20 《選択の時に》 (6)
「姫野…!、お前、なに?、わざわざ来たのかい?」
ラインハルトが邪険な口調で言ったが、真凛にはラインハルトがいつも通り嬉しそうにしているようにしか見えない。
「ええ、わざわざ参りましたとも。確かわたくし、ラインハルト様にダンス講師を任されておりましたので。
音響チェックだけではなく、お二方がお立ち寄りになって踊りのチェックをするかもしれないと伺いまして、慌てて参上致しました。
ただいまのダンスを見逃さなくて、ようございました」
と言葉を切って、傍らにいる夏美に丁寧にお辞儀をした。
「松本夏美様、初めまして。執事の姫野でございます。以後、よろしくお願い致します」
ラインハルトと姫野の会話の様子をボーっと見とれていた夏美は、いきなり自分に話しかけられて少し慌てる。
「あ、初めまして。こちらこそよろしくお願いします」
びっくりです、って本人に言いそうになる。たぶん、言われ慣れてるのでしょうけど。
すごい…!漫画か何かのイケメン執事のイラストをハサミできれいに切り取り、擬人化魔法をかけると、こういう人が出現するに違いない。
「で、どうだった?」
ワクワクした声で、ラインハルトが質問する。
「想像していた以上の出来ばえでございますね。
ラインハルト様と夏美様は、息もぴったりで素晴らしいペアだと思います。博物館に行く振りをして、どこかでお二方で朝から練習されていたのかと思うくらいですよ。デモンストレーションダンスで他の方々と組み替えを予定はしているのですが、それを躊躇してしまうくらいですね」
ラインハルトが最高の笑顔で夏美にハイタッチをする。夏美もそれに応じて
「ありがとうございます」
と姫野に笑顔で言った。
「とりあえず、ダンスの相性が悪くなくて、本当に良かった。
遥にも、遥の設定通りに進めて大丈夫らしいと報告できそうだよ」
「宜しゅうございましたね、ラインハルト様。
夏美様にパートナーを引き受けていただけたのが確定して、わたくしもホッと致しました」
「はい!精一杯、頑張ります」
「しかし、一つだけ悩ましいのですが。
もしも遥さまのご要望が、ウィンナーワルツではなくて本当は普通のワルツだったと言われたらどうしましょうか?
日本でのダンスパーティでは、ウィンナーワルツをあまり踊らないのでポピュラーではないそうなのですが」
「え?ウィンナーワルツはワルツじゃないと思われてるのかい?」
「はい、オーストリアやフランスなどでは、ウィンナーワルツは踊る機会がたくさんあるのですが、日本では、今ほとんど踊られていません。
パーティでは、もっとスローテンポのワルツを踊るのが一般的で、ウィンナーワルツは区別されています。
すみません、ちょっとワルツの曲をお願いします」
斎藤が、ワルツの曲をかけた。姫野と真凛が見本として少し踊ってみせてくれる。長身同士なので、とても見映えがいい。ゆったりと大きなウェーブを2人で描いていくような感じだ。
「ああ、そうか、なるほどー。でも、同じ3拍子でスピード感が違うだけなのになぁ。ウィンナーワルツが踊られていないとはもったいない」
とラインハルト。
「軽快に動くというより、ワルツの方はゆったりと柔らかな感じですね」
と夏美も応じる。今、軽快に動けたから、ウィンナーワルツのリズムがすごく楽しかったんだけど。テンポがスローな分、表現できるしどころがたくさんあり、ミスをごまかすのは難しそうな気がした。
「すみません、わたくしがワルツかウィンナーワルツかの確認を遥様に先にしておいた方がよろしかったですね」
と姫野が言うと、ラインハルトがさりげなくフォローした。
「いや、それは僕もだけど。なんとなく今日はそれが踊りたくて真凛に音楽を用意してもらっておいたんだから」
真凛が熱く語る。
「私は、メインゲストのヴィルヘルム様のためにもオーストリア貴族らしく踊るウィンナーワルツを採用するのがいいと思います。遥様にリクエストしてお願いしたいくらいですけど。パーティでは流さない曲でもデモでは踊っていいじゃないですか。
今、とてもジーンとしましたし、夏美は素晴らしかったし。
ウィーンのオーパンバルみたいにドレスアップすると映えると思います」
「オーパンバルって、あの女性が白いドレスを着て踊る上流社会の舞踏会ですよね?
とてもあのような格調高い感じには」
という夏美を遮り、ラインハルトが主張する。
「僕は踊りたいけどなー、僕は格調高い人間だし」
それをさらりと流して姫野が言った。
「なるほど、オーパンバルのイメージですか!
たぶん遥様のイメージされてたのはそれですよ。
夏美様に白いドレスを着ていただいて、ラインハルト様とワルツを踊っていただきたいとおっしゃられていたので。で、わたくしは図らずもシンデレラの舞踏会を想像してたのですが、遥様のイメージはオーパンバル風の舞踏会だったのかもしれないですね」
と姫野が真面目な顔で言う。
「そうですよ、あと姫野さん、ディズニー映画のシンデレラの挿入曲は確か途中ウィンナーワルツのリズムになっていたはずですけど?
とにかくお二人はとても上品で素敵でしたので、パーティでご披露するべきですよ」
と真凛が言う。
「みんな、とりあえずここまでで。総監督の遥に見せていないんだから、先走るのはやめようよ」
とラインハルトが言った。
「確かにそうでございます、遥様は大変楽しみに計画を練っておられますので、意外と厳しいダメ出しがあるかもしれません。皆様、どうかよろしくお願い申しあげます」
と斎藤が頭を下げた。
「そしてとりあえず、来週からの練習は普通の音源でやりますが、本番は生演奏ですから、お楽しみに」
と付け加えた。
「じゃ、夏美様とラインハルト様がお疲れでなければ、もう少し音楽をかけて他のダンスの感じも見させていただきましょうか?」
と姫野が言った。
「もし、わからない曲があったら、ご遠慮なくおっしゃってください。わたくしと後藤がさわりを踊ってお見せしますので。それで大体のイメージを掴んでいただきましょう」
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「夏美、今日はお疲れ様でした。一日中付き合ってもらってありがとう!」
とりあえず、焼き鳥屋さんで落ち着き、2人で乾杯の真似事をする。ライさんは運転があるし、自分も飲むと酔ってしまっても困るので、ソフトドリンク同士である。
「こちらこそ楽しかったです。皆様にお会いできたので、あのままこちらに全員で移動してきて宴会みたいにしたかったですねー」
「うん、僕もそう思ったんだけどね、先日メールしたら、遥も瑞季も今日は別の用事があるみたいだったしね。親睦会をやるとなると、黒田さんも誘ってあげたいのに、まだ皆と顔合わせしてないからね。結果的に僕の会社の人ばかりになってしまったら、夏美がもっと気の毒だし」
「お気遣い、ありがとうこざいます。真凛さんとももっとお話ししたかったのですけど」
「うん、真凛もそんな感じだったよね。また今度ダンスレッスンがちょっと進んだ頃、一度親睦を深めるためにも宴会をしようか」
「はい、ぜひお願いします。ダンス好きの真凛さんとライさん好きの姫野さんと音響オタクの斎藤さんがいて、久しぶりに部活動みたいで楽しくて」
「そう言ってくれると、巻き込んでしまった張本人としてホッと一安心だよ」
「ライさん、コレ、ライさんの分じゃないです?私?
じゃ、こっちのいももちを差し上げますね。
ここ、本当にタレも塩も、どちらも最高ですねー!」
「夏美がパクパク食べてくれるから、こちらも美味しさ倍増だよ」
「あー、ありがとうございます。でも、ちょっと今日は口惜しかったなー、ちょっとだけ」
「何が?」
「ダンスのことなんですけど。やはり結局、最初に踊ったウィンナーワルツが一番良かった気がしません?」
「そうかい?夏美は、だって、タンゴとか習っていないと言った割にはちゃんと踊れてたじゃない」
「ライさんがお上手だからですよー。私、全然ステップ分からずに最後ライさんに合わせて歩いているだけでしたよ。
そこが、ちょっと余計に口惜しかったんです。
ライさんと真凛さんが踊っていた時もきれいでしたし!」
「そう?嬉しいな、どこが良かった?」
「真凛さんとライさんが踊ってくれた時の、あのスローなんとかで」
「スローフォックストロットね」
「それです。ライさんの足先が柔らかくて、猫の足のように着地して体重を載せて送り出す、あの感じと、お二人の圧倒的な空間支配力!」
「ふふふ、すごい褒めてくれるね。真凛本人にもあとで言ってあげて」
「はい、あの時ね、ライさんが素敵なんで嬉しいと姫野さんがもうベタ褒めで」
「あはは(笑)。夏美に何か話しかけてるなとは思っていたけど。親バカの代わりのつもりなのかな?まぁ、ダンスは男に7割くらいの責任があるらしいからね。褒められると悪い気はしないけど。
でも僕も、夏美が少し口惜しそうかな?というのは、何となく伝わってきてた」
とラインハルトが、したり顔で笑った。
「何ですか?、ライさん」
「あのさ、夏美は気を悪くするかもしれないけど、僕は一緒にダンスをしていてちょっと夏美のことがわかってきた気がする」
「えー、本当ですか?」
「夏美は、自分のことを面倒くさがりのやる気の無い人みたいにいつも言ってるけど、実態は負けず嫌いの頑張り屋さんだと思う」
「うーん、そう思いますか?
自分では、外から自分をなかなか見られないので、客観的に見てどう、とか全然わからないんです」
「うん、頑張り屋さんで、しかも完璧主義者かなと、僕は思った。
姫野と真凛が夏美を『完璧です』と褒めるとようやくホッとするのを見てると、減点をとても恐れている人なのかなぁと思った。
逆にステップがわからなくてとりあえず僕のリードに合わせるしかない時、それでも合わせ方がかなり上手いと僕は感じたし、8割出来れば良いんじゃないって思うんだ。でも、夏美からは『早く満点を取りたいのに!』という焦燥感みたいな気迫が伝わってきた気がする。
知らないことは仕方がないはずなのに、きちんとやりたいというエネルギーみたいなのをすごく感じたよ」
「あー、それはあります。試験の点数とかで選別されながら生きてきたので、減点されるのがすごく嫌です。褒められることに飢えてるのかもしれない(笑)。
それに、お上手なライさんに合わせるだけなら、私以外の人がパートナーでも全然いいじゃないですかって思ってしまったので」
「そんなことないよ。夏美はね、1度目が全くわからなくてギクシャクしていても、次にそのステップが来ると合わせていくクオリティが高いんだよ。だから、すぐに上達する能力があって、僕はそこが羨ましいし、感心してたんだけどね。普通なら、君みたいに即座に対応する能力はないからね。
でも、途中からは僕と君とはパートナーじゃなくて、ライバル争いしてる感じだったよね」
「あ、それは正直ありました。
ライさんが主演男優賞を逃しても構わない、私は主演女優賞を取ってみせる、くらいの気持ちになってしまいました。
曲が始まったら、女性パートナーは恋人を演じるはずなのに。
最後は、なんだかだんだんムキになってしまっていましたねー」
「ま、迫力がある夏美も、とても素敵だよね。
いっそ僕達はパソドブレをやって、雄牛と闘牛士の立ち回りをした方が、いいかもしれない」
「良いですねー。番狂わせで雄牛が闘牛士をやっつけるバージョンなんかどうでしょう?」
「凄いよ、夏美。僕が君にやられるシナリオをぶっ込んできたよ。あまりにロマンチック過ぎて、僕の祖父に心配されてしまうだろうな(笑)」
「苦手のルンバよりもいいです。あー、ルンバのデモを踊れと言われませんように。早く何を重点的に練習すれば良いのか知りたいです」
「うん、姫野も夏美を見てそう思ったみたい。だから、デモで踊る曲と担当を早く決めて振り付けちゃって、それを練習するスタイルにするんだと思うよ。
パーティダンスは、基本のステップを覚えていくつか組み合わせて踊ればいいんだし。
まぁ、楽しもうよ。でも、ルンバはどうしても嫌みたいだったよね。ちょっとガチガチだった」
「あーいう大人の色気とムードって、苦手です。音楽もすごくゆっくりで間が辛いんです。全部チャチャチャに変更してもらいたいくらい」
「そうだね、真凛と夏美のチャチャチャが、すごく良かったよ。はつらつとしてて。本番でも一緒に踊ったらどう?」
「あー。でも、真凛さんのパートナーさんに見られたら、ちょっと申し訳ないような」
「大丈夫だよ、チャチャチャは。ルンバをラブラブで踊ったんだったら、ちょっとジェラシーを感じてしまうだろうけどね」
「そうですね。モダン系のダンスにないような表現の仕方ですよね。しかも、やれることがたくさんあって自由度が高いし。きれいなラインとか角度とか工夫できるところがたくさんあって、工夫しないと悔しいかも」
「夏美は、考えてた以上にダンスを好きなんだね、すごく熱心だよ」
「ダンスも表現したいこととか工夫したこととかをしっかり入れたステップが決まって当たり前のように踊れるとか、ランナーズハイみたいになってしまう瞬間を味わうと、ついはまってしまうんですよね」
ラテンダンスはモダンダンスと違い、ずっとホールドしていないから自由度が高いと思っていたのに、男性の腕の中にすっぽり包まれて横並びになって踊るステップがあり、まごまごしているうちにラインハルトの腕の中に上手なリードでおさめられてしまい、それが嫌というよりもとても楽に踊らせてもらって、回を重ねるごとにうまくそのリードに従えるようになり、気分が高揚するのを感じたのだ。
ライさんと踊っている時は、そのリードに従っていれば良いとさえ思った。迷う必要もなく、夏美は何も選択しなくてもいい。楽しかった。
ライさんに従って呼応していれば、楽に上手に踊れて気分が良くなってくる。美味しいお酒に溺れていくような陶酔感に似ている。
このまま何も考えずに、恋人の振りをしている操り人形のように美しいラインを見せて、もっと上手に踊りたくなってしまう。
少し疲れてきて、ルンバのスローなステップでライさんにもたれそうになった瞬間、そうまるでパソドブレの布のように自分が意思を持たぬ何ものかになってしまうような瞬間でさえも、上手に踊らせてくれるライさんに感謝しつつ、その高揚感で踊り切ることが出来た。逆に、自分の自我とか工夫とか表現なんて出さずに、素直にライさんに心まで預けてしまった方が上手く踊れるのかもしれない。
余計なことを考えずに、ずっとこのまま腕の中で踊っていたい、そう思わせてくれたライさんの力量にちょっと嫉妬してしまったのである。
「夏美、疲れたでしょう?夏はいつまでも明るいから、つい遅くまで引き止めてしまいそうだけど、そろそろ送ろうか?」
「あ!でも、あの、ライさんのさっきの天使さまの出てくるお話を聞かないことには帰れません」
「ああ、そうか」
その時だった。2人の席の背後を通っていた女性が転びそうになった。
それを目の端で認めたラインハルトがさっと腕を出して支えようとしたのだが、そんなに急に客が動くとは思わなかった、女性と向かい合う形で通路を逆方向から歩いてきた店員さんを遮ってしまった。そして、お冷やを入れてあったプラスチック製のコップをひっくり返させてしまった。
「あ、ごめん。余計なことをした」
とラインハルトは言ってなお女性を支えていたが、しっかり頭にコップ1杯分の水を浴びてしまった。
「お客様、大変申し訳ありません!」
「いや、僕が驚かせてしまったんだ、僕のせいだよ」
転びかけた女性もあたふたと
「いえ、私がつまずいたから支えてくださって、ありがとうございました」
「ううん、とにかくお水だったから、本当に気にしないで」
「すみませんでした」
と、店員さんがおしぼりを持ってきてくれた。それを受け取って自分でおでこのあたりを拭き取るラインハルト。
「水も滴る良い男になっちゃったけど。
どう、これで大丈夫かな、夏美?」
ラインハルトが夏美に尋ねたが、夏美は少し青ざめていた。硬い表情を無理に崩して笑顔で何か言おうとしているが、成功していない。唇がかすかに震えている。