48 《風を喚び、飛翔する者》 (1)
今回、一部に残酷な表現を含みます。肉食系の動物の生態の一つではありますが、どうか苦手な方はあまり脳裏に思い浮かべないようにご注意ください。
食後の紅茶を飲むと、メフィストの仕事の丁寧さがいっそう解るなとマルセルは思った。
「美味しいですよ、…メフィスト。このように美味しいお茶をゆっくり味わうことが出来るのは、稀な幸福の一つですね」
「恐れ入ります」
完璧だ、執事として完璧過ぎる。
ここにいるのは悪魔のメフィストじゃない、執事の姫野じゃないか。
マルセルは溜め息をつきそうになったが、やめた。
マルセルはラインハルトに望まれて夕食を共にする機会が多い。元々、従者ということにしてもらっているものの、実際にはラインハルトの師の一人でもある。それでメフィストは、本国においてもマルセルをたてて一歩退いているのが通例だった。が、それでも3名で食事を共にしたことは過去に何回もある。だが、日本ではすっかり[執事の姫野]ぶりが板に付いたようで、給仕に徹して同席をしようとしない。嬉々として家事の采配を振るっている。
『お前、自分が誰だったか忘れたのか?…お前は姫野という日本人ではなくて…そもそもは悪魔なんだぞ!
あの錬金術師に騙されるようにして杖に閉じ込められ、使役されてきたんじゃないか』
そう言いかけそうになるのを、マルセルは来日してからずっと我慢しているのだった。
ラインハルトがメフィストだけを伴い、日本に行き、色々と仕出かして長い時が過ぎた。自分に迷惑をかけぬように、わざと自分に知らせることなく家出のように出奔したらしいことは、もちろんすぐに推察できたのだが…。それでも、亡くなった恋人に逢いたい一心で出かけてしまったのだろうラインハルトを心配していた。平静さを取り戻したかのように振る舞っていたが、どこか心ここに在らずの状態で生きていたように見えていたのだから…。
そのまますぐに命を落とすようなことを仕出かしたと聞いた時は、気が狂うほど辛かったのだが…しかも、ヴィルヘルム様と父上様の裁定はマルセルにとっても意外に厳しいものとなった。一人メフィストだけが日本での世話を任されてしまうとは…。
それも今は…過ぎ去ったことだ。
ラインハルト様は、自分無しで立派に復活して成長なさっておられたのだから…。
マルセルの心の中のつまらない葛藤は、ラインハルトと共にアルベルトを救出するなどして、すでに消えている。日本に来て以来、確信めいたものを感じている。ここからまた自分なりにお役に立てるような機会があるに違いない。そう自らを励ますようにして、努めて明るく声をかけた。
「さぁ、メフィスト、仕事はもうその辺で。
…打ち合わせも出来ないではないか。…少し一緒に話をしよう。そこへ掛けなさい」
「はい、…かしこまりました」
主人であるラインハルトが同意を示してうなづくのを目の端で確認してから、メフィストは姫野のまま、返事をした。それから自然に執事姫野として銀製のお盆をサイドテーブルに置いて、きちんとしたお辞儀までして下座に座った。
マルセルは、それでさらに呆れかけたが、呆れるというよりも微笑ましく思ってしまった。メフィストも、彼なりに一心に尽くそうとした結果なのだろう、と。
…それにまぁ、考えてみれば、今の自分もメフィストと同じようなものじゃないか。
どこからどう見ても、今の自分は高地エルフ族の戦士には見えないだろう。
かなりの時を経ていっそう、戦士らしくなくなってしまった…。
最初はあくまでも、自分の出自を隠すためだったが、元々露出多めの戦闘服よりは、ゆったりとしたローブ姿を若い頃から好み、変人扱いされてきたのだった。幼い頃に見た夢の影響なのか、一族の中では豪傑と見られるほどの腕力を誇りながらも、のんびりと思索にふけり、変わり者と言われてばかりだったのだから。
ラインハルトが、姫野に向かって笑顔で命じる。
「メフィ、あのね、…たぶんマルセルはね、久しぶりに姫野じゃないメフィストと話がしたいんだよ。
まとめてる髪をちょっとバラっと解いて、本来の凄みを出してご覧よ。
今、僕たち以外、誰もいないんだから」
「はい」
メフィストが髪をバラけさせ、人当たりの良さそうな日本人青年の執事の顔から美しい悪魔の顔に戻す。
整えられていた黒髪がみるみるうちに変わっていき、銀ねず色の長い髪がのたり、と床まで届く。…濃い紫色の瞳…。マルセルはいつものようにまぶたを閉じたままでも、それを見ることが出来る。
ただ、やはり以前より少し凶々しさが足りないような気がした。
「…ね、これくらいでいいだろう?マルセル。
メフィがあまり本気を出して正装してくれると、あ、そうだな、いっそマルセルにも本気で正装してもらって…2人の絵を僕が描こうか?
打ち合わせが長引いちゃうよ?」
姫野としてのメフィストがぎくっとした顔をして、マルセルの方を見るので、マルセルは慌てうなづく。どうやら、ラインハルト様の画伯っぷりには、相当磨きがかかったのに違いない。
「はい、そうですね、マスターもお疲れのようですから、手短かにしましょう」
「うん、よろしく」
「さて、いよいよきちんとスタート地点に立ったのですね、改めておめでとうございます」
「おめでとうございます。わたくしは今後のダンスの練習がいっそう楽しみになってきました」
「うん、ありがとう。本当に2人のお陰だよ」
「ユールの時のことですが、夏美様の…ん?」
その時、突然の闖入者のせいで3人の注意が逸れた。
ラインハルトの方へ、扉横のペット用の出入り口から入ってきた大きな猫が擦り寄っていく。猫は血塗れの石みたいな物をラインハルトの足元にコトリと置いてグルグルと喉を鳴らした。
マルセルはつい、小言を言う。
「マスター、正式な食堂にペット用の出入り口なんて作られては…衛生的に…だめじゃないですか」
「あ、うん。…ごめんなさい。頼むから…猫を怒らないで」
「…あ、すぐにわたくしが片付けますので」
メフィストは、あっという間にきちんとした執事の姫野に戻った。
「ちょっと待って。姫野、横から取り上げないで。この子は、獲物を取ったことを自慢して僕に見せに来たんだよ」
ラインハルトは、猫を褒めるようにスキンシップをしている。猫はいよいよ甘えて喉を鳴らす。
「メル、お前は凄いよ。良く狩を頑張ったね。…僕に持って来てくれたんだよね。
…さっき、夏美が可愛いと褒めてたのをどこかで見ていたのかい?…こんな姿にしちゃうなんて。…ありがとう、メル。遠慮なくもらうね。さ、また遊んでおいで」
猫は、今度は人間用のドアの前まで進んで立ち止まり、振り返ってガン見してくる。
ラインハルトは、摘んで拾い上げていた物を素早く、姫野の広げてくれたナフキンにパスした。
「わかったよ、メル。レディの為にきちんとドアを開けないとね。はい、どうぞ」
ラインハルトにドアを開けさせたまま、猫は胸を張って堂々と廊下に出ていく。退場までずっと場を支配していた女王様は凱旋しているつもりらしい。
「…可哀想に。まだ子供のリスを狙うなんて…」
姫野は、そっとナプキンでリスの生首を丁寧に包んでいる。
マルセルは黙って、2人のやり取りを聞いていた。
食堂の次の間に洗面台があるので、手を洗いに行っていたラインハルトが戻ってきて言う。
「うん、子リスは可哀想だけど…。本能による行動なんだよ、猫をゆるしてやって欲しいな。
確かに狩られて死んでいく方は可哀想だけど、そっちの方ばかりに目を向けないでよ。
狩という行動を禁じたら、猫は猫でなくなる。忌まわしかろうが、猫にとっては本能による自然な行動なんだ。
猫だってリスだって、神さまがご先祖さまを造られたそのままの本能で生きている。それが血統というか血の中に脈々と伝わっているのさ」
「わたくし、失礼して…庭に出てお墓を作って埋葬してまいりますね」
「うん、ありがとう、姫野」
姫野が一礼して出て行ってすぐにメイドが来て、ティーカップ以外をきれいに片付けて行くまで、マルセルは黙って考え込んでいた。
「マーシー、…打ち合わせ、どうする?
僕、疲れたからそろそろ自分の部屋にこもって来ようかなと」
「ええ、打ち合わせはまた今度に致しましょう。メフィストはずっとあんな感じなのですか?
…私は、数年ぶりとは言え、少し調子が狂うのですが」
「あ、まぁ、もうちょっとの間は我慢してよ。
普通の人間のお嬢様方のダンス講師を務めてもらっているんだから、アレで良くない?
すごく好都合なんだけど。
それにさ、メフィスト本人も、なにか姫野でいる方が快適みたいに、先日言っていたんだから。
それよりも、夏美の話を聞きたいんじゃないの?」
「ええ、それはもう。…何かわかりましたか?
…美津姫さまの能力を継いでおられると思われますか?」
「どうなんだろう、夏美も、かなり混乱していたけど。
僕には、やはり夏美は、美津姫と同一人物とは思えない。
途中、テオドールと呼びかけてくれたけど、もちろんそれはもともと、夏美は知らない情報だよね?
だけど、生まれ変わることの出来た美津姫が、元の記憶を取り戻したんだとは思えなかった。
どこかが違う。そんな気がした。一部、夏美の中に美津姫の記憶が混じっている可能性もあるのかなぁ…。でもね、僕が受ける印象からすると、美津姫と性格が全く違う。
マルセルは一度、夏美と踊ったり会話したりして、懐かしい印象を受けたと言っていたけど…美津姫のように思えたの…?」
「ううーん…。先日は、真凛とも久しぶりに会い、それから夏美様に挨拶をしたのですが、お顔立ちが良く似ておられて…しかも、そうですね、何かを一生懸命に学んでおられる時の感じは良く似ておられるような気がしてならなかったのです。あと、そうですね、これは感覚的になんで確証は持てないのですが、〔以前、会話したことのある、親和感〕みたいなものを私は感じました。ですが、夏美様はどうやら、そうお感じにはならなかったのではないかと思いました」
「うーん、やはり確証は持てないね…。
夏美は、夏美なんだと思う、としか今の僕には言えないな。
それにね…夏美はたまに不思議な事を言ったんだよ。
美津姫でさえも知らなかっただろうことを言ったりするんだよ。ね?不思議だろう?
だから、夏美もそう言っていたんだけど、宝珠が夏美に教えてくれているのかもしれない。
つまり、美津姫としての、人の一生分の記憶ではなくて、宝珠そのものが記憶していることが出来て、それが夏美の中にあるのかもしれない」
「…そうでしたか。それで、お疲れのようでしたが、北の塔までご案内されておられたのですか」
「本当は、宝珠の謎を解明することを進めようと2人とも思っているはずなのに、どんどん外れていってね。夏美が言った不思議なことの一つを解明しようとして案内してみたんだけど。
夏美がね、一つの大きな鼎を3人の乙女が担ぎあげて、くるくる回りながら踊っているのを見たというものだから」
「は?」
「マルセルなら、何を思い出す?」
「ああ、…そうですね、まずは…それは故郷の…城の中の彫像ですかね…?」
「やはり、そうかい?…だが、夏美は見たことはなかったものだ。
しかも、夏美が言うには、全体的に動いていて、上昇するように踊っていたんだと」
「…不思議ですね」
「夢の中で見たものが本当にその彫像だとしても、美津姫にもたぶん一回くらいしか見せたか見せてないかくらいの物だし、そこまで印象を受けたようにも言ってなかっただろうし…。それでちょっと、バーチャルに、うん、本当は魔法で幻影を創り出したんだけど、『エルサレム』の彫像を夏美に見せてみた。
『これです』って言ってくれてたけど、ちょっと動きがないので、どこか本当には納得していないんじゃないのかなとも思った。
謎を解くどころか、不思議なことがたくさんあって…収拾つかない。
でもね、僕も実家の祖父の書庫の中に、伝説の何か詩みたいなものを読んだ時に、一つの鼎を3人の乙女がなんとか、みたいなフレーズがあった気がしてたんだ。そうなると、かなり大事な要素かもしれないと思ってね。
まさか、夏美は…あの彫像を作った昔の人と同じ夢を見ていたのかなぁ?
それにね、まだ不思議なことはある。
僕の小さい頃の姿をね、さっきの夢の中で見た、みたいな話をするんだ。
塔の中の螺旋階段を小さな頃の僕が登っていたのを見たんだって。
僕の方が…夏美よりずっと長い時を過ごしてきているのに…。
美津姫だって、僕の13歳くらいの姿からしか見ていないのに」
「…確かに。不思議なことをおっしゃっていますね。
美津姫様にお顔立ちが似ていることを除けば、普通の…現代を生きる日本人のお嬢さんとお見受けしましたのに…やはり不思議な方ですね。巫女さまの力などは、私には全く感じられませんでした」
「ね、まだまだわからないことだらけでしょ?」
「…でも、一歩前進されたではありませんか」
「うん…ありがとう」
「お身体のお加減はいかがでしょう?…痛みが酷くなっては困りますから…」
「それがね、不思議なんだけど…夏美といると、やはり何か彼女の力を受けたのか、かなり軽減されちゃったんだ…」
「そうでしたか?…それなら、なおさら結構なことでした」
「うん、で、最初は、僕は自然治癒にこだわっていたんだけど、中途半端に自然治癒じゃなくなってしまったのかもしれないと思ったからさ、残っていた痛みは、回復魔法を使って治しちゃったよ」
にこりと笑って言うラインハルトの中に、マルセルは微かな違和感を感じた。だが、あえて触れなかった。
「それならば、安心でございますね。ただ、ご無理はなさらないように。今後が、ますます大事なのですからね」
「うん、ありがとう。マルセルもこちらに来てから、なにかと落ち着かないんじゃない?
何か不便なことがあったら、ちゃんと言ってよ?」
「ありがとうございます」
「じゃ、今日は色々あったから、もう休もうよ」