28 Nightmare 〜 Ⅱ 〜
夢の中で、自分は空に浮いていた。
翼を持って飛んでるのかどうか、わからない。
あれれ、自分って飛べたっけ?と思う。
自分が何者なのか?とも思う。が、そんなことよりも。
グライダーのように、すうっとまっすぐに空を水平に切り裂きながら進んでいるのは、とても気持ちが良かった。飛ぶってこんなに簡単なことだったんだ、忘れないようにしよう。
月も出ていない闇夜のようだった。
岩山が点在している野原、草原がだらだらと広がっている。なんとなくシルエットで判断できる程度の暗さのようだ。だが、夜目が利くのか、自分には良く見えている。
高みから急降下したりするのが面白い。どれだけ速く滑空できるかやってみようか。
ばさり、と大きな翼をはためかせて方向転換した。
翼があるじゃん、自分。立派な翼だ、しかも白銀色か、その美しさが自分のものである愉悦。一度はためかせただけなのに、ぐんと一気に上昇する力強さ。
美しくて強いなんて、私、完璧じゃない?
すでに自分は、惨めさとは無縁な生き物になることが出来た。
突き出た岩が見える。あそこまで行ってみよう。一度あの岩の上に止まってから、もっとこの力を試してみようかと思いついた。
騎士が数名、自分の後ろを追って来ている。
最も早く追いすがって来たのは、集団の中で指示を出している若い騎士だった。一定距離を置いて馬を止めて、他の者を制止した。
兜の面頬を上げ、訝しげにこちらを見ている。まっすぐな青い瞳が誰かを必死で探している。彼もまた夜目が利くというのか…?その騎士は、松明やカンテラの類いを持ってはいなかった。
そして、こちらに向かって何か叫んだが、何を言っているのかわからない。
こちらも何か言ってやったつもりだが、口から出た声は凄まじい咆哮だった。
瞬間、そこにいた全員が凍りついた。自分もだ。
いつのまにか、自分がドラゴンになっている。そして、悠然と騎士達を見下ろしている。彼ら人間はあまりにも小さくてつまらない存在にしか見えない。
彼らは青ざめた顔をして、何か相談をしていた。どうやら居なくなった女の子を探しているようだ。馬鹿みたい。
ねぇ、姉様? 私達、ここにいるのにね。
貴方は、姉様と私を引き離して、別々に閉じ込めていたのよね?
魔法をかけて湖の中の城に閉じ込めておこうとしていたのね?
貴方は…貴方が一番欲しがっていたのは、白蛇竜の力。白蛇竜の宝珠。
何かを伝えようと思ったが、やはり、言葉にはならない。ただ吼えた。
ドラゴンは人間の言葉が話せない。それはきっと当たり前のことなんだろう。
次に自分の口から出たのは、言葉でも炎でもなく、何か液のようだった。毒液かもしれない。
最前線にいた若い騎士にかかったようで、慌て布で頭を拭いている。周囲の人間がたちまち色めき立つ。だって、貴方は、皆にとって待ち望んだ希望の光、大切な人だもの。
若い騎士が制するのを無視して、彼の前に庇うように出て矢を射かけてくる者もいたが、竜の艶めく鱗に弾かれてパラパラ落ちていくのが見えた。雨粒が当たったくらいにしか感じない。
「まさか…!」と叫んだのかもしれない、若い騎士はこちらを青い目で睨みつけてきた。魔法なんて、きっと効かないわよ?
どう?貴方はこの力が欲しかったんでしょう?
これが究極の形。全てを凌駕する究極の力。
いきなり足場の岩が崩れた。ぐらついたが、岩など、ただの足場。
そうか!私にじゃなくて、岩を砕く魔法をかけていたのか。
大丈夫、飛べばいいだけだもの。勝ち誇って咆哮した。気持ち良かった。
軽々と飛翔する。
もう、この地に留まる必要などないわ!
故郷の空を目指して。故郷の湖を目指して。
辛く悲しいことから目を背けて、私はこのまま逃げることができる…
そして…あなたを知らなかった頃の私に戻れる…
深追いをやめろと言っているらしい制止を振り切り、若い騎士はどこまでも追ってきた。こちらの狙いをどうやら察知しているようだ。結界の境界線への最短ルート。道は悪路だが、青ざめた顔で馬を疾走させている。部下が誰もついて来れない速度だった。
だけど、この竜の速度はどう?
たちまち、彼の姿は豆粒より小さくなって、見えなくなる。
結界の魔法め!
この、幾重にも重なる魔法!
結界を破ろうとしているのに、結界にかかっている魔法は複雑に絡み合い、強力だった。
吹きつける炎くらいでは一部の層だけが焦げるだけで、びくともしなかった。
力を入れて翼の先で打ったものの、翼にひりつく痛みが走る。前脚の鉤爪をかけようにも、今度はぐんにゃりとして捉え難く包み込まれそうになる。
見えない網に突進してる小鳥のように、自分の力が発揮出来ないことに焦れた。
時が虚しく過ぎる。
他に何か!全てを凌駕する力で穴を穿ち、広げなくては…。
あの人に追いつかれる…!
もう閉じ込められるのは嫌!
騙されるのは嫌!
愛していたのに…。
愛してくれていたのに…。
私を阻むのなら、許さない…!
だめ、あの人を殺さないで…!
逃げられるのなら、人を殺したくない…!
気配を感じ、向き直った。
自分の中に相反する感情を抱えたまま、《敵》と対峙する。
槍を構えたあの人が立っていた。ずっと愛するはずだった人が。
いつの間にか馬から降りていたらしい。魔法を使って移動したとしたら、すでに魔力は乏しいはず。自分の勝利と自由はもう目の前にある、はずだ。
互いに言葉は通じない。
結界を破ろうとした竜と、竜を殺す槍を持つ者。
竜の宝珠を手に入れようとした者と、閉じ込められていた竜。
急降下して攻撃を仕掛けてみても、かわされる。向こうも同様だ。向こうの攻撃をこちらも避ける。上昇して空の高みを利用してよけられる分、自分の方が有利のはずだった。
何かまた叫んでる…!
やはり言葉は通じない…。
結界の魔法が動き始めている。弱まったのか…?
いや、違う。知らない間に収縮を始めている。見えない網が狭まってきて翼が広げられない。もがいた。
やはり姉様の言った通りなのね…。
私を捕まえるために、宝珠を手に入れるために騙して城へ連れて来たのね…?
槍が突き出されたのを、からくも避けた。
私を逃がさないために、とうとう私を殺そうとしている。
追い詰めにかかってくる。
翼など持ってないはずなのに、高く跳んで勢いをつけて滑空する所作は、無駄などなく、以前訓練で見た以上に美しい。そして素早かった。
油断なく動きを見ていても、どこを狙っているのかわからなかった。
大事な脚に槍が突き立てられて、思わず悲鳴を上げた。
自由を求めて羽ばたいた翼を無力化されて、こんどは脚まで。
竜殺しの白銀の槍が鱗を貫いている。騎士が容赦なく、槍を引き抜く。傷口から竜の血が飛び散った。
ひどい、痛い!
泣きながら吼えた。
「正気に戻って!…なんとか助けてあげるから」
?あの人の言葉が聞こえた…?
脚に受けた痛みのせいなのか、言葉が通じる…?
と思う間もなく、いきなり手を伸ばして来たので、振り切ろうとして思わず翼を振るった。捕まりたくない気持ちだった。素早く飛び退ったその騎士は突き出ていた岩に乗ったが、竜の翼の先が直撃していて岩を砕いた。
飛んでる…。先ほどの自分のように別の足場に飛び移ろうとした。それを見ながらも、自分も、あまりの痛さでバランスを崩していた。体勢を整えようとした竜の尻尾の先が直撃する。
魔力が枯渇していたのか、その人はあっけなく落下していく。
自分の前脚で慌てて捕まえようとしたが間に合わない…。自分がとても強いと思っていた身体を持ってしても、助けるすべはなかった。
かろうじて受け身を取っていたらしく、意識はあるようだ。脚の付け根から血が流れているのが見える。背中の方にも大きな傷を受けたらしく、みるみるうちに血溜まりが出来つつあった。
竜は地上に降りて騎士の方を覗き込んだまま、動けなかった。竜の姿のまま、嘆いた。
「正気に戻れた…?ごめん、怪我をさせたくはなかったけど。ここからは、結界からは、その状態では、出せない」
死にそうな大怪我をしている人が言うせりふではない、と思った。
「私…私の言葉が聞こえる?わかる?」
「うん。…どう?…元に戻れそう…?僕には…今、もう…力がない」
ふるふると首を振った。
「ふつうの人間が暮らしている社会に君を出すわけにいかない。結界からは出せないし、たぶん元に戻れないのなら、…君も退治されて…しまうな。
いっそ…仲良く一緒に逝くか(笑)」
ふるふると首を振った。
回りを見渡したけど、誰もいない。姉様の気配も消えている。未だに従者が追いついてこないなんて…。
その人は、苦しそうに息をつきながら、それでも優しい声でふふっと笑って、呟いた。
「ひどいな、1人で淋しく逝くのか。君に見限られたことが…一番きついよね」
長い睫毛を伏せて、ほうっと苦しい息を吐いた。
この人は死んでしまう。貴方を死なせるつもりではなかったのに…。
蘇生役がいなくても、1人だけは助かる。宝珠の力で。
宝珠がどこにあるか、自分にはわかっている。牙は届かないけれども…。
竜はいきなり、2本の前脚の鉤爪で、自分の胸の辺りをバリバリと力を込めて掻きむしった。大量の血が飛び散った。身体が熱い。痛みに呻きながら、祈った。宝珠を確実に渡し終わるまで自制心と正気を保てるように、と。
異様な気配に気がつき、若い騎士は瀕死のまま、青い目を見開いた。
「やめろ!…なんてことを…
楽に死ねる薬がある。わかる?僕の背嚢を…」
血だらけの竜の前脚の鉤爪の間に光る宝珠がある。動けない騎士の身体にそうっと押しつけた。その珠がぽうっと光って呼応し、竜を安心させた。
「まさか…これを取り出したのかッ?
僕に蘇生なんかやめろ!何を勝手に!」
「待ってて。…私、…生まれ変われるから」
「馬鹿な!そんな話を聞いたことはない!
戻すんだ、自分のために力を使ってくれ!」
良かった、私の言葉が通じてる。そして、貴方の声にも力が戻ってきている。
傷口が熱い。先ほどバタバタしていた周囲の木が燃えてるのに気づいて、口から水状のものを吐いて消す。
「…君がいない世界で生きていけるわけが…ないじゃないか」
涙が竜の目からこぼれ落ちる。それは光って、小さな珠状になった。
「お願い、死なないで。それも受け取って…!それは、私の…」
「やめてくれ…なんでこんなことに…」
「戻ってくるから。今度は、本当に貴方の力になるから」
もう、声が出ない。もう目も見えない。貴方が私の名前を呼んでるのが聞こえるけど。
ごめんなさい、もう謝ることもできない。
駆けつけてくる数頭の馬の気配がする。
大丈夫?間に合った?
故郷に戻れなかったね、姉様、みんな、ごめんなさい。
自由が欲しかったのにね、姉様、ごめんなさい。
でも、自由より命より…あの人を死なせたくない…!
貴方の優しい嘘に気づきながら、
そして貴方を疑いながら、
貴方から逃げられないことを嘆きながら、
それでも…貴方を愛していたから…。
夏美は、タオルケットを抱いてぼろぼろ泣いたまま、目を覚ました。
泣きながら目を覚ますのは、これでいったい何度目なんだろう…。
そうだ、夢はいつもこんな感じだったような気がする。いつもすぐに内容を忘れてしまうのに、今日はなぜ覚えていられるんだろう。記憶が数分しか続かないと困るから、猛然と手帳に書きなぐってメモを残した。
あの若い騎士が、もしもライさんだったとしたら…?良く似ていたけれど。
神社の火事で、宝珠を神主さんだか宮司さんだかにもらったという話と合わなくなる。
あ、合わなくていいのか。これは私の夢なのだから。当たり前の話だけど、ライさんにはライさんの夢があって。現実とは違っていてもいい話なんだから。
とにかく、自分の夢の中では、宝珠の記憶としては、悲恋物語だったのだろう。
あの女の子は生まれ変われることが出来たのだろうか?
胸の辺りで、トクンと音がしたような気がする。
『今度こそ、貴方を…助けてあげたいの』
自分の心の底から声が聞こえる気がする。
たぶん、私のいつもの妄想だ。
宝珠が話をするわけはないじゃない、夏美はまだ眠く、まどろんでいる。
夏美の唇が微かに動いて、無意識のままにうわ言をつぶやく。
『約束するわ…私、貴方の元に戻るから』