50 《風を喚び、飛翔する者》 (3)
?…この者は確か、異国の龍人とか申していた者だったか…?
艶のある黒い髪を無造作に括った、まだうら若き少女である。何か不穏なことが起こりかけている、この状況に怯えてもいない勇敢な少女。生まれながらの龍力を授かっている女戦士と言っていたか。龍形として生まれたピュトンが、ずいぶんと嬉しげな様子だったが。
「三姉妹…?」
想定していない言葉を聞いて戸惑って、足が一瞬止まってしまった。
現在の状況に慌てているからこそ、混乱しないように一つひとつをきちんとこなそうと思いつめていたのである。それで、自分はまずは女神テーミス様を探しに来たというのに。自分の頭の中にぼんやりと靄がかかっているかのように頭を振って、部屋をぐるりと眺めた。
女神テーミス様…は、神託の部屋にもいない。やはりご不在のようである。
そう言えばテーミス様は、確かに三姉妹の女神をお産みになられたはずだが、それも昔、この神殿には、いずれの方々も元よりいないのだ。
それなのに何故、この者は…不思議なことを申すのだ…?
「すみません、あそこに…」
祭壇の奥の方を、少女の白い指が示す。
だが、太い円柱が数本林立して、良く見えなかった。高い位置にある天井を支えている祭壇のある大広間なので円柱だらけなのだ。慌てて円柱の間を進み、見通せる場所に立つ。
「あ…!何ということだ…」
それは、とうに忘れていた久しぶりに見る光景だった。
三体の蛇が生き生きと、神託の祭壇の上や下へとうねうね、這い回っている。つやつやとした鱗を光らせながら、くるくると楽しげにのたうち回っているのだ。久々に蘇りを果たし、その喜びを表すつもりなのか、まるで円舞しているかのようだった。
気の弱い巫女たちが見たら、卒倒するではないか…!
テーミス様は、三脚椅子に座って黄金の鼎を支えて神託を授かるのだが。
実は、それは元々三体の蛇だったものがテーミス様をお支えしているのだった。彼女らは、夢見の龍ピュトンと共に、テーミス様にお仕えしているのだ。本来、このガイア様を讃える神殿では、神聖なる三匹の蛇が頭上に黄金の鼎をいただいたのが、元の神託の謂れだから。
神聖獣、魔獣の種族は、真の姿などなかなか見せないはずなのだが…。
「ごめんなさい、つい…意気投合して…一緒に夢中になって遊んでいたものですから…」
と、少女は少し顔を赤くして詫びる。
ああ、そうか。この者は確か東方の白蛇竜の、とか言っていたか…。
龍族、龍人族のことも良くわからないが…とりあえずこの地の神聖なる蛇族のことなら…。テーミス様に教えられていたことをなぞれば良いだけなのだから。…苦笑して、普段の化身に戻る術を行う。
三匹の蛇は、あっという間にきちんと整列し、三脚鼎の土台となった。これでもう、彫像の一部にしか見えないだろう。
大丈夫だ、もしもあのお方が攻めて来ているのであれば、抵抗しない静物や像の類などを破壊されるような真似は、あのお方ならばなさらないだろうから…。
そう言って安心させてやろうと思い、後ろを振り返ると少女はすでにいなかった。
しまった、あの者は、跳ねるように駆ける子供だった。人の身の姿のまま、門番でもあるピュトンの元に駆けて行ったか…!
剣を振るうなと、先に注意をするべきであったが。言う間も無かった。
慌てて部屋を出て扉を閉め、大きな音のする方へと向かう。
侵攻してくるとみられる相手は、大いなる神なのだ。
しかも…最高神の御子神でもある。
しかし、何としたことか。女神テーミス様のお留守に急襲なさるとは…。
夢見の龍ピュトンも…そこまでは見通せなかったのだろうか…。
いや、我らは…他の幸福の為に身を捧げるのが勤め、自らの運命を占うことなどしないのだったな…。
だが、ゼウス様がこの地(神殿を含めて)を指差したというお噂は、…確かなことらしい。
せめてテーミス様のお戻りになるまでは、あのお方を傷つけたりせぬよう、こちらも悲しい犠牲を出さぬように持ちこたえねばならない。
戦ってはならぬ。争ってはならぬ。最も大切なことを口の中で反芻する。
駆けていく途中で、気づいた。
あの少女、異国の龍人の少女、そういえば剣を携えていなかった。いや、身を守る装備すらしていなかったような…。いったい何をどうしようと思っているのか。
剣はどこだ…?
あの少女の持っていた、異国の剣は…?
確か《正義》という銘を持つものだと誇らしげに説明していた、あの剣は…?
その時、ガキンという音が遠くで鳴った。金属のぶつかる嫌な音が大きくて、こちらに轟いたのである。悲しげな咆哮が、その音に続く。
また、鳴った…。大地まで揺れるように感じられる。
いかん!…戦ってはならぬのだ、待ってくれ、間に合ってくれ!
転げるようにして、神殿の入り口を出た。
門の付近が闘いの場になっているのが、遠目に見えた。
人はいないようだ。退避させてくれたのか…?
神と龍の一騎打ちになっているかのように見える。
あの少女の姿も見当たらない。…進んでいくと、龍の血の匂いが次第に濃くなっていく。
まだ、声が届くかどうかわからない距離ではあったが、叫びつつ、走る。
「おやめくださいッ、どうか…お待ちくださいッ!」
身体のあちこちから血を流しているピュトンが力を振り絞って…痙攣しそうになりながら、己の尾の部分をガブリと咥えたのが見えた。だが、もはや力が尽きそうなのは、見てとれる。尾に何か…あるのか…!
神であるアポロンは、美しい笑い方をした。圧倒的な勝利を確信したのだろう。
「血迷うたか、ピュトン!…ガイアの子にして門番の者よ!
我が覇業を阻めようなどと…出来ると思うたか?」
ピュトンの瞳から、涙が溢れ落ちている。熱い涙で、その場に湯気が立つほどだ。
《コレ ハ セイトウ ナノカ…? コレ ガ …セイギ ト イウモノカ?》
?
ピュトンが今際の際に聞いているのか…?
まさか…。今のは…。
駆け寄っていこうとした神官は、自分の身体が震えているのを感じた。ピュトンではない龍の声…?
ピュトンを討伐しに来たアポロンは、穏やかなと形容してよいほど明るい顔で笑った。
「父ゼウスの定めたことだ。抗うなどおこがましい。
このピュトの地の神殿を我がもの、我が神殿にして、神託を為せと命じられた。
神が敵を指し示せば、それは、それこそが滅ぼすべき悪。
そうではないか…?
善悪の基準など、そなたが考えずとも良い。
全知全能の神の意思を、ただ神託として受けよ」
《…!》
瀕死の龍の中に、その言葉に納得せず、心が引き裂かれそうに嘆き、荒ぶるような、無垢の魂を感じた。
ガイア様も神さまなのに…!しかも、龍のピュトンもガイア様の子?
ピュトの地のガイア様の神殿を、ゼウス様という最も偉い神さまの命令により奪う…
…それは、本当に正義なの…?
まずい…あの少女はピュトンの中に潜んで助けようとしていたらしい。
龍人は、龍を纏うことが出来るのか…?
龍のことなど興味もなく、学んだことなどなかった。良くわからないが、まずい状況だと思った。あの少女はピュトンと共に、そのまま死に向かっていくつもりなのか?
ピュトンの尾の部分に隠していた剣を少女が隠れたまま、手にしようとしている…。
ピュトンの身体の中で、決意を秘めて少女が構えたのを感じる。
ピュトンは、もう助からないだろう、神殿も、もはや…。
太陽神アポロンに歯向かってはならない。この地にそれが許されているものなど誰もいない。
闘いは、無意味だ…。やめてくれ…。
だから、剣を…振るわないでくれ…!
どうか…自分の命の全てを捧げます。だから…お聞き届けください。
神よ!…かの者を止めてください…!
身を削るように祈りを捧げる神官は、ピュトンの尾を抑えられる側にいき、だが、そのあまりに大きな身体のそばでただ何も出来ぬまま、崩れるように倒れ伏した。
「お待ちくださいませ!」
女神テーミスが、ピュトンのそばに降り立った。薄れていく意識の中、それを神官は感じ、安堵した。
「アポロン様、申し訳ありませぬ…。わたくしが留守をしておりまして失礼を致しました。
…少しわたくしに…ご猶予をくださいませ」
テーミスの優雅なお辞儀に、アポロンもうなづき、数歩下がった。
戦いは、いや、抵抗は、それで終わった。小さな争いだけで終わったのだ。
太陽神アポロンの神殿を建設する前のさざ波など、誰が意に介すのか?
(後の世には、運命の女神テーミスがアポロンに神殿を禅譲したと伝えるが良い。
幼い者にも簡単に理解出来る、争いなどない神話が良いではないか。
真実や正義、そして理想は《神の試練》の門をくぐり得ぬ者には不要。)
テーミスは、死にゆくピュトンの身体を優しく撫でていた。テーミスの手には、いつのまにか白い真珠のような珠があるのを、神官は見えたように思う。祈りの為に瞑目して以降、彼の瞳は固く閉じられてしまっていたというのに…。
ピュトンの瞳から、光が失われていった。
それも見えている。神官は、そんな不思議な感覚を覚える。自分の目が開けない…そんな目隠しをされたような状態で、逆に、見えないはずのものが見えてくる…。
「おお、可哀想に…。こらえておくれ…。運命なのでしょうから。…ここで…お別れでしょう」
テーミス様は、ピュトンの魂と少女の魂の双方に話しかけたのかもしれない。そう思った。
あの少女を宝珠に隠して、無事に逃がれさせようとしているのだと。
この地の神同士の争いに、異国の龍神ゆかりの者を巻き込まないようにと。
あの宝珠の中に、きっとテーミス様に鎮められた少女の魂が込められている。
神官は、そう信じた。あの子には、大切な使命があるはずなのだから。
《善と悪を切り分ける正義の剣を…ご照覧あれ!》
ああ、これは幻か。未来にいるだろう、成長を遂げたあの子の生き生きした魂の声が、聞こえる気までするではないか。
……思い出した、そうだ、正義を司っている女神様がいたのだった…。
テーミス様のお産みになられた三姉妹の女神様の中に。お名前は確か…
そう、ディケー様だ、その方が正義を司っていて…。他の方のお名前は。
末の方のお役目は…ああ、そうだ、そのことをお伝えせねば…。
あの子に、竜の力と正義の剣を持つ勇者に。
そのことこそが我らにとって闇夜を照らす希望の光…。神が慈愛と共に示してくださいました啓示を、私はようやく会得できたかもしれぬ…。
神官は、もうその時には神に召されていたのであろう。ただ、彼は穏やかな笑顔を浮かべて横たわっていた。
♣︎♣︎♣︎♣︎♣︎
夜中にうなされて目覚めるなんて、まれである。
マルセルは、いつものように目を閉じたままの状態で、寝台の上に起き上がった。まだ真夜中になったばかりくらいか。
頭痛がする。昔はこのような頭痛などは感じなかった。
高地エルフ族はほとんどが、故郷を追われるように散り散りに離れざるを得なかった。はびこるようにして増え続ける人類の文明の力の前に、他の精霊達も、ほぼ無力に等しかった。 敵も同然の、人類と交流したいなどと考えたこともなかったのだが、ただ逃げたり争ったりするだけではない、何かをするべきと考えただけだ。環境も変わり、体質に合わないこともたくさんあるが、なんとかなっている。
あの錬金術師の話によれば、ユダヤ教よりもっと古い、既に滅びた神話の中に地上の全ての生き物のための啓示があるということだった。理想的な幻影じみた話である。物質を科学的に改変したり、合成したりする最先端の技術を駆使しようとしながら、貪欲に伝説や魔法を追い求めた夢見がちな異端者だった。あの者の話を信じて賭けてみたのである。
人間の文化、文明に触れて、様々な伝説や神話を知ったのであるが、そんな時ふと不思議なデジャヴ(既視感)を感じたことがあった。
とある彫像を見た時に、タイトルが『正義の女神テーミス』とあったのだが、マルセルは何となく、いや、テーミス様は本来なら運命の女神と聞いていたはずだった、と思ったのだ。だが、いつどこで誰にそう教わったのかというと、全く思い出せないのだが。通説的に『正義の女神テーミス』と言われているのであるから、門外漢、どころか異種族の自分がどうのこうのと言う筋合いはない。
女神テーミス様の現れる夢など、年若い頃に見ただけであったが。龍を殺した神の話か。良くわからないから、明日にでも図書室か何かで古い神話を調べてみようか。
ラインハルト様にアドバイスをしてもらえば、どの神話を調べれば良いかわかるに違いない。…今日は、いろいろあったが良くお休みになられているであろうか。
…変な胸騒ぎがする。
日本の、この屋敷にも本家の本物と似た北の塔を建ててあるのだが、最上階には、また同じように宝物庫があるのだろうか?
マルセルは、目を閉じたままで《見透し》を行使した。
?
この屋敷の北の塔には、黒い大蝙蝠がいるようだ。高い天井からぶら下がっているのを感じる。
何が起こっているのか?
マルセルは、手早く服を着た。部屋をするりと音も立てずに出て行く。
(補足)
最高神ゼウスの望んだ通りに、事は全て円滑に進んだと、神話は語る。
征服することに成功した太陽神アポロンは、ピュトンの亡骸を丁重に扱っている。
ピュトの地の神殿は、デルポイという地名に改められ、アポロン神殿となされた。その神殿にある最も重要な部分の聖石の下にピュトンは埋葬され、そこに仕える巫女達はピューティアと呼ばれるように定めた。更にピュトンの魂を慰める為に、オリンピックとは別だが、似たようなスケールで大きな祭りを催したとも伝えられる。
その後は、『デルポイ(デルフォイ)の神託』を授けてもらえる地として千年以上、栄えたのである。