32 《神社にて》 (1)
中山町は、確かT市の西側に位置するS市にある町だ。町の名前を聞いたことがある程度であまり馴染みがないので、夏美は行った覚えはない。主要幹線道路だけを便利に走ってしまうと立ち寄れないような、里山の風景も楽しめる郊外と言って良いかもしれない。そんな馴染みのない、どちらかといえば遠く感じるような場所なのに迎えに来てくれた真凛さんの運転で細い抜け道をどんどん通り、あっという間に中山町に到着した。そこから途中、ザーッと通り雨に降られたり、トンネルを通ったりして、方向感覚がわからなくなってしまったので、夏美は道も覚えられなかった。林の中を抜けていくので木にぶつかりそうな道路を走っていると、ふいに前方の木の間から金色に光っている小さな風見鶏が見えた。
「あの風見鶏が見えたらすぐですから」
と真凛さんが言い、それからかなり背の高い木立の中の小道に入って風見鶏は見えなくなったけど、そのまま道路が開けた先にいきなり大きな屋敷全体が出現して圧倒された。
緑青色のフェンスに囲まれた、西欧風の煉瓦の壁の屋敷は、まるで博物館のようにみえる立派な建物だった。大きな門扉が自動で開き、建物の前庭には、芝生と生垣で構成されている小さな迷路みたいな散歩道みたいな物が見えた。その後ろには、噴水のようなものがある。噴水のさらに横に、小さな教会みたいな、礼拝堂みたいなものが建っている。入り口の横に太い円柱がどっしりと一本づつ、まるでアクセントのようになっている。片方が白、片方が黒の円柱で対になっている。どこかで見た構図が実体化しているみたいだなとは感じたのだが、元の構図が何だったのか思い出せそうで思い出せない。
あー、東洋でも大きなお寺の入り口に仁王像みたいなものが対になって立っているのよね、そんな感じなんだけど、西洋のあの白と黒の柱はどこにあるのだったっけ…。
「すごいですね、博物館か、まるでどこかの大学のキャンパスみたいですね」
「そうねー、確かにそんな感じにも見えるわね。ちなみにこの裏には私達社員用のマンションもあるのよ。もちろん、社員は住まいも自由選択できるんだけど、格安だからたくさんの人が住んでいるわ」
楕円形のスロープの先の車寄せに車が止まると、屋敷脇の通用口から若い青年が出て来て、会釈をした。真凛さんから車の鍵を預かると、その山本という青年が車を駐車場に運ぶ算段になっていたようである。快活に挨拶し、きびきびと去っていった。
大きな玄関扉が開き、姫野さんが完璧な姿勢で立っていた。
本当に姫野さんはお話しに出てきそうなイケメン執事さんだっ!と指を指してしまいそうな衝動を抑えつけるのに苦労する夏美であった。黒い正装がやっぱり一番似合っていてかっこいい。どうせならモノクル(片眼鏡)なんかも着けていただけたら…。
「…お待ちしておりました。ようこそ、夏美様。どうぞ中へ」
玄関ホールだけで、ダンスの練習が出来そうである。大きな階段の奥、突き当たりの空間の一部は吹き抜けになっていて高い位置にステンドグラスがあるとのことで、床に色のついた光の影がぼんやりと落ちている。
博物館ならば、この見どころのありそうな建物をじっくり見せていただきたいところだが、ライさんのお見舞いに来たので、夏美は大人しく姫野さんの跡をついて行く。
応接間は、焦げ茶を基調とし、窓枠等も焦げ茶でベージュ色の壁紙を引き締めている。高い位置から青いカーテンがドレープのきいた柱のように縦のラインを強調した、知的な書斎然とした落ち着きのある空間であった。
「やぁ、いらっしゃい」
少し照れ臭そうにラインハルトが奥のテーブルのソファ席から、まるで伸びをするかのように手を振って、手招きをしてくれた。ソフトホワイトのゆったりとしたドレスシャツに濃色のスラックスというリラックスした姿である。
そちらのソファのコーナーのそばにはピアノとガラス扉のある書棚があり、
「ライさん、風邪はいかがですか?」と尋ねながら、そちらへ進んでいったのだが。またまたつい気に入ってしまうものをラインハルトの横に発見してしまい、眼が釘付けになる。
「うん、もう、すっかり良くなったよ」
というラインハルトも、夏美の視線に気づく。
「…気に入った?」
「すごいですねー。ごめんなさい、こんなお手本みたいなフレンチウインドウ、たぶんめったに見れないのではないかと思います。すごく素敵ですね」
キラキラした眼で、そのまま背の高いフレンチウインドウを見つめてしまう。
「こらこら、君って本当に…僕のことなんて少ししか心配してくれなかったんだろう。ま、どうせただの夏風邪だし、すっかり良くなったんだけど」
「す、すみません、だって今、普通にライさんが元気そうにそこにいてくれて、それだけで安心しちゃったんですよ。
それでこの一角、このレースのかかり具合といい、この窓際の小さなテーブルといい、ごめんなさい、ずっと頭の中にあった、憧れの景色がいきなり具体的に現れてしまった衝撃は大きいんです」
真凛さんがくすくす笑う。
「これ、この窓はどこに行けるんですか…?…うわぁ、可愛い」
石畳みの通路から、小さな木立に通じているみたいであった。枝に小鳥が数羽止まったり、小さく羽ばたいて場所を入れ替わったりして遊んでいる。下の水盤では、数羽が水を跳ねかせて浴びている。
「え?もしかして、今中庭へ出て行きたいのかい?」
「今じゃなくて良いです。あとでバーンと開けてもいいですか?」
「ああ(笑)。まるで、親戚の子供が初めてうちに遊びに来たような感じだな」
「ごめんなさい、よそのおうちではしゃいでしまって。でも、日常とかけはなれたような感じで、見学できる洋館みたいなものがあるじゃないですか、そんな感じです」
姫野さんとマルセルさんもお茶を持ってきてくれて、5人でお茶を楽しむことになった。
「そんなにお気に召したのでしたら、よろしかったです。基本的にマスターのラインハルト様のお好みの調度品を揃えております。そのフレンチウインドウを眺めているだけでリラックス出来ますよね。
青のカーテンをかっちりと架けるようにしたのは、ラインハルト様で。わざと長めにして、尾長鶏の尾のように枝垂れているような風情にレースカーテンを掛けたのは、従姉妹のエリザベス様らしいですよ」
とマルセルさんが説明してくれた。
「うん、以前に遊びに来てくれた時にね」
「とても良いセンスをお持ちの方なんですね」
「ええ、後で夏美様にぜひお目にかけたい小さな食堂があるのですが、それはエリザベス様のアイデアでコーディネートしております。ふだんのお洋服も、とてもお洒落な方なんですよ」
と姫野さんも笑顔で説明する。
「姫野さんも、今日はお元気そうで良かったです。先日は私がワルツの練習を混乱させてしまい、お疲れのご様子でしたので、すみませんでした」
「おお、夏美様はお優しい。わたくしはちょっと…自分の力を奪われていたらしいのですが、なんとか戻していただきましたので」
「??…そうなんですか…」
マルセルさんはくすくす笑い
「姫野は優しい性格なのでね。どなたかにしてやられたようで」
ラインハルトが、コホっと小さな咳をする。
「でも、まぁ、姫野のお陰で物事が本当に上手く進みましたのでね、マスターにも姫野にも感謝しているところです」
「そういうことでわたくしもお役立て出来たようで…ええ、なによりでございます」
ラインハルトは、そんな話に混ざらず、
「さ、せっかく夏美が持って来てくれたお菓子をみんなで食べようよ」
と席を軽々と立った。マルセルさんと姫野さんが立ち上がったのだが、どうしても一緒に手伝いたいようである。カップボードでいそいそと自分の気に入っているらしいお皿を出していた。それからリネンの引き出しを開け慣れた手つきでナプキンを出し、戻ってくる。夏美に
「じゃ、これを並べて貰ってもいい?」
と渡そうとしたので、夏美は手を出して受け取ったのだが、何か小さい棘みたいなものが右手に触れて痛みを感じた。夏美は小声で
「きゃっ」
と手を引っ込めた。
「あ、ごめん、夏美。大丈夫?…僕の指輪の金具が君を引っ掻いてしまったみたいだ」
「あ、はい、大丈夫です」
見れば小さな引っ掻き傷が出来て、血が滲んでいる。
慌てて、マルセルさんが飛んで来た。姫野さんは逆に薬箱を取りに行ったようである。
「お見せください、夏美様。おお、お可哀想に。血が出ていますよ」
「あ、そうですけど。痛いというより驚いて、大きな声が出ただけで。ごめんなさい、皆さまに気をつかわせて。本当にそんなに痛くないんです」
「いや、そんなことないよ。大事な指だもの。ごめん、夏美。さっきからぐらついてるなとは思っていたのに。紋章の指輪なんて先に外しておけば良かった」
そのまま夏美は全員に囲まれて5ミリくらいの小さな傷に手厚い手当てを受け、大袈裟過ぎて笑いたくなるくらいである。絆創膏を貼るのがイケメン姫野さんで、そのどアップにチャームされそうになったくらいだ。
賑やかなお茶が終わると、姫野さん、マルセルさん、真凛さんは気を利かせて席を外してくれた。
「さ、それこそお二方で取り組んでいることがおありなのでしょう?
夏美様がいらしたので、マスターもすっかり元気になったようですし、どうぞご存分におすすめください。呼んでくだされば、また参りますので」
「帰りもきちんと私がお送りしますからね、ご心配なく」
「ありがとうございます」
「さ、本題の宝珠の話をしようか。
どうする?僕から話をする?それとも君から話をする?」
「私、少しお聞きしたいことがあるので、えーと、ライさんに一枚カードをめくっていただきたいんです」
「おおー、夏美、君は良い人だね、僕のカード論の話を忘れずに入れてくれてありがとう」
「はい、私、ライさんのあの話、かなり気に入っているんですよ。それに、最近ようやく私、子供っぽ過ぎて人間関係、気づかないうちに色々とへまをやってきたような気がしていてとても気が咎めているので、ライさんの人間関係論?みたいなものを一緒に学ぼうかと思って」
「そうなのか、お互いに悩みは多いようだね、頑張ろう。さてと、何を聞きたい?」
「ライさんが神主さんか宮司さんに宝珠をもらった話が聞きたいんですけど」
「なるほど…君は、どうやら君も何か調べたみたいだね」
「ええ、私の親戚にどこかの神社で巫女さんをやっていた人がいたみたいなんです」
ライさんは、私からそう聞いても驚いたりはしなかった。どこまで聞いたのかとも言わなかった。そうっとうなづき、
「僕のわかっている範囲のことを話して説明をする約束だったからね、少し長くなるかもしれないけど、今夏美の持って来てくれたお見舞いのお菓子を食べたから、大丈夫だよね?」
「はい」
「その前にちょっと確認していい?
あれから怖い夢か宝珠の出てくる夢を見たとか、宝珠の音とか声とか聞こえたなんてことはあった?」
「はい、だからライさんに会って話がしたかったんです」
ラインハルトは、夏美の瞳をじっと見つめた。
「そうか、怖い思いをしないためのお守りになればと思って、マスコットのイルカをあげたんだけどな、あまり効果がなかったのかな」
「いいえ、イルカのソフィーはずっとそばにいてくれて、すごく癒されてますよ、ほら今日もここに」
夏美はバッグを持ち上げて見せた。
「うん、連れて歩いてくれてるんだなぁと思ってた。名前までつけて使ってくれて嬉しいよ」
「気持ちが落ち着く気がするんです」
「この部屋もどう?落ち着けそうだろう?
あとでさっき姫野が話してた小さな食堂に案内するよ。そこはまぁ僕の感想だとね。落ち着けるというよりは、そうだな、お行儀は悪いかもしれないけど、食器をカチャカチャいわせながらオムレツをぱくつきたくなるような、場所なんだ。ちょっと想像しておいて。で、この僕の説明が的外れかどうか、後で感想を聞かせて欲しいな」
「とても楽しみです」
「夏美が、建物とか部屋のことにそんなに興味があるなんて知らなかったけど、そういえばあの『Azurite』の部屋も気に入っていたみたいだものね」
「ええ、本当に。あの部屋は独特の雰囲気がありましたよね」
「宇宙から地球を眺めているような気持ちになれるって言ってたよね?」
「ええ、きれいな蒼に緑が混ざっているところが好きなんです」
「そうだ、そう言っていたから。君にAzuriteの原石をプレゼントするよ」
小さな密封されたガラス壺の中に入っている蒼いAzuriteの原石だった。壺の両側に取っ手のようになっている輪っかがある。その片方に銀のチェーンが通してあって、ペンダントのように作られていた。
「え?そんな、なにか申し訳ないです。こんな素敵なものを頂く理由もないのに…」
「『お守りにしたい』って、夏美はあの時に言っていただろう?
僕が宝珠を探して回ったせいで怖い思いをさせたし、もしかしたらこれからも…迷惑をかけてしまうかもしれないから。まだまだ謎だらけの宝珠だからね。
だから、お守りとして持っていてくれたら、僕も少しは安心できて嬉しいんだけど。
この原石はね、一番最近産出された石なんだよ。とても深いところに鉱脈があったんだよね。僕の友人が、ずいぶん無理をしてくれて取って来てくれたんだ」
「そんな…。申し訳なさすぎて余計にいただけません…」
「うーん、僕の説明って逆効果をもたらすのかな…。夏美に渡したいけど、探しにいけない僕の代わりに頑張ってくれた友人の気持ちを無にするわけにもいかず…。彼は今、僕のふるさとで療養中で、君がこの石を受け取ってくれなかったなんて、とても言えないよ。ね、助けると思って、遠慮なんてしないでくれるといいんだけど」
「…わかりました、とても嬉しいので、素直に受け取ります。ありがとうございます」
「良かった。石は変に加工しないで、その瓶の中に固定だけしてある。密閉してあるけど、それでも少しずつ変質してマラカイト部分が増えていくだろうねー」
「そこも素敵な部分だと思います。石と共に同じ時を過ごしているみたいじゃないですか?」
「うん、そうやってAzuriteを褒めてくれる君の言葉でいろいろ考えることができてね、この間も話したけど。
僕も、石と共に同じ時を歩んでいきたいと思う。
じゃ、お守りを受け取ってもらったから話を始めるよ。なるべく正直に話すけど、何か辛い部分とかがあったら、ストップをかけて」
「?…はい、わかりました」
夏美はドキドキする。
ライさんの話も、辛い話なのだろうか?
それで気を遣って先にお守りをプレゼントしてくれたのだろうか?
自分の見た夢の中では、龍の女の子?は騎士を助けて死んでしまっていたようで、あんなに悲しい話になってしまうのだろうか?
あの女の子と残された騎士が望んだように、あの女の子は生まれ変われることが出来たのだろうか?
そうして、愛し合う2人が望んだようにめぐりあえることは出来たのだろうか?
自分は夢を見ているだけで、助けることなんて何も出来ない傍観者だったけど、ライさんももしかしたら、そんなもどかしい悲しい思いをしてきたのかもしれない。
ラインハルトは、真面目な顔で話を始める。