56 《風を喚び、飛翔する者》 (9)
え?まだ夢から醒めない?
醒めないままに、ただ堕ちていく…。
もしかしたら、最初からすべて魔法使いが仕組んだ罠?
落ちていきながらも、もう一度、あの青い色の透明な壁を振り返ろうとしたのに、
せめてもう一度、お姫さまの姿を見て勇気を振り絞ろうと思ったのに、
何もない空間…しか見えない…
堕ちるのは嫌だ、ここで死んだら、自分はどうなってしまうのか?
もうみんなに……に逢えないかもしれない…。約束したのに…。
お姫様じゃない誰かを思い出しそうになり、思い出すことが出来ずに、次の一瞬で儚いシャボン玉のようにその思考がはじけて割れた…。
絶望感で気が遠くなりかけて…いや、ダメだ!
その一瞬というか、その『ダメだ!』の勢いで何か振り払ったみたいな感じの後、堕ちていく勇者を自分が眺めていた。
ん…?
…視点が変わっている。
自分は今、勇者だったはずなのに、まるで勇者につきまとっていた、蚊か、蝿みたいな視点で、今まさに堕ちていく勇者を眺めている、みたいなのだ。他人事のように。
死にたくないと、今、自分の魂だけ抜け出たのか?
勇者の身体から、思考だけ逃げ出して来てしまったのか?
なんという情けない自分…。
この螺旋階段から投げ落とされたまま、一階まで転落する勇者はどうなるのか…まさか私が抜け出してしまったってことは。
もしかして、勇者さん本体?は、気絶とかしてないよね?
塔の一階の床に、何かが見える。彫像じゃない、動いている。
3人の乙女が1つの鼎を支えて、円を描いて見事に舞っている。
ああ、そうだ、そう、これなんだよ。
私が、以前どこかで見たのは。こうやって、少し上から眺めていたみたいだ。
やはり、螺旋階段のある建物の一階にいきなり出現したみたいなのだ。
…感じる。上昇する螺旋のような動きの風。
あの、祈りにも似た踊りは、風を起こす動きなのだろうか?
その風を受けたのか、くるんと勇者が器用に上下のターンをした。
鉄棒で前回りをしているように自然な動き。頭から真っ逆さまに堕ちていたというのに、そうやって空中で体勢を立て直した。当たり前のように。
黒っぽい髪を無造作に括り、ギリシャ風の衣装に編み上げサンダルを履いた姿で、諦め切れてなどいないという感じで上の方を窺っている背中を、今、自分は見上げて応援し、安堵しているのだった。
どうやって、あの勇者は飛んでいるのだろう、翼をはためかせているようには見えない。翼が見えていないし。上昇気流を感じているのだろうか。
明かり取りの小窓からたくさんの光の筋が落ちている、こうやって、下から見上げてみると、それが良くわかる。さっきまでちゃんと感じていなかったけれど。たくさんの光が降り注いでいる。
その筋を勇者が通過すると、まるでプリズムの効果でもあるのか、虹色の光がきらきらと分散する。下から上昇する風で、光が揺らぎながらきらめいている。
拍手して褒めたいくらいの(でも、そういう行動が取れないのだが)、美しい光景。
ああ、そうだ、やはり、間違いなく、これが光の勇者という者なんだろう。
羽にも透明なものがあるのだとしたら、そういう透明な虹色の羽を広げていると思いたいくらいの輝ける…えーと…
また、泣きながら目を覚ましたんだと、夏美は思った。鼻の奥がツーンとしている。
久しぶりだな、いつものことだけど…何の活躍もしないまま、自分は誰の役にも立たないという失意の中で起きるのだ。
今すぐにとって返したいといつも感じていた、と思うけれど。
そうやって完璧に夢から醒めきれずにぐずぐず泣いているうちに、すぐに記憶が薄れていく悲しい夢。
見るたびに忘れるが、夢の中に戻ると、いつも思い出すリアルな夢。
必死にお姫様を助けようと繰り返し行くのだけれど、繰り返し繰り返し、失敗するのだ。とにかく会話が成立せずに、もどかしい思いで辛くなる。
良くある、《血湧き肉躍る、心が弾むようなRPG》なんかにはならない、惨めに失敗する夢。
夏美は反射的に起きて、見たことをメモに取った。失望してめそめそしている場合じゃない、覚えているうちに書いておかないとまた、あっけなく忘れてしまう。
今日は、さらにいつもより自己嫌悪をしている。がっかりしている。
ずっと自分のことを勇者本人だと思い込んでいたのだ。子供の頃からずっと。
その、能天気な思い込みによって、嫌なことがあっても、刹那的に『なんかもう、死んじゃいたい!』みたいに思っても、どこかで踏ん張れていたんだと思う。
でも、本当のところは違ったようだ。
いざ、死にそうになると、勇者の身体から逃げ出した自分…。
現実でも、何やってんだかの自分なのに、夢の中でもいろいろとダメな自分だった。
剣も持っていないようだし、あの声のように
『我に正義あり』
なんて、自分はとても言えない。
正義の何たるか、善悪の判断基準もわからないのに。
それでたぶん最後に勇者じゃなくて蠅みたいなものになってしまったのかも。
自分は、光の勇者じゃなかった…。
というショックも大きいが、今日こそ、チャンスだったかもしれない。そう思うと、失敗したショックはさらに大きい。
夢の中で自分は、こちら(夢の中)が現実で、夏美として生きていることをちらっと脳裏にうかべて、そちらの方が夢なんだと考えていたくらいである。
決着をつけるつもりの気概は持っていた。…準備不足だったらしいけど。
そう、マルセルさんだって、最初に踊ってくれた時、何か不思議なことを言っていたんだ。
時が満ちた、とか。まさか、予言ではないだろうけれど…。
本当に、ようやくもらえたチャンスだったのかもしれないのに。神官みたいなマルセルさんが、神殿とかで剣を授けてくれる役を夢の中でしてくれたら良かったのに。
剣を持たない、準備不足の勇者なんて。設定ミスなんだから。しかも、登場キャラが2人で。ワクワクするようなバトルシーンもないなんて…。
光の勇者…確かなにか名前があるはず。
光…あれ、そういえば、〔光乙女〕…?そういう呼び名を聞いたことがある。
どこかでそういう名前を聞いたんだ、いや、自分の名前として聞いたわけじゃない。
どこで聞いたんだっけ。
いや、ちょっと待って。さっき、お姫様が自分を何かの、誰かの名前で呼ぼうとした、あれは、うーん。剣の乙女?
誰、それ。何か途中で違和感があった…。
なんだっけ?…頭が少し痛い。それに、まだまだすごく眠い。
時計を見たら、まだ4時だ。ちょっと安心した。出勤まで寝直せばいい。
もしも、またリベンジ出来るなら、その時は剣を持っている勇者でありますように。
ああ、違った…。
自分は、勇者のまがいもの、ですらない。
勇者に付き従う妖精でもなさそうだ、ティンカーベルだったら、まだ役どころがあるのに。
思うまいと思っても…思った。
自分なんて…ただの蝿、なんだよう…。
次、ちゃんと自分が前足をこする蝿かどうか見てやらねば…。本当はそんなの正視したくないけど、なんか自分自身を正視しろとか説教していたのが居たし。
次に会ったらピシャリと報告してやる。開き直って。
え?もっとkwsk?蝿の種類がいくつあるかなんてわからないよ、しかもオスかメスかもわからないし。違う違う、こんなくだらない話じゃなくて。
お姫様を助けたい、だけなのに…
どこかで鈴がシャンと鳴った。ひと呼吸置いて、またシャンと鳴る。
一つの鈴の音じゃない。完璧にタイミングが合ってる。複数の鈴が和して鳴る。
薄暗い中で、そう、どこかの神社みたいな…板敷の空間。
夜明け前か、日暮れたばかりかの明るさを秘めている暗さの中に、白い装束に紅い袴の巫女姿の3人が鈴みたいなものを手にしている、もう片方の手には、数本の稲穂、麦の穂みたいなものを手にして輪になって踊っている。
豊穣を祈っているのかもしれない。笛の音もしない、鈴の音だけだ。いや何か祝詞のような声…でも、か細くて何を言っているのかわからない。
良く見える前に、暗転した。
空中に浮かんでいる。
やっぱり自分は蝿かなにかなのかもしれない。
神社と湖が見える。か細い月。
鈴の音、か細い祝詞。まだ聞こえている。
感謝の祈り、みたいな。召ませ、と聞こえる。
お供物とか何か実りを捧げているの?
田や里に水の恵みを与えてくれたことに。
光と風と土に。感謝を。
向かってくるもの。還っていくもの。感謝を。
小さな真珠色した流れ星が湖に落ちたような気がした。
ちゃぷん、と。
湖に、その波紋がぐるぐるの輪を崩さないまま、ゆっくりと広がっていく。
どこかで聞いた水の音。
穏やかな…守られている静けさの中。
そんな、とても穏やかな光景の中で、なぜか自分は剣を思い出した。
剣を探さなくてはならない気がした。そう、今度こそ剣を。
でも、誰かが話していたんだ、誰かが。
そう、誰かが剣を湖に投げてしまったイメージ。力を悪しき方向に…(使った?っていう話だった)
あの山の中。山のてっぺん近くにある小さな湖。
喚ばなくてはならない。心の中で誰かがそう言ったみたいに。
喚ぶ…?剣を?風を?
どうやって…。
……『劔は、お返し申した』と、唱えよ。
そうよ。そんな話だった。護りの言葉。
昔、一族の中の誰かが血気にはやり、猛り狂って儀式用の大切な剣で誰かを殺めた。
その者と共に、剣は湖へ。
竜神さまに劔をお返し申すと、誓ったのだから。
三つの宝で支え合っていたのに、栄光と共に力は失われた。
我らは没落して衰退していく一族。逃げて隠れて、せめて最後は穏便にと、赦されている場所で滅びを迎えんとする。他の宝も神にお返し申さねばならない…。
どうして…?
自分の中に『喚ばなくてはならない』と、『お返し申した』の、相反するものが響きあっている。しかも、打ち消し合うこともなく、どちらもいるのだ。
どうして…?
お姫様を助けたいのだけど…。剣は必要なものか、忌避するものか、わからない。
穏やかな祝詞なんかじゃない方が、強く心に蘇り始める。
これ、もしかして勇者が剣を喚ぶ時の…?
ワレ 二 セイギ アリ…
ワレ 二 セイトウセイ アリ…
ユエニ…
ワガ チカラ セイギ ナリ
テキ ヲ ホロボスコト セイトウ ナリ
……
そこまで頭の中で展開しかけて、あ!と思った。
頭痛しそうな衝撃に思わず頭を抱えた。
頭の中に、いきなり雷撃のような、稲光りのような言葉が甦った。
絶対に忘れてはいけない、護りの言葉。三つセットだった!
お婆さま。
奈良のご本家の、あの、ぞっとするくらいに冷んやりした空間の、怖いくらいに白く光っていたお婆さま。
何よりもまずはそれを大事に覚えよ、と。誓え、と。
せめて、赦されて逃げのびよ、と。
……『劔は、お返し申した』と、唱えよ。
無用のことはするな。
分をわきまえよ。……
良いな、余計なことを考えるな。安易に力を使うてはならないのだぞ。
全て失われた。そう思え。
滅びのために力を使えば、身の破滅。一族も瓦解し、離散した。
が、かえって…もうそれで良かったのだ。
何も知らない者たちを巻き込んだり、傷つける恐れも失われたからの。
湖も神社も既に没した。
分をわきまえて、静かに暮らしていけば…幸せなのだからな。
いざという時は、唱えよ。
『劔は、龍神様にお返し申した』と。
《meden agan》『過剰の中の無』
デルポイの神託を求める者に対する3格言の二つ目。デルポイのアポロン神殿入り口に刻まれていたと伝えられている。
《過ぎたるは猶及ばざるがごとし》、《分をわきまえよ》等と同義とされる。
アポロンは、神と人を峻別し、神と似た姿を与えてもらっているが、人は明らかに劣っている。故にそのようなものたちに多くの知恵、力、神託を与えない方が良いと考えていたとされる。