23 Nightmare 〜 Ⅰ 〜
この箇所にある文章は、「18」の最後部分♣︎♣︎♣︎♣︎♣︎にある話の続きとなっております。男主人公ラインハルトが、自分の見た夢と彼の感想を語っております(フィクションです)。
「じゃ、僕が見た夢の中にでてきた天使さまの話の続きをするね。君の家に到着する前に終わるかな?
ナビゲートはよろしくね」
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夢の中で、僕は空に浮いていた。
翼を持って飛んでるわけではないようだけど、何か飛んでるような夢を見たことない?
とにかく、そんな感じで曇り空の下、ふわふわと飛んでる感じだった。
ふと下を見ると、灰色に近い紺色の海があった。
その海の上に、女の人が浮かんで漂っているんだ。
それが、まぁ、全裸なんだ。古い絵に『草上の昼食』みたいなタイトルの絵があるんだけど、背景と設定がピクニックっぽいのに何故、全裸か?とツッコミたいところだけど、そんな感じ。本当にあっけらかんと全裸なんだ。
彼女は僕に気づくと、手招きをした。
僕は近寄って、でも空に浮いたまま、彼女に尋ねた。
「何をしているんですか?」と。
でも、正直ちょっと上の空で適当に話しかけただけだったかもしれない。
波間に漂う彼女の身体はとても白く、豊満で柔らかそうだったんだ。少しやつれた表情の顔は気に入らなかったんだけど、とにかく身体がね、良かったんだ。
え?エッチな表現なんてしていない、そんな気持ちはなくて、お布団とかソファのふかふか感を思い起こさせる身体だった。包まれたら暖かくて柔らかいんだろうなと。
彼女は言った。
自分はとても悪いもので、沢山の罪を犯したものだと。だから元にいた場所から追われてしまったのだと。行く場所もないまま川に入り、とりあえず向こう岸を目指したものの、途方にくれている、と。
僕は驚いた。四方八方を見渡しても、岸なんて見えない。ずっと海のど真ん中にいると思っていたんだからね。
いったい彼女はどっちから来たのか?
どっちへ向かうのが正解なのか?
いや、そもそもここにいる僕はいったいどっちから来たのか?
何をしているのか?
彼女に聞いた「何をしているんですか?」の質問に、僕自身が答えられなかった。
それなのに、彼女は言った。
「私を助けてください。私をリードして私を向こう岸に渡してください。
この水の冷たさで身体が凍えてきました」
そりゃそうだろうよ、全裸なんだからね。え?しつこい?仕方ないだろう?正直に言うが、僕は目をそらすことも出来ず、しげしげと見ていたんだ。
「女の裸が珍しいのですね?」
そう、彼女がなまめかしく言った。囁くような声音で。僕はすっかり魅了されてしまったらしくて、かなり彼女に近づいていた。
僕は彼女の問いには答えず、
「上から見ていても正直、向こう岸がどちらか教えてあげられないんです。そこかしこ、全部海なので」
彼女は絶望した声で、呻いた。
「私は逃げてきたのです。逃げていきたいのに、どうすればいいのでしょう?」
僕は、唯一の答えを思いついた。
「神さまにすがってみませんか?
貴女はさっき自分のことを悪いものだと言ってましたが、悔い改めれば神さまは助けてくれると、僕は習いました」
彼女は諦め顔で、笑った。
「とてもとても悪いものが悔い改めたところで、信じてはもらえないでしょうし。
罪を償えと命じられるだけでしょうよ。
私が自分の命を全部差し出しても罪を償いきれない場合、どうなるのでしょうか?」
…答えに詰まった。そこまで僕は考えたことがなかった。
その時、遠くの空の一部が光って、その光の矢の先が水に落ちていくのが見えた。
「かみなり!おおっ、どうしよう、私はかみなりが怖い」
彼女はひどくうろたえて、バチャバチャと暴れ始めた。
ようやく、僕の耳にも雷鳴が聞こえた。
「落ち着いて。雷はまだずいぶんと遠いようですよ。
そんな風にしても前に進まないし。貴女が溺れてしまいますよ」
でも全く僕の話を聞こうともしないで彼女は泣きわめき、身悶えし、叫んでいた。
「助けて、私を助けて!」
僕は思わず、彼女に手を伸ばして、その途端に彼女は全身で僕にしがみついてきた。
思った通りだった。柔らかくて暖かくてもちもちした身体だった。
彼女は、絶望した先にあるようなやけくそな笑い方をした。
「おや、私は天使を捕まえたのかもしれないよ?
もう遅いのだ、どうせ死ぬのなら、おまえを道連れにしてやろうではないか」
僕はその展開に驚き、困惑した。一瞬彼女を振りほどこうかと思ったけど、一度手を差し伸べて、いきなり引っ込めるなんて彼女もかわいそうだし、自分としてもとてもみっともないことだと思った。
「落ち着いて!僕は天使なんかじゃない。だけど、一緒に行ってあげますから、神さまに許しを乞いましょう」
「いやだ、もう私は裁かれてしまう、いっそおまえが罪に堕ちて苦しむがいいさ。
おまえは何もわかっていないようだからねぇ。罪の何たるか悪の何たるかを知らずにわかったような顔で、悔い改めることを語るとは」
「このままでは本当に溺れてしまいますよ。心を鎮めて。僕、出来るだけ貴女をとりなしてあげますから」
「来た!…もう遅い…!」
「何がきた…の?」
僕達の頭上がいやにビカビカ光っていた。
これは雷なんかじゃない。光が強すぎて目がくらみ何も見えない。一瞬息を呑んだが、勇気を出して僕は彼女の身体を支え直し、
「お願い、殺さないで。この人は悔い改めにきたんです」
と頼んだ。…すでに彼女は、僕にしがみついたり暴れかかったりするのをやめていた。
静かな優しい声が残酷な事実をただ述べる。
《手をお放し。…無駄なことを。…それは、そのドラゴンは、もう死んでいる》
僕は驚いて、支えていた彼女を見た。彼女は、目を見開いたまま、こと切れていた。
信じられなかった、僕の耳にはまだ、彼女の怯えた声の響きが残っていたくらいだ。
信じられなかった、さっきまで生き生きと動いていた肉体から一瞬にして命が消えるなんて。
僕が誰かを救おうかどうしようか悩んだり迷ったりする時間の長さなんて、ただのつまらない無駄の集積なのか。
絶望した僕が手を放すと、その白くて柔らかくて暖かかった身体は波間に漂って消えていく。
悪いことをして生きていたこと
悔い改めようかと思ったこと
僕に対して何もわからないとなじりたいくらい、辛くてヤケになっていたこと
在ったことが、無駄という言葉のもとに無かったかのようにされる。
僕は、納得がいかなかった。
「ドラゴンじゃない!今、自分の罪を認めて悔い改めているところだったんだ!」
僕は、僕に話しかけてきた存在にむしゃぶりついた、とても腹が立っていた。
その時は頭がかっとしていたけど、今にして思えば、たぶんこんなことだったと思う。
僕はずっと神さまのお役に立ちたくて、そういう機会を狙っていたというのに邪魔された気持ちだった。それでやけを起こしたんだ。絶対にはたき落とされると思っていたのに、手が届いてしまった。その方は全く無防備でいたんだ。
その方の身体に僕の指の跡がついた。
パイやパンの種をこねたことがある?柔らかくて、指の跡がつくんだよ。この方の身体も柔らかいのか?試しに別の場所を押してみた。やはり、指の跡がついた。驚いて、それを僕はじっと見てた。
《ふふ》
笑っている?何故、笑うんだ?何がおかしいんだ?
僕はただ、かっかかっかとしていた。ぎゅーぎゅーと指で押し続けた。無駄かもしれないと思いながら。
不思議な指の跡は一つも消えず、くっきりとしてきた。
目だ!これは無数の目だ!
僕は、怖いのを我慢して手を止めて、その無数の目を見返した。
僕は、何も間違っていないぞ!
無数の目、に見えたものは孔雀の雄の持つ尾羽の、あの楕円の部分だった。
孔雀の羽文様を持つ天使と言えば、知識では知っていたけど、これがそう、なのか?
「まさか、貴方は!」とてもお名前を口に出せなかった。
後ろに下がって、せめて恭順の意でも示そうかと思ったが、身体が動かなかった。
どうやら僕は、さっきからそのお方に捕まえられてしまっていたらしかった。僕が勝手に、そのお方に自分から近づいていった気がしていただけだった。
どちらにせよ、僕はそのお方にひどい無礼を働いていたんだ。
心から憧れていた、大天使ミカエル様に対して。
僕は確かめようと思ったのだろう、一瞬、どアップで間近に顔を見てしまった。不思議な瞳だった。その瞳に僕が映っていないのも不思議だったが、瞳の中に三日月と星ともう一つ何かが見えそうと思った途端に、どさりと僕は浜辺に下ろされた。さっきまで浜辺なんか見当たらなかったのに。
僕は慌てて頭を下げたけど、初めて全身のお姿を見たので、つい見とれてしまったんだ。
剣と天秤をお持ちの、大天使ミカエル様だった。本当に、絵で描かれている通りだと、変なことを考えてしまった。いつものように頭の中で声が聞こえてくる。
《私がわからないのか》
「…すみません」
《ドラゴンのとりなしをしようとして殺されかけるとは》
「あれはドラゴンじゃなくて女の人です。悔い改めたいと言ったのです」
《……物の良し悪しもわからないのか。
それすらわからない者であるお前が、悪いものまで集めて神の国へと導きたいというのか》
明らかに不快になられていたと思う。
大天使ミカエル様と知った上で、僕はまだ口答えしていたのだから。しかも、僕は全身ずぶ濡れのまま、ガタガタ震えていた。水の中に落ちているところを見つかるのが、これで何回目かもわからなかった。
《では、知恵の珠はどこにある、というのか》
「……?…あのう?僕は…?」
間抜けな僕は、知らない質問には答えられず、それどころかそのタイミングでつい、自分が一番聞きたかったことを聞いてしまった。自分のことだ。
僕はずいぶん前に、大天使ミカエル様に光の槍で右肩の内側を突き刺されて死んでいく夢を見たんだ。
《…?》
「あのー、僕、今、ここで殺されるのでしょうか?」
剣と天秤が見えていたので、気になって仕方がなかったのだ。
《ふん…》
答えてはもらえなかった。こんなやりとりしてる時点で気づけということかもしれない。事実、瞬殺されたものを目前で見たんだからね。結果的にその夢の中では、僕は殺されずに済んだ。
で、起きてから数日後、お祖父様たちに話したんだけど。
それで「お前は聖書のお話で影響を受けただけなんだよ、感受性豊かで結構、結構」
と大いに笑われた。でも、僕には言えなかったことがある。
知恵の珠の話だ。僕は、本当に今それがどこにあるのかは知らない。でも、それをかつてどなたが持っていたか知っていたのだ。
一度そのお方がお持ちになっている珠をすべて空間に展開していたのを見たことがある。たぶんそれも夢だったんだろうけど。
全ての珠が自ら光を放ち、自ら意思を持ち、そのお方を取り巻いてじゃれついているようにもみえた。そのお方を中心にした天体模型のように見えた。素晴らしい光景だった。
大天使ミカエル様に瓜二つのそのお顔、お姿はまるで神さまそのものかのように神々しかった。暁の明星と称えられるにふさわしいお方だった。
だから、もし僕が夢の中で呆けて自分の運命のことばかり考えていなければ
「あのお方が、珠をそのまま持っていかれたのではないでしょうか」
と言ってしまったかもしれない。そんなことを言わずに済んで良かった。
ルシフェル様はもう堕天されたのだから。天界の3分の1以上の天使があのお方に従って堕天されたと習ったことはあるけど。
僕は、たとえ堕天されようとも、悪の烙印を押されようとも、やはりあのお方、ルシフェル様のことも、とても好きなんだ。地獄にいたとしても、大天使ミカエル様と敵対するものだと教えられた後でも。
光と闇、天使と悪魔、相対しているさまざまなものすべて、その状態であるがまま、神様のみもとにいるのが認められているのだと僕は思っているんだ。