35 《神社にて》 (4)
屋敷の最も奥の部屋の前まで、善之助さんと僕は進んでいった。
浴衣だけしか着ていない僕は、無作法な外人の子供にしか見えなかったのだろう、途中の廊下で女中さんがじろっと僕を睨んだ。廊下の隅には、藤木さんともう一人の側近の人がいた。先ほどよりは雰囲気が柔らかかったけれど、姫さまのために警戒している様子である。
襖の外からでも、可愛いらしい女の子の泣き声が聞こえた。押し殺そうとしながらも、それでも我慢出来ずにすすり泣いているみたいだった。
善之助さんが声をかけた。
「…後藤さん…?いかがですか?
こちらから開けてもよろしいですか?ご案内してきたのですが…」
すぐに中から襖を開けてくれた後藤さんは20代くらいの女性で、後で教えてもらったのだが、姫さまのお世話係りをしているねえやさんということだった。善之助さんと僕に静かに会釈し、先に立って案内をしてくれた。
衝立てを回り込みながら、善之助さんが気持ちを引き立てるように優しく声をかける。
「美津子さま、お聞きになりましたか?
こちらは善蔵の熱を下げてくれたお兄さんですよ。善蔵はすっかり気分が良くなり、すぐに元気になりましたのでね、こちらにもおいでいただいたのですよ。
きっと、姫さまのお加減も良くなると思いますよ」
「お邪魔します」
と僕もそっと声をかけた。
布団の上に起き上がっていた少女は、浴衣の上に何かきれいなものを羽織っていた。
泣き腫らした顔をハンカチで隠すようにしながらも、美津子と呼ばれた少女は僕の方に向かってお辞儀をした。彼女の艶のある長い黒い髪ときれいなお辞儀の仕方だけを見ると大人びて見えたが、確かその時は8歳だったはずだ。
布団のすぐそばまで善之助さんは寄ったが、僕は衝立てを回り込んだ所で止まって座ることにした。そこで一度とりあえず座って、なるべく柔らかいと思われる表情を浮かべるよう努力した。とにかく、上から見下ろすのを避けて姿勢を低くした方が警戒心を解いてくれるかもと思ったんだ。やはり何か冷たい拒絶反応みたいなものを彼女から感じ取っていたからだ。
「お兄さんは…外国のお医者さんなんですか?
善蔵さんを助けてくれてありがとうございます。他のみんなも助けてくださるようにお願いしてもいいですか?
でも、私は…いいんです。熱も下がりましたし、それに…もういいんです」
善之助さんと後藤さんは、勝手に口を挟むのを遠慮してくださっていたのか、
『どうしましょうか?』、みたいな感じで僕を見たが、僕はその時、その可愛いらしい姫さまの声を聞きながらも、屋敷の外を気にしていた。
異様な雰囲気を感じたからだ。
鬼火がたくさん集まってきている…?
廊下を走ってきた誰かが
「火事だ、西側の棟から火が出ています!」
と報告したと同時にそのまま取って返し、他の皆にも知らせに行った。
「西側だと?おかしい、最も火の気が無い場所なんだが。まずい、あそこには、まだ大事なものが」
と、善之助さんが言った。
屋敷の中のあちこちで物音がし始めた。
オットー叔父さま達は、東側の棟の部屋の中で僕を案じながら、たぶん臨戦態勢でいてくれているはずだ。神社の人達も、僕みたいな者が夜中にうろうろしていたお陰で(?)、眠りは浅いに違いない。
避難遅れの心配は少ないだろう。
僕は、立ち上がって言った。
「宮司さま、一緒に行きます、僕でよろしければ」
「はい、ぜひお願いします。お見せしたい物がまだあったのです、そこに」
善之助さんと僕のやり取りを聞いていた姫さまがなんとその時いきなり、思いのほかすくっと立った。まだ身体が弱っているはずなのに。
「…私も…行きます」
「駄目ですよ、危ないから。後藤さんと早く外の安全な場所にお逃げください」
「いや!いやです!姉さまを助けるの、姉さまの方を助けなければいけなかったというのに!」
「?…かしこまりました。…例のあの鏡のことですね、必ず、必ず善之助が持って戻って参りますから」
「いや!私も行きたいのです!心配はいりません。
きっと…この兄さまが守ってくれるわ!」
そう言うなり、何といきなり僕に抱きついてきたのだ。そのまま、まるで本当の兄に甘えるかのように僕の胸にもたれかかってきていた(後で気がついたんだけど、そこにお札を潜ませておいてあったのだった)。
たぶん、いきなり警戒心を解いたわけではなくて、抱っこしてそのまま連れて行って欲しいという時に、痩せた宮司の善之助さんより、とりあえず若くて元気そうな僕の方を選ぶべきと思ったに違いない。
それでも、僕はとても嬉しかった。
僕には弟しかいなかったし、こんなに可愛いらしい人が兄さまと呼んでくれて、心臓が高鳴っていた。
僕は、もう絶対に姫さまをお守りすると決めた。
それだけじゃない、絶対に鏡だろうが何だろうが、火の中から救い出してくる!と心に誓ったんだ。
だが、とてもじゃないけど、姫さまを抱いたままではきっと何も出来ない。身体の重さとかではなくて、集中できないかもしれなかったのだ。まだ少し熱の残っていたかもしれないほっそりとした身体は暖かく柔らかく、羽織からなのか、ほんのりお香のような香りがしていたし。
だから、善之助さんと2人で姫さまを諭した。廊下の外にいた藤木さんと後藤さんと3人で逃げることを優先して欲しいことを。
廊下にいた側近の2人は、僕が姫さまを腕に抱いて廊下に出てきたのを見て驚いていた。
善之助さんが指示を出した。
「内藤、お前は共に来い!藤木、お前はともかく後藤さんと姫さまをお守りして安全な場所に避難するように」
善之助さんと内藤さんと僕は、まだ火が出ていなかった廊下を走って、そのまま西の棟に向かったんだ。
走りながら、善之助さんは僕に鏡の話をしてくれた。
それは、とても古い鏡で、玉と共に門外不出と伝えられてきた物だったらしい。本当はさらにもう一つの宝物があったらしいのだが、それは悲しい理由で処分されてしまった伝説が残っているらしく、とにかく古い鏡を第一に救いださなければならなかった。
とにかく、姫さまが鏡を大切に思っていたのは……ある理由からだった。それはね、
?
「ごめん、一度ストップしようか?大丈夫?疲れてるみたいだね?
僕はちょっと調子に乗りすぎてたね。
遠慮なく言ってくれて良いのに」
ラインハルトは、夏美を見やった。
夏美は、ソファに座りながら、左手で右の二の腕を掴んで真剣な表情をしていた。
「最後まで聞いていたいんですけど、何かちょっと…」
「夏美?本当にごめん、君はとても疲れた顔をしてる。それ、楽な姿勢なの?
僕には、そうは見えないんだけど。いったんトイレ休憩でもする?」
「…ごめんなさい。トイレはまだ大丈夫だと思うんですけど。せっかく話してくれてるのに」
「話を丁寧にやろうとすると、長くなってしまうね、ごめん。
僕はすごく喉が渇いたよ。お茶にする?ん?コーヒーにする?インスタントでもいい?
ああ、君は座っていて。僕がやるから」
「ありがとうございます。でも、ライさんこそ疲れてません?お見舞いに来た私が…」
「あー大丈夫。夏美がここに来て、僕の話を聞いてくれてるだけで、本当に元気になるよ。ここから僕が大活躍したから、盛りに盛ってかっこいい話を延々としようとしてたからね。いったん休憩した方が好都合」
「はい、お願いします。それからまた続きを聞かせてください」
ラインハルトが手早く2人分のコーヒーを入れてカップボードの側から戻ってくる。
「はい、どうぞ。なんか夏美はやっぱり顔が青いね?貧血みたいに。
話の中でさ、どこか辛いところがあった?
このインターバルで、少し君のコメントとか質問とかあったら、聞きたいんだけど」
「辛いと言う箇所は、話の中にはなかったんですけど。でも…」
夏美はちょっと言い淀んでから、言葉を継いだ。
「上手く説明出来ないので、ちょっとライさんの話から脱線していってしまうかもしれないんですけど、今、困っていることがあって、少しだけ私の方の話も聞いてくれますか?」
「うん、もちろんだよ。脱線大歓迎だし、困っていることを優先しようよ」
夏美が、ほっとした顔をする。
「えーと、ライさんが先日、私に大天使さまがドラゴンを退治する夢を見た話をしてくれたじゃないですか。でも、ライさんにはドラゴンがずっと裸の女の人に見えていた話を…。
私もね、龍が出てくる夢を見たんです。
それはたぶん、私が以前から繰り返し見ていた夢で、いつも起きるとちゃんと夢の内容を覚えてられなかったのに、この間はかなりの部分を覚えていました。
でもね、私の夢ではね、ライさんの夢と逆なんです。
女の子がね、龍になってしまったみたいなんです。私にはドラゴンか龍にしか見えないんです、女の子の思考があり、セリフ?も女の子の声が聞こえるのに。
女の子はね、大好きだった騎士みたいな人にうっかり大ケガをさせてしまって、慌て宝珠を取り出してその人を助けようとしていたんです」
「…ふぅん」
ラインハルトは、マグカップを見つめて何か考えている。
先日、あんなに熱心に相槌を打って話を聞いてくれていたライさんなのに…?
今日は、あまり興味がないの?
夏美は不安になるが、話を続ける。
「その龍が宝珠を取り出した場面は、とても辛かった場面なんですけど…聞きたいですか?」
「聞きたくなったらそこを聞くから、君の困っていることをなるべく早く教えて。
僕は、君のことが心配だから」
顔を上げたラインハルトの青い瞳は真剣で、向けられたまっすぐな視線に夏美はドキドキした。
違う、ライさんは興味がないんじゃない。心配して一生懸命に私の話を聞き取ろうとしてくれているんだ。
「それであのう、大したことじゃないし、なにか痛いわけじゃ、全然ないんですけど…。
その、たぶん本当は女の子のはずの龍がね、宝珠を取り出したところと似たようなところが、私もトクントクンとするんです。
ライさんのお話の途中から、まるで宝珠が反応しているみたいに」