31 《神の刻印より乖離する自我を調え》 (7)
斎藤さんと遥も早目に到着していたので、おしゃべりをしながら、姫野さんの登場を待つ。遥にも、髪の毛が伸びたねと言われて、夏美はリハーサル室の大きな鏡を見る。一部の壁にバレエのレッスン用のバーが設置してあるが、そこが鏡貼りなのである。ここまで大きな鏡だとあっけらかんとしていて、怖さのかけらもない。
「本当だ」
独り言を言ってみる。思っていたよりも髪が伸びている。ついこの間まで少年ぽい?くらいのショートヘアだと言われてたのに。
髪を切ったの、いつだったっけ?
日本人らしい黒い髪は少し重く見えてしまって損だから、切るか染めるかした方がいいと美容院で言われて、軽い気持ちで切ったんだけど。
「夏美…?」
「あ、遥、他に何か手伝えることある?準備を手伝うつもりで来たんだけど」
「ううん、今さっき夏美は、名札まできちんと揃えてくれたじゃない。早目に来て準備運動をしてくれるだけでもいいし、真凛さんのサポートしてくれるだけでも助かる」
「えっ?そうなの?あれくらいではなんだか申し訳ないんだけど…私」
「大丈夫、今日がまだ初日だからだよ。レッスン中も夏美にはデモをしてもらったり、真凛さんの手伝いをしてもらったり、たぶん一番疲れるだろうと思うわ。最後の方なんてきっとクタクタになるかもよ?」
グランドホテルは隅から隅まで管理が行き届いているから、掃除をする隙間も残っていないのは当然かもしれないが。自分としては何か役割を決めてもらっていないと落ち着かない。
「あ、遥、さっき髪の毛の話、途中になってしまったけど、このまま伸ばしておいた方がいいよね?」
「そうなの。なるべくそのままでね。本番直前にヘアとメイクのプロが仕上げる時にまた色々いじることになるかもしれないけど、せっかくきれいな艶のある黒い髪だもの。少し伸ばしておいて欲しいかな。あ、軽くパーマかけたいとかは、全然OKだから。
ごめんね、しばらく、夏美は私の素材みたいになってしまうわね」
「どうぞどうぞ、なるべくリクエストにお応え出来るようにするね」
初練習だからなのか、姫野さんは少し緊張した面持ちで足早にリハーサルルームに入ってきた。遅刻した訳ではなくて、皆が早すぎただけなのに頰を赤らめてちょっとドギマギしてるみたいだ。先日は落ち着いたイケメン執事さん極まれりって感じだったのに、ギャップが可愛い!とか思ってしまった。姫野さんの少し後ろからサングラスをかけた銀色に近い金髪の長い髪を後ろでまとめている、いかにも外国人の人が入ってくる。
「え?マルセル…?マルセルじゃないの!」
真凛さんが、まるで親を見つけた子犬のように、嬉しそうに駆け寄っていった。
マルセル…何か懐かしい響きだ。どこかでその名前を聞いたように思うのは何故なんだろう…?と夏美は不思議でならない。
「ボスと一緒に日本へ…?あちらでご用があるのではないですか、だって…」
真凛さんの興奮をよそにマルセルさんは落ち着いた笑顔で、しーっ、お静かに。内緒なんですよとでも言うように、自分の唇に人差し指を当てている。
とても冷静沈着な女騎士みたいな人なんだろうと、夏美は勝手に真凛さんのことを評価していたのだが、ああ、こういう可愛らしい?面もあるのかと、ちょっとびっくりした。姫野さんのことだけでなく、真凛さんのギャップにもほっこりとギャップ萌えする。
ギャップって言っちゃっていいのかな。自分が気づかないでいただけなのでは?
誰かと少し触れ合っただけでは、まだその人のことをよく知らないのは当たり前なんだ。その誰かの本当の姿の一部分を見たに過ぎないのだ。
自分はもしかしたら無頓着過ぎて、人間というものを一色だけで塗り絵をするような観察の仕方で、その人のキャラを判断して決めつけてしまっていたのかもしれない。この人は怒りっぽい、この人は陽気だと。
怒りっぽい人にも涙もろい面があったり、陽気な人だって、つんけんしたい時があるのに。
自分は、『君らしくないね』という言葉に対して反発を覚えるくせに、逆に自分の方が他の人を一つの型にはめて評価していたのかもしれない。
ふと気づくと、マルセルさんは微笑んで、真凛さんとハグをして頰にキスしあっていた。そうかー。ライさんが先日解説してくれた、国際的な?ハグの挨拶はこんな感じなのねーと夏美はひそかに感動している。いやらしい感じもしなかったし、恋人同士には見えない感じだった。辛い時にも支え合い、励ましあっていた友達が再会した、そんな感じ。男だ女だという前に、本当に心から信頼しあっている同士のハグで、これなら互いのパートナーの前でも正々堂々と出来るハグだなぁと思った。
誰かが以前『男女間には友情は成立しない』と言っていたけど、もうその言葉は古いなと夏美は思う。同性同士でも恋や愛が普通に成立する時代なのだ。逆に異性同士で恋や愛じゃない友情が成立しても、何も不思議ではない。
そばで遥が言った。
「仲良しの久しぶりの再会なんだね、なんかジーンとする」
「うん、感動するね」
遥も自分と似たように感じていたみたいで、それもちょっと夏美は嬉しかった。
真凛さんが、全員にマルセルさんを紹介してくれた。
ライさんを子供の頃からお世話をしているというマルセルさんは、「暗い室内でもサングラスをかけさせていただいています。実は、少し目が悪いので」と言った。
「全く見えてないわけではないのですよ」とも付け加えた。
「マスターと日本へ来たのですが、マスターがとても姫野を心配しているので、今日は姫野のお供をしてこちらへお邪魔をすることになりまして。よろしくお願いします」
マスターというのは、どうやらライさんのことらしい。
確かに、姫野さんは先日会った時よりもとても緊張しているみたいで、ちょっと心配になるくらいのナイーブな良い人に見えた。
「ラインハルトは出張から戻ってきたのですが、夏風邪をひいているので欠席することになりまして」と居合わせた皆に詫びることから挨拶してくれた。自分のせいでもないのに。
先日会った時は、黒か濃紺のお洒落なワイシャツ姿がとても素敵で、ライさんと共に少し悪魔っぽい吸血鬼みたいなコスプレが似合うかもしれないと夏美は勝手に決めつけていたのに、そのダークな妄想を改めなくては。
マルセルさんは、ええと、どんな人なんだろう。集合時間にはまだ時間があり、それぞれに準備運動を始めたので、夏美はいつもの妄想観察を始めてしまう。
マルセルさんって、ライさんをどんな風にお世話をしているのだろう…。
真凛さんは女騎士に見えたけど、うーん、マルセルさんは絶対に騎士タイプではないな。暴れたりはしない、物静かな感じ。でも、何か気圧されるような威厳がある。先生タイプ?
お若く見えるから、とても爺やではないし、いっそ戦場には行かない家庭教師兼お医者さんとか看護師さんの男性版?
チビライさんを抱えてお尻ペンペンをするイメージが浮かんでくる。
イタズラをしているライさんの後ろから、白い長衣のマルセルさんが近づいて来て「おや、驚きましたね、今日のお勉強は、それでしたか?」と静かに言ってたり…。そんな感じ。
そうね、何か神々しい神殿みたいな祈りの場で神官を務めているのが似合いそうな人かもしれない。俗世間では滅多に見かけないような…。深い霧の奥を進んでいくと、まるで神の領域の入り口かのような神殿がそびえていて、入り口までの高い階段が見える。そこを昇り始めると、どこからともなく静かに現れる格の高い神官さんなのだ。そして、伝説の剣を賜りに来た勇者を出迎える。
「ご覚悟は出来ましたか?」
淡々と優しい口調で、決して勇者を脅かしているわけではなくて。ただ、神への畏れというものを普通の人よりもわかっていて、まだまだ技や精神の未熟な者がその先へと向かうことを心配していて祈るしかない辛さを噛み締めていて…。
そんな静かな妄想をうちやぶるかのごとく、賑やかに笑い合いながら、瑞季と加奈子ちゃん、花梨さんが揃って登場した。ロッカールームで一緒に着替えて意気投合して話に花が咲いたらしい。
そうやって順に全員、勢揃いをし、練習が始まった。瑞季と加奈子ちゃんは昔からあまり仲が良くないのではないかと夏美は思っていたのだが、全然そうでもなくて安心する。むしろ、今日はかなりの仲良しに見える。
ほっとする反面、今まで自分なりに誰かの気分を推論して(ある意味、自分なりに空気を読んで)行動してきたつもりだったけど、それって本当に大丈夫だったのかなぁと、逆に心配になる。判断ミスをして、余計な気遣いをして、事態を悪化させていたかもしれない。どちらかといえば、自分が人間関係上の失敗を量産していて全く気づいていなかった可能性もある。周囲が大目に見てくれてるだけだった、としたらどうしよう?
最近、自分自身のことも周囲のことも本当にわからなくなってしまっている。すくむ気持ちもあるけど、ネガティブな気持ちになり過ぎないようにしよう。とにかく、すくんでいる時も、笑顔とありがとう、なのだ。
両親が卒園式の時に自分宛に贈ってくれた言葉は
『笑顔とありがとうを大切に』
で、立ち竦んだ時にもそれさえ思い出してくれたら、どんなに勉強しないで、アホで悪い子になってくれてもいいと言われたことを忘れていない。だから、いざ困ってる時や、何も思いつかない時は、シンプルにそれだけをやると決めている。笑顔、そしてありがとう、でなんとかなる、と思い込む。
練習の前半は、ブルースとチャチャチャ、そしてジルバだった。4拍子のパーティダンスの基本のステップだけなので、さくさく進む。
途中、加奈子ちゃんと夏美とで、姫野さんと真凛さんの横でチャチャチャのお手本みたいに踊った。リズムはきちんと踏むが、割とおとなしめの表現の夏美に対して加奈子ちゃんはプロのように他人の目を惹きつけるような腕の振りをするので、とても勉強になった。それにやっぱり、溌剌とした明るいテンポの音楽は気持ちが良くて明るい気持ちにしてくれる。
「あの時のステップをちゃんと覚えていてくれてたんだね、夏美」
ほっとしたような顔をする加奈子ちゃん。
「加奈子ちゃんだって完璧に覚えてるじゃない」
「あー、ダメダメ、ごめん、私はもう加奈子ちゃんじゃないよ。
東京ではカナって呼ばれて、私はそれが気に入っているからそう呼んでくれる?」
「うん、わかったー」
「夏美は、あれ以来、ダンスなんて踊っていなかったんでしょう?
それで、その再現度。すごいと思うよ」
「ううん、リードしてくれてるの、カナだもの。私はカナのリードに合わせてるだけだもの、めっちゃ楽」
「私たち、これでメダルを獲得したんだもんね、あの頃は楽しかったねー」
「カナはやっぱり、あれからずっとダンスを習い続けていたの?」
「ううん、あれ以降、バレエとバイオリンばかり。チェロも弾くけど」
「そうだったんだ〜」
「バレエもつい2年くらい前まではガンガンやってたんだよ。大きな公演でブラックスワンの32連続グランヒュッテもやったんだから!」
「そうなんだ〜!凄いね」
と言ってみたものの、バレエは良くわからないので、とりあえず凄いことなんだろうと、適当に褒めてみる夏美だった。
「うん、それにね、パソドブレも踊れるようになったよ。あの時、敦に夏美を取られた気持ちが強かったからね、悔しくてあのあとずっと練習したんだもん。パソドブレを次踊るんなら、絶対、私。夏美と私が踊るんだって」
「すごいね…」
カナの奮闘ぶりには圧倒される。
瑞季もそうだが、負けず嫌いで良く勉強して張り合っていて、いつも胸を張って姿勢が良くて。同級生の男の子なんてほとんど蹴散らしていた感じだった。
カナなら、男装して闘牛士を演じても似合うなぁと思った。どうせなら男のカナと女のカナが存在したりして、息を合わせてその2人が踊ったら、どんなにすごいだろうかと想像してしまう。
「東京からつかの間の休息でこっちに帰ってきて、ちょうど夏美に会いたいと思っていたからこうやって練習に押しかけて来ちゃったけど。夏美の彼氏さんって…今日はお休みなのね、すごく残念」
「か、彼氏?…えーと…」
否定しようとしたら、向こうから瑞季が手でバツを作り、めちゃブロックサインを出している。なんでなんで?
私に彼氏がいた方が都合がいいの? なにか勝手な設定の話でもしたのかなぁ?
「あー、すごいカッコいい人なんだってね?
あのイケメン執事さんより素敵なの?」
「え?…それはどうなんだろう…あのね、」
と言いかけたが、カナが話をどんどん進めていく。
「ま、仕方ないかー。とりあえず夏美、おめでとうね、11月の本番のパーティには出席したい気持ちはあるんだけど、私、この秋からアメリカの大学に入学する準備のために、練習には出席出来ないんだよね。
姫野さんと遥さんと瑞季に頼み込んで、今日だけ特別に来たの」
「え?そうだったの?…そうかー。私、勝手にずっと来てくれる気がしていたのに…。カナは、まだ学生さんなんだよね?」
「うん、あれからいろいろあったんだよ、やり直したいと思うまでウダウダしてたんだよ、本当は」
「え?そうなの?なんか意外…知らなかったよ、ごめん」
そう言えば、カナが東京の大学を卒業したのかとか、就職したのかどうかも、人の噂も何も聞いていなかったことを夏美は思い出す。というか、正直、誰かが何かすごいことをしたとか、逆に誰かが何かとんでもないことをしたとか、普段から自分はあまり興味がないのだ。やはり人として性格が冷たいのかなと気になってしまう。そうだ、ここは自分のことなんて説明していないで、カナの話をどんどんしてもらおう。
カナは、あっけらかんとした笑顔で言った。
「うん、意外でしょ。そう言えるようになるまでが、ホント実は長かったんだー。
キャラ的に、回り道とか無駄なことをしてる、弱い自分は認めたくなかったし。
やり直したいと思っての再チャレンジの受験も落ちちゃってたらどうしようかとか、ここ最近ずっと不安だったんだけど。そんな時にイケメン執事さんと瑞季とで夏美混じりの話をしてたから、つい頼みこんじゃってね。『昔、夏美と一緒に踊ってたの、私なんですよー』なんて。
とりあえず、夏美と会いたかったから。夏美が幸せになってるって聞くだけですごく元気が出たよ。大人になって、お互いずっと男の子嫌いだったら、夏美は私と一緒にずっと暮らしてくれるって、約束してくれていたのにね、仕方ないかー」
「??…はい?」
「まぁ、いいわ。夏美は、瑞季とかひとみとかにいつも取られちゃってたし、私にはずっと永遠に順番回ってこないだろうと思っていたから(笑)。瑞季もさ、昔はつんけんした感じだったけど、今回の私の合格を聞いてから、すごい応援してくれてるし、ほんと一度こっちに戻って来て、みんなに会えて良かったよ。
さ、後半も頑張って踊ろう!、ここからワルツなんでしょ?ワルツ、私は大の得意分野だから」
三拍子のワルツは、姫野さん、真凛さん、カナ、花梨さんの見本を見る限りでは、そんなに難しくは見えなかった。
でも、基本ステップを1人でやるとなると、なかなかタイミングよく高低差をつけることが出来ずに苦戦した。三拍子のリズムの中で2拍めが高い上下動を繰り返すという説明に合わせてるつもりが、上手くいかない。
つい場を和ませようと夏美は
「ワン、ツーで高くなっていくでしょ?で、スリーでどっこいしょって、しゃがみこみたくならない?」
と冗談を言ったのだが、それが瑞季曰く
「言霊のような効果をもたらしてしまった、まるで呪いの言葉」
になってしまったらしく、夏美をも含めた初心者組が皆、苦戦する羽目になった。
「ワルツのリズムが、『ワン、ツー、どっこいしょ』としか聞こえなくなったわよ」と何度も笑い合っているうちに、その悪い流れから抜け出せなくなってしまったのである。
「どうしてロマンチックなワルツが、シャドーで自習してもらっているうちにお笑いネタになりかけてるのよ」と真凛さんが立て直しに来てくれたのだが…。
結局、姫野さんなどの上手な男性のリードがないと上手く踊れない人続出で、後半、姫野さんはモテモテ過ぎてクタクタになっていた。
遥がポソッと
「イケメンって、どんなにやつれても、やっぱりどこまでもイケメンなんだねー」
と至極当然のことを言っていた。
不思議なことに、マルセルさんはその時まで部屋の隅のソファに静かに座っていたのだが、なんと姫野さんを見かねてなのか補助の先生役として、2、3回ワルツを普通にスムーズに踊ったのだ。誰ともぶつからず、にである。
夏美も一度踊ってもらえた。
すぐにすんなりと踊れて褒めてくれたので、何かプラスアルファを教えてくださるのかと思ったが、そんなことはなかった。ライさんだったら、そこからもう少し難しいステップを応用のように混ぜてくるのでちょっと期待したのだが、物足りないくらいに基本のステップをきちんと繰り返す人だった。でも、おかげで変なルーティンの罠(自分が原因を作ってしまったのだけど)からは抜け出せた感じでもある。
3拍めを考え過ぎなければいいみたいだ。夏美はそう感じた。
やはり、2拍めが波の一番高い所ならば、1と3はわざとらしいくらいに低く頑張ろう?みたいに素人が考えるのは間違っていたみたいだ。でも、ウィンナーワルツよりとても曲が遅く感じるので、何か変な余裕があるというか。で、工夫しようと思って参考にしてしまったのが、姫野さんの長い足がぐんと伸び縮みするところだったんだけど…。反省。
お辞儀をして、離れる時に
「火曜日、いらっしゃるのですね。お待ちしておりますから」と言われた。
「はい、お邪魔します」
「そろそろ、時は満ちたのでしょう…。どうかマスターをご信頼くださいますように」
「?」
言葉の意味がわからな過ぎて、聞き返そうかと思ったが、そのまま向こうへ行ってしまった。
優しい笑顔で不思議なことを言うマルセルさん。いったい何のことなんだろう。やはり、浮世離れした神官みたいに思えてならなかった。