰め終えた。なんだ、ほぼ結局、いつものおけいこ状態の中身だわ(笑)。そう思うと、ちょっと緊張していたのが、ほぐれる気もする。
あ、汗をかくかもしれないから、もう一つ着替えを入れておこうかな。フレアスカートもウェストがゴムだから一杯食べられるメリットがあるけれど、きれいな焦げ茶色に白いレース襟のついたワンピースがある。そちらも、ゆとりがある。もしもディナーだったら、こちらの方が大人受けがすると思うけど。それに顔が少しは白く上品に見えないかなぁ...。身体にあてて鏡を見てみる。
やっぱり濃い色のドレスの方が好きだな...。実物より少し細く見える気もするし(笑)。
先日の薄いミントグリーン色のTシャツも、ライさんが褒めてくれたけれども。あ、レモン色のちょっとミモレ丈のワンピースもいいな、子供っぽいかな。タオル以外にお気に入りのハンカチも入れた。
...何を興奮して張り切っているの、私。
でも、ライさんに仕えている人たちが《婚約者候補かもしれないGF》が家に来るのを楽しみにしてるっていうことだから、ある意味、舞台に出る準備みたいなものだよね。
...そこまでは、自分でもちょっと女子力が上がったと思うくらいの行動だったが、つい思い出してにまにま笑いをしてしまった。
『美味しいものが食べられると思うよ、料理長がね、張り切っているんだ』
やった~!、結局、女子力より食欲が勝った。
ナイフとフォークのマナーも確認済み。美味し過ぎて『お替り♪』って叫ばないように、自制心をMAXにして、気をつけておかなくては...。
♣♣♣♣♣
ベッドに入り、いつものように目を軽く瞑って宝珠さんのイメージを思い起こそうとしながら、うとうとする。
あの穏やかな湖の上を吹き渡る風、フルートのような楽器の音の、子守唄が聞こえてくるような・・・大好きなイメージ。それを頭の中に描いていると、興奮している頭の中が落ち着いていくのか、とても良く眠れるのだ。傍らにおいてあるイルカのソフィーが夢の中に出てこないのは残念だけど、イルカは湖の生き物じゃないものね。
最近、もっとイメージが鮮明に見えてくるようになった。湖のふちに腰かけて足をぶらぶらと投げ出している小さな男の子が、丁寧に笛を吹いているの。その遠景にユニコーンとかフォーンとかがいるような気がする。たまに、ちゃぷん♪と音が入るのは、男の子が、自分の足先で湖の水面を蹴っている音なんだとわかった。
そう、それなのに今日は少し違っていた。意識は、その湖までたどり着くことは出来なかった。
風が吹いていた。そよ風じゃなくて、きついヒューヒュー音がする。窓格子が、がたがたと鳴っていた。
建物の中にいる、と思った。春じゃない、冬になっている。逆に、春の前の冬にいるのかもしれないけれど。
石造りの壁が寒さをじかに伝えてきそうだが、それでもほんわかと暖かだった。
守られている、でもあまり自由にあちこちにはいけず、永遠に出ることができない結界。
私は、うつむいていた。私は、裏切ろうとしている。
なぜか、とてもぐっすり眠れるお茶と、そして兄さまの優しい魔法...。
私は、守られているというのに、愛されているというのに、今、その魔法を破ってしまった。
鏡さえ手に入れれば、意外と簡単だった。
夢も、兄さまの瞳によく似た、蒼い透明な壁も、すうっと崩れて消えた。
兄さまは優しくてまっすぐな人だから。婚約したことで私がもう諦めたと信じていたのね。
私の好きなことを詰め込んだ夢。
『暖かな春の湖にずっといられればいいわね』
そう言った私のための、穏やかな夢。その中に閉じ込めて安心して。
そして、兄さまはまた、私を伴うことなく戦いに行ってしまった。
深い緑の中に囲まれて、守られているような小さな湖のイメージ。
爽やかな風と共にフルートの音色のようなものに耳を傾けたりしながら、伸び伸びと泳いだりしているような夢を私はずっと見ていた。
たまに、露か雫か何かが落ちて、ちゃぷんと心地良い音も混じるの。
嫌なことをすべて忘れて、きれいな景色を見て、ただその湖の中でくるくる回って泳いでいられれば、そういう癒しの光景をイメージしながら、気持ち良く眠れていられたのに。
君を助けたいんだ、愛しているから。
助けるためには、僕は...何でもする。
うつむいたままで、いた。もう心はとっくに以前から定まっていたのだけれど。
それでも、兄さまの優しい言葉にもう一歩が踏み出せなかったのだ。
心のどこかで、このタイミングを待っていたはずだった。
立ち上がらなくては...。伝えきれなかった私の思いを込めて。
どうしてお連れくださらないの?
私も兄さまの盾になりたいのに。
兄さまが私の盾になると誓ってくださったように。
どこか遠くで雷が鳴っている。風も強く吹いている。
暗い中で、黒いドラゴンが蠢いているようなギシギシした音...が聞こえる。
ガチャガチャと音を立てて空を駆けて近づいてくる、十数騎の軍団の気配。
これがユールレイエンなの?
白蛇竜の宝珠と穢れが共に身体に入ってしまってから、ずっと覚悟を決めているはずだったのに。
私をとどめようとした人まで虚しく死なせてしまっていたというのに。
どうしてここまで生き延びてきて、
どうしてここまでついてきてしまったのだろうか。
それは、やはり兄さまの夢を聞いたからだと思う。
自分の欲ではなく、神さまがもう一度地上を祝福してくれるようにと、ただその祈りのために一生を捧げるなんて。西洋と東洋の垣根を越えて世界を旅していくのだ、一族の夢だと言っていた。
この方ならば、私たちに負けてしまうことなく、本来の宝珠を授かることが出来るわね、姉さま。
宮原が持ってきてくれた鏡を久しぶりに眺めると、心が落ち着き、決心が出来た。
婚約式のための白いドレスを着た私を、皆がほめそやしていたけれど。
穢れを受けてしまう前に亡くなられた姉さまにこそ、それを着せてあげたかった。
私はわがままを言って、喪服になりそうな黒いドレスを一緒に作ってもらっていたのだ。
最後にそれを着ようと思っていたから。
そうしたら、きっと兄さまも...私の覚悟をわかってくださる、気がする。
昔のお話と一緒。運命は、けっして変わらないわ。
鏡を斬り、呪いを破ろうとしても無駄なこと。宝剣ですら、効果がなかったのだから。
まるで厄落としの形代のように、身の中に悪も穢れも潜んでいるのに。
光だけでなく、闇の部分も持ち合わせている宝珠、なのだから。
きちんと分離なんて、もとより出来ない。
鏡に映して、まがい物を作ろうとして分離しようとしてもだめだったのだ。
鏡を斬っても、生きている形代の姫が亡くなり、鏡を斬った若者も亡くなったのに。
常人ならばきっと私と共に死んでしまうわ。
それは、龍神の慈愛にまるで罠のようにひそむ、神の試練。
「あのお方は、黒竜を討伐に赴かれたらしいですよ!」
「ドイツの昔話の英雄といえば、ドラゴン退治ですからね」
「何をのんびりしたことを...」
「...やはり!こちらでは、全般的に竜は悪しきものだとか」
「テオドール様は、相当お強いそうです。あの槍の構え、急降下しての突き、もっと早くに...教えてくれていれば良かったのに」
「忌むべき『竜殺し』だったとは、まさに...竜を信じて祀っている我らの仇ではございませんか!」
「まさか、最初から龍力を悪用するおつもりでは」
違うわ、と私は思う。だって、私は知っていた。
兄さまは、命がけで私を守ろうとしているのだ。ずっと死にたがっていた私を引き止めて。
事態は、年々悪化していたみたいなのに。
...ユール(夜が最も長い頃)だからね、それはね、ただのおとぎ話なんだよ。
聞かせてあげる。
伝説の軍団が君を探しているのかもしれない。
目から口から炎を吹くもの
黒い馬、闇色の衣をまとったあの方のしもべ
それらの軍団は凍てつく夜空を駆けるのだ。
それでね、子供たちはみんな、ベッドの中でちゃんと寝ていなくてはいけないんだ。
終わったら、すぐに帰ってくるからね。それから、お祝いの宴をするんだよ。
一族の皆様の結界の力を私のために使ってくれての、むなしい戦いを繰り返して。
兄さまは、ずっと隠していた。
すでに何人もの犠牲を払っていたことを。
自分自身も最前線に立って死線を彷徨うような目にあったことを。
兄さまが他の方々のために、ひとり祈って泣いていたことを。
穢れたままの宝珠を用いてはならないとずっと思ってきたけれど、私の身体が大きくなるより、闇の力の増大の方が早かったのを兄さまは、気づいているはずなのに。
だからこそ、年々余計に黒の軍団の力が強くなっている気がしていたはずなのに。
「宝珠を守らねばなりません。ご決断を...」
私は、うなづく。
でも、ごめんなさい、私が一番守りたいのは、宝珠じゃないわ。
藤木も宮原もそして望む者たちは、無事に日本に帰れますように。
兄さまなら、きっと大丈夫。
兄さまがとても大きな力を持っているのは、ずっとわかっていた。
西洋の不思議な錬金術で、神の自然にあらがうことのできる人達。
兄さまなら、穢れを抱いたままの私をちゃんと殺しきれるはず。
全てを闇に葬って、力を尽くして宝珠を浄化することが出来たなら・・・。
人の姿をしていたら、情が邪魔して殺しきれないかもしれない。
この呪われた運命を断ち切って、兄さまが話してくれたおとぎ話のように
この力を正しいことに使ってくれるあなたの元に
神さまが許してくださったら、私...いつかまた兄さまに会えるのだろうか。
そんなバカなことを...!
夢の中で叫んだ。
どこかで、誰かが同じことを同時に叫んだ気がする。鏡のように。対のように。
お姫さまを止めなくては。何かが、間違っている。
まだ、お姫さまが宝珠を使う前、龍になってしまう前に来ることができたのだとしたら。
この夢こそ、チャンスなのだ。そのチャンスを生かさねば。
夢の中で、闇雲に駆けている自分を感じる。
今度こそ、決着をつける夢を見られたのかもしれない。
鏡の向こうには、きっと正当な光の勇者がいるのだろうか。それとも、《兄さま》が。
彼ならば、きっとお姫さまを守ってくれる。お姫さまを止めてくれる。
鏡のこちら側で、自分は闇の勇者を担っても構わない!
いや、むしろ...それになりたい!
今度こそ、今まで我慢してきた分を全部、たたきつけてやる!
どこだ、どこに元凶はいるんだ...?
闇の軍団の荒々しい行軍のリズムに、身を潜めていたはずの自分が呼応し始める。
いつの間にか、大きな塔の下にいる。戸外だ。今さっきまでお姫さまのそばにいたと思っていたのに。
来た、彼らはまだ蹂躙の前だ。自分は間に合ったのだ。その直前だ。
自分は望み通り、事態が悪化する前、騒乱の前に来ることが出来たのだ。
しかも、真の姿になる力が漲っているのがわかる。
たぶん、彼らがいなければ。黒竜どもの騒乱が起きなければ。
幸せも平和も踏みにじられることはなかったはず。
あの方が、心が裂かれるほど泣かずに済んだ。
あの方が、命を落としてしまうことなどないはずだった。
くくく...まさに、好機じゃないの。
知らぬうちに笑みを浮かべている。力がますます漲ってくる。
嬉しすぎるのか、いよいよ自分の中の力は、舌舐めずりを始めている...。
龍には正義の剣など必要がない。堅く巨大な身体。背中にはいつでも飛び立てる力を溜めた翼があるのを感じる。
敵は、まさに闇。討つべき仇敵。
正当性など要らぬ、慈悲の心も棄てて良し、かえって迷わずに敵に真っ直ぐ突進できる。
自分の獲物、と同時に神への捧げ物。それは、なんて美しい論理。
ぶるりと身体が震えた。
自分の心が2つの論理に身をよじられながら、答えを選択しようとしている。
ヤツラ ヲ センメツ セヨ...
ヤラレル マエ ニ ヤレ...
チガウ...
セイギ ハ ドコニ ...
タイギ ノ タメ ニ ココロ ヲ コロセ...
ナゼ...マヨウ?
ナゼ...ワカラヌ?
ナゼ...ソコデ トマル?
答えようとしているのに、 目が見えない...。
裁判の女神の像のように目隠しをされているみたいな...。
ああ、早く!時間が無いのに、力はあるのに、身体が動かない...。
暗転する...お姫さまを助けたい、ただそれだけを願って頑張るはずだったのに...。
なぜ、余計なことを考え始めてしまったのだろう...。