38 黎……ⅠⅠ………明(未だ『黎』に繋がらない『明』。)
屋敷の中は、しんと静まり返っている。マルセルと姫野は、遠慮して下がって、たぶん自室にこもって自分たちのために待機してくれているのだろう。
ラインハルトは、ソファに座り、傍らで身じろぎもしない夏美の横顔を眺めている。
『眠り姫と間違えてキスしてしまったら、今すぐにでも目を覚ましてくれたりして』と子供っぽい空想をしそうになり、今さっき、拒絶されて弾かれた自分(の分身)のことを思い返す。
『キスなんてしてきたら、噛みついてやる』、だって…。
本当にまっすぐで元気だな。その怒りのエネルギーでなんとか乗り越えて欲しいけど…。
もしも、マルセルの言う通り、《本人の中で美津姫の記憶と夏美の記憶や自我が激突して相身互いに傷つけあったりしたら》僕は、どう行動するのだろうか。
責任なんて取り切れるはずがない。
でも、魂の抜けたままの夏美でも、たぶん僕はずっと愛し続けるだろうな。
今、自分のそばで…まるでこの先、何百年も目を覚まさないみたいにソファにもたれている夏美も好きだし、さっきまでの夏美も好きだし、そして万一、夏美の記憶をなくして美津姫の生まれ変わりとして戻ってきたとしても、たぶん僕は、そう…ずっと君のことを好きでたまらないんだと思う。
白蛇竜の宝珠を持っているかとか、龍になれるかとか、自分の役に立ってくれるかとかではなくて、たぶん僕は君をずっと追い求めていくんだと思う。
君がこの世にいる時も、君がこの世から消えた時も、そばにいてくれない時も、全然逢えない時も、僕は生き続けて来られたんだ。
光と闇の狭間で苦しんでも、君のことを考えて思い出して、自分の心の中の君の面影に助けられて、ここまでやって来られたんだ。
君が僕の手を振り払って拒絶しても、たぶん僕は君を愛し続けると思う。ただ、そんな時は僕から逃がしてあげなくてはいけないんだろうと、僕は思うようにはなった。
可愛らしい小鳥や蝶を捕まえて、そばにずっといて欲しくて、そして危ない目に遭わせたりしないで、きれいなものだけで美しく自分好みに育てたくて、籠に閉じ込めてしまうように…。
君の心と魂と身体もすべて自分のものであって欲しくて、たぶん僕は君を追いかけて、君に飛びかかり、君をつかまえて、そして君を自分のものにしたくて、そして僕だけが君を守る騎士でいたくて、君を閉じこめたくてたまらないんだ。
でも、今度はちゃんと逃がしてあげられる自分ではありたい。
君が美しい翼をはためかせて自由に空を飛翔するのを応援して、助けてあげられる自分でありたい。
もう二度と君を絶望の中で死なせたりしたくはないんだ。
1年目、2年目は、たぶん幼くて覚えていなかったはずで僕は安心していた。
でも、あの時に気がついたんだろう。記憶している時間と日付にズレのあることを。
僕たちのように、冬眠させるような手法は使えなかった。美津姫の身体の成長を止めてしまっては、さらに宝珠を安全に身体の外には出せないから。
だから、あの恐ろしい闇の軍団が空を駆け回る間だけ、僕は一番安全な場所に美津姫を閉じ込めて、薬を飲ませて眠らせておいたのだ。
龍、竜、ドラゴンの種族はかなり数が減ったということだが、世界中にいる。彼らの強大な力を味方につけたいものは、ごまんといるのだ。
一応、僕たちの国での言い伝えを話してあったんだが…。君を探し回り、さらっていこうとする者たちが君を狙っていることを。
伝説の軍団が君を探しているのかもしれない。
目から口から炎を吹くもの
黒い馬、闇色の衣をまとったあの方のしもべ
それらの軍団は凍てつく夜空を駆けるのだ
兄さま…
私を閉じ込めないで
お願い…
泣かないで
すぐに出してあげるから
僕は君のそばにいるんだから
月明かりで檻は銀に光る
兄さま…
闇の唄が聞こえるの
聞かないで
闇夜を駆ける軍団の声は
奴らはすぐに通り過ぎるから
月明かりで檻は銀に光る
兄さま…
闇はここにあったの
兄さま…
もう兄さまの蒼が見えない
闇はここにあったの
そうだ、僕たちの会話は上滑りして、僕たちはすれ違っていったのだ。
美津姫の本当の願いに僕は薄々気がついていながら、僕は、宝珠を安全に取り出してしまえば、すべて上手くいくと考えていた。悪いのは、闇の力を帯びた時の宝珠であって、美津姫は何も悪いことをしていないはずなのだ。
龍神に返してしまったという失われてしまった宝剣の力に頼ることは出来なかった。
宝珠の力を増幅させてしまうと教えられていたあの古い鏡、蛇の目は、日本から付いてきた人たちに内緒で保管しておいてもらった。美津姫が泣いて頼むと、渡してしまいかねない優しい人ばかりだったので、僕が取り上げてしまったことにしておいたけど。ずいぶん泣かれて僕もつらかった。
今度こそ、僕は君の信頼を得られるだろうか?
僕は間に合うことができるのか?
それとも、また君を助けることができないのだろうか?
この運命の輪は、この先もまだ、ねじれていくのだろうか?
君が愛してやまないあの絵の、本物の彫像の方を2人で眺められるような時は、訪れるだろうか。
あの最後と思われる瞬間、奇跡的に天使アムールは間に合うことが出来たのだ。
ルーブル博物館に展示されているカノーヴァの彫像は、まさにプシュケが瀕死の危機に陥った時に、天国からようやく脱出したアムールが、倒れる寸前のプシュケを救出する瞬間を表現したものだ。
アムールの表情は、優しくも自信のある表情で、観る者たちにその後のハッピーエンドを予感させる。だから鑑賞者は、ドラマチックな彫像からロマンチックな印象を受けることができるのだ。
天使アムールと少女プシュケの話は、すれ違いの物語でもある。
アムールは、プシュケに真実を伝えていなかった…。
プシュケは、アムールを心から信じきれていなかった…。
2人は愛しあうべき運命にありながら、すれ違いに苦しむのだ。
アムールはプシュケによって大きな怪我をして治療のために天国から出られず、プシュケは自分の身を省みることなくアムールを探し求め、とうとう命を落とす寸前に至る。その時のプシュケは臨終の中にいながらも、神とアムールへの愛を伝えようとしていたに違いない。それで両手を天に掲げながら倒れかける…。
後ろから抱き止めた天使アムールの顔を見つめるプシュケ、プシュケに囁きながら顔を見つめる天使アムール。
まさに彼らはその時、お互いの存在以外には何もいらないという表情なのだ。
夏美は、きっとそんなことも知らないままでいたのだろうに。
ただ純粋にあの絵を気に入って見つめていただけだった。
正しい選択をしてくれるだろうか…。僕の思いは伝わるだろうか…。
夏美が、すぐに笑顔で首にかけた、Azuriteの原石入りのペンダントをラインハルトは見つめた。
本物の賢者の石は使えないから、今の自分の出来うる力で『守護の祈り』を込めて作ったペンダント。
その原石を採掘するために、まさに命をかけてくれた、アルベルトたちの想い。
君は、その、たぶんまだ弱すぎてマラカイトに変質するだろう、蒼い石を素直に褒めて、『石と共に同じ時を過ごしている』みたいだと言ってくれたんだけど…。
☆ …出来損ないの『詩』みたいなものが途中に出てきてすみませんでした。後日、改稿するかもしれません。
☆ カノーヴァの『アムール(アモール)とプシュケ』、ご興味のある方はネット等で画像を検索してみてください。力量不足で作品の良さが表現できていません。すみません。
(2019年2月16日)