64 《水の魂を共に抱き》(7)
…今日は、お机の上が比較的きれいに片付いているのだな。
リネンと食材の入れ替えに来た木藤は、半分安心し、半分がっかりしながら机の前を通り過ぎてベッド横の収納棚に、リネン類をおさめた。それからすぐにラインハルトの居室内のミニキッチンに通じているドアを開けた。
シンクに哺乳瓶が一つ転がっている、見慣れた光景。
久しぶりに主の部屋に入ったのだが、つい微笑んでしまう自分がいる。
執事の姫野に何回となく叱言を言われているようだが、どうやら未だにご愛用らしい。シンク横にも、二本、軽く水洗いして伏せてあるのを発見した。付け替え用の乳首も洗ってきちんと置いてある。
「しょうがないお人だ。大人びた言動をしたかと思えば、子供っぽく振る舞われたりするのだから…訳がわからん」
主の気配のない気安さからなのか、つい独り言をつぶやいてしまう。
ずいぶん長い間接してきたけれど、やはりつかみどころのない方だと思う。そして、自分が主を心理的に受け入れていない気持ちがあることを申し訳なく思った。
ラインハルト様は…時間軸を狂わされるまま、まるで“普通の”人間のように生活している。不思議というよりも、むしろ不気味な話だ。
最初に聞いた時には、俄かには信じられなかった。逆に、真実を知りたいと詰め寄ってしまったことを後悔したほどである。
きちんと現代社会で事業の成功を成し遂げつつ、それでいて淡々と、《協力者》として秘密も一切明かさず、彼ら一族と交流を続けている龍ヶ崎善蔵の大らかな性格が羨ましい。
神経質な自分は、最近では考えすぎないようにしてなんとかやり過ごしている。
そもそもの始めから、理解など、まったく出来なかった。
請われて一族の中に立ち混じって何度か試させてもらったから、効果のほどはわかる。不老不死とまではいかないらしいが、格段に寿命を伸ばす低温冬眠装置。そして、その神をも畏れぬ技術は、世の中に出ることなく進化し続けてきたようだ。
その技術を悪用することも、また悪用されることも恐れて、“普通の”社会から離れて厳しい戒律と結界を設けて、その中で暮らす錬金術師の末裔たちと従者たち。相当な人数(規模の小さな国程度?)がバーゼル近郊だけでなく、世界中に散らばっているらしいのだ。彼らは、未だ果たされていない一族の信念のもとに結束している。世の中に存在を知られていない、いわゆる秘密結社のようなものだ。幸いなことに、自分の知りえたことは少ないらしい。
あの時、ラインハルト様は穏やかな口調で言ったのだ。計り知れない力に自信があるからこそなのか、脅されていることを気にも留めず、無防備におとなしく座ったままで。
『あまり詳しいことを伝えることはできないんだ。
あなたたちが、《協力者》の立場のままという平穏無事な存在でいられなくなるからね。あなたたちがいずれ、僕らから離れたいと思った時に、それが許されなくなってしまうと不自由でしょう?』
ぞっとしたのは、それだけではない。
『大丈夫、いざとなったら、全てを忘れさせてあげられることは出来るから。
記憶をなくして秘密が漏れない保証さえあれば、誰もあなたたちの命まで取ろうとはしないだろうからね』
まるで、紅茶をもう一杯飲むか飲まないかの話をしているようだった。しかも、
『そのお茶にお砂糖はいかが?』
と言っているかのような態度で、緊急自決用?のカプセル状の薬みたいなものをくれた。その効果も…かつて目の当たりにしてしまったから、何となくわかっている。ほとんど苦しまずに、あたかも自然死のように死ぬことが出来る薬。…ただただ恐ろしい。
ただの田舎者の自分が、こんな人生を送るとは思っていなかった。もう身を引いていいだろう。
美津姫さまは亡くなられたままで、復活することが叶わなかったのだから。かの一族なら、それほどの大きな奇跡も起こせるのかもしれないと、どこかで期待していた。が、逆に奇跡が起こらなかったことで胸をなでおろしたのもある。
それで良かったのかもしれない。
自然の摂理に逆らってまで生き返りたいと望むお方ではなかったはずだ。おかわいそうに、まだ美しくお若いままで亡くなられたが、お苦しみからは永遠に解放されたのだから、それでいいのだ。
最近、そう考えている。
ラインハルト様と初めて会った時は、13歳くらいに見えた。
時を飛び越える命運を背負わされた一族に生まれて、その中でも特別に選ばれたらしい少年は、ここに至ってようやく青年らしくなってきたように見える。低温冬眠装置を使っても少しずつ成長をしており、一族の者たちが言うように確かに今が一番の充実期かもしれない。精神と肉体のバランスが取れておられる。
一族の中にあって、ただ過去の栄光と豊かな資産を受け取り受け渡すだけの、のんびりとした跡継ぎである方を選ぶことも出来たはずなのに、苛酷な方の運命を選択したのだと、聞いたことがある。
あの暗い棺桶のようなものに強制的に閉じ込められている時間の方が圧倒的に多い人生を受け入れて、淡々と《ラインハルト様》として生きている。たくさんの知識、たくさんの訓練、たくさんの努力を重ねても、それでもなお実ることが定かとは言えない人生を送りつつ、まっすぐな精神を保とうとしている。
龍ヶ崎神社に来た経緯も、不思議な話だった。
伝説の青龍(の使い)と会い、お札を託されたという。日本の古来の真珠竜を助けて力を授けてもらう約束をしたから、わざわざ来たらしいのだと宮司の善之助さまから聞かされた。
途方もない、噓話だと思った。
立派な宮司さまが、目に見えない不思議なお札を感じることが出来たと自分たちに話した時には、日本語をなめらかに話す、西洋人の子供の詐欺師に騙されているのかと失望したくらいだった。だが、数人の村人たちが同時に不思議な伝染病のような高熱を発した現象がたちまちおさまったのは、紛れもない事実だった。
それからも、美津姫さまに心から同情し、古い怖ろしい伝承の犠牲にならないように心を配ってくれていた誠実な知性的な人間だとは思う。
が、どうだろうか?思考が正攻法すぎる主に不安を感じることもあった。
判断の速い者は時として頭が良すぎて、見えていないものや理解できていないことの存在を最初に切り捨ててしまっていることが良くある。
神話と伝説を信じた錬金術師の途方もない夢の実現のために、自分自身もまた美しく整えられて神に奉げられる生け贄であるかもしれないことに、あの頃はまだ気づいていなかったのではないか。
その錬金術師は『100万年に一人の天才だった』と彼の子孫たちは固く信じている。狂信だ。長く続いている一種の集団陶酔だ。
神を信じ、敬愛しているのならば、何故自然に生きて自然に夢を継承し続けなかったのだ?
神も神だ。
何故、時間軸を狂わすような究極の知識の果実を、何故その錬金術師に与えたのだ?
いや、もしかしたら、神のご意思ですらなかったかもしれない。
炎を人間たちに勝手に与えたプロメテウスのように、イブに果実を食べさせた蛇のように、裏切り者が存在したのだろうか。
木藤は、とりとめのない考え事にふけりながらも、機械的にキッチンを整え、食材を入れ替えていく。
天然プルーンのジュースが著しく減っているな。そんなにお好きだっただろうか?
そういえば、最近は貧血症状を訴えておられたが、もう少し増やした方が良いのだろうか。根を詰めておられるとしたら、もっと他のものもお勧めした方が良いのだろうか。
やはり、そろそろ、忌まわしい伝承が終わりを告げるのだろうか。それは喜ばしい。だが、東洋の宝が西洋に渡ってしまうことを意味しているではないか…。
閉めていたキッチンドアが急に居室側から開いて、びっくりした。
考え事をしながら単純作業を行っていたので、気配には気づかなかった。
「あれ?わぁい、ホンモノの木藤だ~。久しぶりだねぇ」
ぎくっと反射的に身体を固くした。
部屋の主ラインハルトが、バスローブだけをまとったような状態で入ってきた。どうやら、居室を隔てた反対側のバスルームにいたらしい。濡れた髪をタオルで拭きながら、飲み物を取りにきた風情だ。
相変わらず、スラリとした美しく完成された肢体。
このような歳を重ねた爺になっていても、つい見とれそうになってしまう。
真剣な表情でいる時はともすればきついまなざしになる青い瞳も、笑みを浮かべている時は人懐こくて、いかにも柔らかい。
そんななりで全く緊張もせず、普通にハグをしようと近寄ってくるので、慌ててブロックするかのように食材の籠を抱え、後ずさってしまった。漂うフルーツの香りのする石鹸の匂い。
照れたような顔をして慌てて、ラインハルトが腕を引っ込める。
「あ、…ごめん。久しぶり過ぎて、つい…そこから飲み物を取ってもらってもいい?」
「もちろんです。今、入れ替えたばかりのものは少しぬるいので、何がよろしいでしょうか?」
「えーと、あ、哺乳瓶を洗ってくれたんだね、それにアイスコーヒーを入れてもらってもいい?
乳首はそこにある果汁用のヤツで」
「…かしこまりました。勝手にメンテナンス作業に入ってしまって申し訳ございません。先ほどお出かけされたものとばかり…」
「今日はね、午前中は半休にしてもらったんだ」
もう一度、主の顔をよく見れば、少し青い顔をしているようだ。
「そういえば、少しお疲れのご様子ですね」
「うん、だから、もう少しサボってから出かけるんだよ」
「ご無理はなさいませんように」
「うん、ありがとう。大したことないんだけどね」
「プルーンのジュースの数量を増やしましょうか?」
「ああ、そうだね、じゃ、ついでにトマトジュースやオレンジジュースも増やしてくれる?
どうやら、水分の摂取量を増やす必要があるみたいなんだ」
「体調が、お悪いのですか?」
「まぁ、大丈夫だよ。僕は自分で良い方だと思うんだけど。
お医者さまと姫野以外にマルセルまで増えて、少し無理をするとガミガミ言われているからね、気をつけているし」
「何か、他にリクエストなどありますか?」
「ジャンクフードが、食べたいなぁ」
「は?」
一瞬、出会った頃の少年の表情そのものに見えた。
「冗談だよ、ごめん、大丈夫」
「…」
「今、思いつかないから、またメモで置いとくからね、ありがとう」
笑顔を向けられたので、木藤は、話を始める。
「あの、それはそうと、先日のお話なのですが、…」
寄る年波には勝てないという理由で先日お暇を申し出たのだが、引き留められてしまっていたのだ。
「あのさ、年末のユールの儀式のために再度、実家の城に一緒に行こうとは言わないからさ、せめて僕の、日本でのパーティに出てからにしない?」と。
『パーティは嫌いだ』とその時、必死に伝えた。
そんな晴れがましい場所に出ていける自分ではない。
お仕えした美津姫さまが亡くなって久しい。後藤さんも善之助さまも、そして自分の分身のように思っていた同僚もすでにこの世にいないのだ。たくさんの責任を感じている。
なぜ、あの時にあのような選択をしたのだ、自分は間違っていたのか。
皆さまの供養をしつつ、故郷で短い余生を送りたい。わかってくださっただろうか。
ラインハルトは、うなづいた。
「うん。この間、パーティも嫌だと言っていたよね、…木藤の気持ちもわかったから、もうちょっと待って。本国の許可はもらえたよ。
それから今、善蔵に頼んでちょうど用意を始めてもらっているところだから。小さな家だけど、近隣の村に残っていた古民家を譲ってもらえるそうだから、手入れをしたら、十分に快適に住めるそうだよ?」
「!…ありがとうございます。でも、そんなことまで…」
「そのうち、秘書の方から説明が来ると思うんだ。気に入るかどうか、現地にも見に行ってもらうけど。昔と似たような感じだけど、設備は新しいらしいよ。
でもさ、木藤の体調の良い時にせめて、夏美に会うか、一目眺めさせてあげたいんだけど…」
「あ、そうでした。夏美さまのこと、おめでとうございます」
「え?」
少し顔が赤くなった。
「あ、そうか。木藤とその話をしていなかったもんね。
皆、喜んでくれるけど、まだボーイフレンドの一人になれたところなんだよ」
「うまくいくとよろしいですね…」
ラインハルトが、真面目な顔で見つめ返してくる。
「相変わらず、木藤は嘘が下手だねぇ。本当は反対で、心配もしてるんでしょう?」
「申し訳ございません。どうしても…今までの前例のことを考えますと…」
「うん。わかっている、難しいことだから保証は出来ない。でも、今度こそ僕の命をかける」
「そんな…そういうことを申し上げたいわけではないのです…」
最後まで言えなかった。どう説明をしていいか、わからないのだ。
言っても無駄なのだ。
既に決まったことだ。結局、そういうことなのだ。
いつまでたっても、平行線の議論になってしまうだけだと思う。
美津姫さまの決心も固かった。
仕えているだけの自分たちの行動は無駄なのだと思い知らされた。
そして、上に立つ者は何か優しい言葉を思いついて、下にいる者を説得しようとしてくる。
「せめて、…夏美だけでも助けて、ハッピーエンドにしてあげたいと思うんだ」
心の中でため息をつく。
所詮、この方とは視点が違うのだろう。
この方は、敗北の味を忘れたのだろうか。苦い涙をも。
この方は、まだおわかりになっていないのか。
一生懸命にやれば上手くいく、なんてはずはない。
自分だってまだよくわからないので、とどめていいのか、躊躇している。
「あのさ、12日の夕食に招待したんだよ?…木藤も、その日に来てくれるかい?」
「とんでもない、晴れがましいお席になんて、おゆるしくださいませ」
「…うーん、じゃあ、せめてどこかで…」
「かしこまりました。書斎か廊下か、どこかおふたりで歩いていらっしゃるところを遠くから拝見するだけなら…。正式にご紹介なんてされたら、自分としては身の置き場がございませんので」
「本当に?…良かったよ、美津姫の生まれ変わりではなくても、やはりあの高貴な血筋の一族の方がまだこの世に存在している、そんな奇跡を目の当たりにすると、木藤も感激するだろうと思うよ。
木藤、ありがとう」
「いえ、…お礼を申し上げるのは、こちらの方でございます」
つい、反射的に言ってしまったが、本当はまだ気持ちがすっきりしていない。
そうだろうか、お礼を申し上げるところだろうか。
撤退して覚悟を決めて滅びを自ら迎えるはずの一族ではなかったのか。
神社も湖も、既にもう無い。人々の生活から、心からもとっくに滅びている。
忘れ去られ、地の中に人工物のダムの中に埋もれてしまったのに。
現代的な工作物によって、治水対策も万全で、もはや龍神の加護を受けたい願いなどはない。
それなのに、なぜ茨の道を進むのだ?
神の安らかな眠りを妨げて、呼び覚ましてしまわないのか。
そうだ、最初からずっと矛盾している話じゃないか。
相反する2つの使命。助けねばならないということと、滅びを迎えねばならないということの2つの相反する使命。なぜ、こうも歪なのだろう。
ラインハルトは、そのまま居室へと戻っていき
「ごめんね、あともう少しだけ眠るから。姫野に起こしてもらえるよう頼んであるんだ」
と、哺乳瓶を抱えたままベッドに横たわる。
「…どうぞ、おやすみくださいませ。申し訳ございません、私の用で、お邪魔が過ぎました」
「ううん、レアキャラ化した木藤に会えて嬉しかったよ。心配させてごめん。
あのね、木藤。…とにかく僕は幸せなんだよ。善蔵に会うと、とても羨ましく思うけれどもね。
それでも、僕は大丈夫だからね」
「はい…でも、ご無理はなさらないでくださいませ」
ドアを閉めて退出する。
お疲れのご様子だった…。以前もそうだった。
たぶん、自分で背負いきれるものは、一人で全部背負おうと思っておられるのだろう。最後の悲劇を迎えねばならないと、覚悟を決めたのかもしれない。
それをなるべく覚らせまいとしているふしがある。
お仕えしているたくさんの人間に囲まれながら、彼は…ラインハルト様にはそういうところがあるのだ。
それが、彼の長所であり、弱点でもある。
先日、書きなぐったメモを机の上で見た。いっそその話をしておいた方が良かったのか?いや、これ以上の邪魔はできないだろうし、それもまたはぐらかされるかもしれない。
ラインハルト様の絵は判別不能だが、字は流麗で読みやすいほうだ。
一見すると、Azから始まる単語を3つ書いてあるだけのようだった。3人の乙女という独語もそばに書いてあり、その乙女の名前かと思ったが、違うだろう。 お側に仕えているから、そのうちの2つはすぐにわかったのだ。
Azurite、Azimech、AZoth…
Azuriteは、パワーストーンであるアズライトのことである。世界中、普通に取り引きされている鉱物だ。だが、ラインハルト様の一族が、その脆くて変質しやすい蒼い鉱物を特に大切にして珍重しているらしいのは知っている。
AZothは、一族の始祖である錬金術師が持っていた杖の銘である。杖状であるが、剣が仕込まれている他、『賢者の石』が嵌めこまれているらしい。一説によると、錬金術師が悪魔を閉じ込めて使役していたとのことだ。現在は、一族の城の宝物庫の奥にあり、特別な儀式の時でないとそこから動かすことすら出来ないと聞いた。そのため、一族の中でも目にする者はごく僅かだそうだ。
Azimechという言葉は、今まで見たことがなかった。
ラインハルトや、周囲の者に確認することは出来ずに、木藤はひっそりと街中に出て、本やデータの検索をして調べてみた。
『守られていない』、そういう意味を持つ、古いアラビアの言葉だそうだ。
もしかしたら、これが本音なのかもしれない…どんな気持ちで綴ったのか…お気の毒な…。
そうだ、美津姫様だけでなく、ラインハルト様もお気の毒だ。
自分たちのために周囲が命をかける。
自分たちの意思に反して、他の人間が自分たちのために亡くなっていくことに償いきれない思いを抱えたまま、期待されたまま、偶像のようにまつられたまま、それに応えようとしている。
そうだ。確かにまだ隠居は出来ない。
やり残したことがある。心残りはある。
ここまで生かされていて、自分の使命をきちんと果たせと命じられているような思いは未だ消えていない。
言い訳などできない。
自分の手が罪にまみれたまま、生きのびてきてしまったのだから。