46 《鼎を掲げし三乙女にまみえよ》 (5)
「ちょっと、ちょっとタイム。ライさん、タイム!」
「え?、さっきから、夏美の顔がちゃんと見えなかったからさ。見たかっただけ」
ラインハルトはそっと腕を外して、真っ赤になっている夏美の顔を眺めて優しい笑みを浮かべた。
「ふふ、ごめん。
…からかったりしちゃいけないよね。せっかく夏美がちょっと無理をして僕のリクエストに乗っかってくれたみたいだから、つい嬉しくなっただけ。
今の僕たちをはたから見てたら、すぐに嘘がバレちゃうよね?」
「ですよね、ごめんなさい…私…」
「いや、いいよ。だからね、僕のリクエストをちょっと修正してもいいかな?
あのさ、『婚約した』っていきなり発表すると、たぶん『いつ、結婚するの?』みたいになるだけなんじゃないかと思わない?
今は僕の周囲なんて静かなもんだけど、いきなり実家から沢山の人が押し寄せて来て、さっそく興奮したお祝いムードに突入する予感しかしないんだ。そうしたら、僕たち《宝珠の謎解き委員会》の活動なんて…逆に出来ないと困ると思ってさ。
だから、『先日デートしてダンスして相性がいいかもと思ったので、いずれ盛り上がったら結婚するかもね、と付き合い始めたデリケートな段階の2人』っていう設定でいけばいいじゃない。周りからいろいろ干渉されたら、
『まだ、付き合い始めたばかりで微妙だから、邪魔しないで』と言って逃げも打てるし。どう?」
夏美は、ほっとした。今のようにドギマギして演技がきちんと出来なかったら、すぐにバレてしまう。
「はい、それなら本当のことに近いし、普通に出来ます!
私も、みんなに矢継ぎ早にお祝いを言われたら、とても気がとがめると思っていましたし、その先の混乱もわからないので、それがいいです。
今、婚約するとか言ったら、遥と姫野さんのパーティの演出がもう…想像出来ちゃいますよね」
「うん、そうだよね?
絶対、周囲の熱意が怖いよね。嬉しいし、有難いけどさ。
急に僕が婚約するとか言うと、実家でも大騒ぎになるだろうし、とにかく最大の難関の婆やがね、今ちょっと頭をよぎって不安になったんだ」
「婆や…さん?」
「たぶん興奮して、聞いたその日に飛行機に乗って、そのまま日本に来る勢いくらいになるかと思うから、ここは慎重にいかないと、と思った」
「…怖い人?」
「いい人なんだけど、僕を溺愛してくれていて、僕は未だに頭が上がらないんだ。一族最強だと思うよ。…母が身体が弱かったから、ある意味、僕の母親代りだよね」
「ライさん、とても愛されているんですねー」
「もうだいぶ僕は大きくなっているから、ちょっと悪いんだけど、その重すぎる愛が…けむたいんだ。感謝してるし、心から大好きなんだけど。
とにかく、夏美にお願いして付き合い始めたとこだっていうことにしておこう。ね?
僕も君も、それが一番楽だと思う」
「そうですね。頑張ります!
ライさん、もう一個いいですか?…ライさん、あのね、どこかケガしてます?」
ラインハルトは、あっさり認めた。
「ん?…バレた?ごめん、湿布の匂いとかしてる?
ずいぶん良くなったんだけどね。背中の骨をちょっと傷めてて…でも夏美とハグしていたら、痛みが半減した」
「嘘ばっかり…」
「あ、ごめん。半減は言い過ぎだな。でも、4分の1くらいの痛みは減った。本当だよ?
だから、あと3回ハグをしてくれたら、治るかもしれない。どうかな?」
夏美は笑顔で、ラインハルトをスルーすることにした。
「ライさん、…。もう本当に無理しないでください。最初に言っておいてくれれば良かったのに。本当にお大事に。
あ、私、そろそろお暇をしなくては」
「えー?、フレンチウインドウをバーンと開け放ってみたがってたじゃないか。それに、真面目な話、今日のうちに、君に北の塔を見せてあげておきたいから。もう少しだけつきあってよ。
さ、途中で放り出してしまったけどね、美味しい紅茶を飲んで出かけようよ」
「…はい。ミルクティーは嬉しいけど。ライさん、安静にしてた方が良くないですか?
私は、時間は大丈夫なんですけど、お見舞いに来たつもりで長居して遊んでると気がとがめます。
あ…。もしかして、やっぱり私が龍になるかもしれないって、思い始めてます?」
「70%くらいは、大丈夫な気持ちなんだけど、一応ね」
「えー、それって、30%大丈夫じゃないって、聞こえますけど」
と言いながらも、夏美はさっきよりは落ち着いているようで、笑っている。
ラインハルトは、そう見てとって安心する。
夏美に塔の中を見せてあげよう。
もしかしたら…夏美が夢の中で見た物は…そう、今、思い出したのだ。
夏美に先入観を持たずに見てもらって、確かめたいことがある。
〔壺を3人で持つ乙女〕のキーワード。ラインハルトの故郷の城の塔にある彫像に、もしかしたら似ているのかもしれない。残念ながら、日本のこの屋敷の塔の中には実物は無いのだが…。
廊下を歩いて元のリビングまで戻りながら、夏美が言った。
「お部屋を案内してもらうのは好きだから嬉しいんですけど、どこかに怖いお人形みたいなものは置いてないですよね?
ほら、まるで生きているみたいにゴシック調の豪華なドレスを着てきれいな眼でじっとこっちを見ているお人形さんって、良くあるじゃないですか?
もしも、そういうお人形さんがあるのなら、先に予告してくれていないと、『きゃっ』って飛び上がるかもしれないですので」
「ビスクドールみたいなやつ?アンティークの西洋人形が怖いの?うちの屋敷には無いけどな」
「すごく怖いわけじゃなくて突然に見たら、驚くんです。まるで生きてるみたいだから」
「へええ。勇者夏美の弱点、発見!」
「だからー。弱点というほど怖くはないんですけど」
「わかった、わかった」
「子供の頃から夢に出てくるんです。きれいなアンティークのドレスを着た金髪のお人形さんが逆さまに空中に浮いて、近づいてきていて
『あなたを殺したくないのに』
って言うんです。とても優しく残念そうに」
「…へえ、それ、怖いよ、夢だとしても、…すごく怖いだろうなぁ。
ま、いいや、とにかくそういう精巧な人形はここにはないよ。子供はいないし。この屋敷の中にまで花梨の子供たちも遊びには来ないし。今流行りのおもちゃじゃないしね」
「等身大の騎士の甲冑とかは…ありませんか?」
「ああ…確かに。急に動くとしたら、断然そっちの方が怖いな…。残念ながらそれも無い。うーん、そっちは、本当に無いのが残念だな。今度、玄関ホールに飾って置こうかな。
さ、フレンチウインドウを開けて中庭を抜けて行こう」
元のリビングに戻ってきて、フランス窓越しに中庭を眺める。かなり奥行きもある中庭にはせせらぎがあり、そのそばを散歩道がくねくねと奥に向かって伸びているのが見えた。
「さ、どうぞ。夏美の勢いで、何枚かのガラスが割れるのは覚悟したから、好きなだけバーンと開けていいよ?」
「もう!…ただ両開き扉を開けてみたかっただけなんです。気持ちがすっとする感じがしそうで」
夏美が窓を押し開けるタイミングで、ラインハルトが後ろから
「バァーン」という擬音を入れる。
「どう?」
夏美は庭に見とれてしまい、ラインハルトのふざけた言動はスルーされてしまったようだ。
「…ライさん、それより。ね!本当に可愛い中庭ね。あ、リスまでいる!」
チョロチョロっと数匹のリスが横切っていった。
「屋敷の庭に、自由にいろいろといるんだ。こちらは放し飼いしている気になっているけど、彼らはほぼ自然のまま暮らしているんだよ」
少し上り坂になっている小道の奥に、ささやかな泉がある。そこから溢れた水がどうやらせせらぎになっているようである。
白い大理石製の女神の像が優しげな笑みを浮かべて泉のそばに立っていて、肩に担いだ甕から水を注いでいる。
「この水は、一応ちゃんと飲めるようになっているんだ。
ん?…夏美?どうかした?」
夏美は、考え込んでいる。
甕か壺から水を注いでる誰かに夢の中で会ったようなことを今、思い出したのだが、その人と喋った記憶が、何もない。何か記憶が抜け落ちている気がしないでもない。
甕からの水を手に受けてみる。冷んやりと心地よい。覚えてはいないけど、たしか嫌な夢ではなかったはず…今は、それでいいことにしてしまおう…。
「誰かが夢の中で水を注いでいた気が…今したんですけど…。一瞬思い出しかけて消えてしまいました。…また何かのきっかけで思い出せるかも…。でも、ここ、本当に気持ちいいですね」
「うん、緑の中で水の流れる音を聞いていると、心が落ち着くよね」
泉のそばを抜けると、煉瓦造りの塔が見えてきた。細長く高く作られていて、まるで灯台みたいな建物に見える。
入り口の扉を開けて中に入り、ラインハルトが上方を指差す。夏美も見上げた。天井まで遠い。
「一番上は、物見櫓みたいな場所になっているけど、ずいぶん上がって行かなくてはならない。
…あれをね」
夏美は建物の中などを見て回るのは好きだが、少しがっかりした。
素っ気ないくらいのがらんどうの建物の中に螺旋階段が、塔の内壁に張り付いたようになっている。ところどころ、小窓があるが、建築中みたいに何もない。この建物にいったい、何の用途があるというのだろう?
屋敷の中の部屋は、細部まで考えて壁紙が貼られ、家具の配置とか小物まで色々きちんと置かれているというのに、この塔は、面白味にかける建物でしかない。
今まで誰かが龍になって閉じ込められていた、なんて事は無いよね?
ある程度登ったところに、数個の踊り場みたいなところがある。
「あそこまで登って見ようよ。あの小窓から、外の景色も見えるよ。良い眺めだよ?」
「はい」
螺旋階段は、そこまで急な階段ではなくて登りやすかった。
ただ、そんなに横幅は広くはなくて、自然とラインハルトの後ろについていく形になる。夏美をエスコートするつもりで速度を落としているのだが、リズム良く軽やかに登っていくラインハルトを見ていると、やはりと思ってしまう。
弾むように登っていく小さな男の子に似てみえる。あのイメージは…やはりライさんなのかもしれない。そして、さっきまで立っていたこの塔の一階の広い床を見下ろすと…。
「夏美、危ないからダメだよ。階段の途中で下を見ようと乗り出しちゃいけないよ。そんなことをしたら、《螺旋の罠》にはまってクラクラすることだってあるんだからね。踊り場まで行こう?それからにしよう?」
「あ、はい…」
「これが一つ目の踊り場。いわゆる二階みたいなもんだね」
「普通のビルの三階くらいにいません?」
「いや、そんなに高かったかなぁ」
小窓から覗く外の景色も良かった。ラインハルトが張り切って風見鶏の説明をしてくれて、確かに素晴らしい眺めだったのだけれど…。
踊り場から下を見下ろして、あるはずだと思っていたのが存在していない気がした。そう、何か見た記憶があるのに、何かが足りない。
「大丈夫?一階の床ばかり見てるけど、恐いの?今更だけど、高所恐怖症じゃないよね?」
「あ、いえ、大丈夫なんですけど。あの床に何かがあるかなぁと思ってたんです。
ええと、女の人がいるんです。3人。そう、ずいぶん高いところから見下ろしたら見える、みたいな」
「へぇ…あ、さっきの話のやつだね、これくらいの高さから見た?」
「うーん、それはちょっとわからないです。
3人の女性が壺を持ってくるくると回っているんです。何かの踊りみたいに」
「タロットカードの『聖杯の3』みたいな感じかなぁ?
3人の女性が聖杯を1つずつ持って、楽しそうに輪になって踊っている、あんな感じかな?」
「楽しそうかどうかは、全くわからないんです。それと、1つの壺を3人の女性で頭上に掲げて共同で持っているんです。日本のお神輿、わかります?そんな感じ」
「ああ、お神輿。分かるよ。お祭りで見たことがある。沢山の人がわっしょいわっしょいって協力して担いでいるやつね?」
「そうです。あんなに大きくなくて、でもあんな感じで1つの壺を大事そうに掲げている感じなんです。
壺には、支え棒みたいに脚が付いていて、それぞれが脚の部分を持って、同じようなストンとしたシルエットの服を着て、くるくる円を描いて、どんどんスピードを出してどんどん上に上がっていきそうな…」
「夏美の表現だと、それは動いているみたいだね」
「ええ、動いているように見えました。永遠に動き続けていて、そのまま上昇していくような」
「ふぅん、それはすごいな…。もし動いてないのならば、ちょっと彫像で思い当たるものはある。バーチャルな映像でいいのなら、それを見せてあげようと思ってさ。
…ちょっと床を見ててね」
ラインハルトが、ポケットの中から小さなスマホみたいなものを取り出してスイッチを入れたようだった。
どういう仕組みかわからないが、何かが塔の床に、立体的に映し出されていく。
「これでいいと思う。うん、どう?見えた?」